佐藤博信編『中世東国の政治構造 中世東国論上』『中世東国の社会構造 中世東国論下』
評者:呉座 勇一
「日本歴史」722(2008.7)


 本書は、長く中世東国史の研究を主導してこられた佐藤博信氏の還暦を記念して編まれた論文集である。上下各巻がそれぞれ三部に構成され、両巻あわせて二十三本の論文を収める。また下巻の巻末には佐藤博信氏の著作目録が載せられている。本書に所収された重厚な諸論考を限られた紙幅の中で紹介するのは甚だ困難なことであるが、その概要を上下巻の部ごとに俯瞰しつつ若干の感想を付して責を塞ぐこととしたい。

 上巻・I「鎌倉府」は、阪田雄一「雑訴決断所と鎌倉将軍府」、松本一夫「南北朝・室町前期における幕府・鎌倉府間の使者」、小国浩寿「白旗一揆の分化と武州白旗一揆」、石橋一展「南北朝・室町期の関東護持僧について」から成る。
 阪田論文は、鎌倉将軍府には引付的権限は付与されておらず、雑訴決断所の出先機関的存在ではなかったと説く意欲作。
 松本論文は、幕府・鎌倉府間の使者を網羅的に検出し、その立場・形態・用件・滞在期間などを分類することで、両府間交渉の具体相を明らかにしたもの。なお松本氏は言及していないが、文和四年(一三五五)十一月に小田知春・海老名信濃守が幕府の使節として関東に下向している(『賢俊僧正日記』)。また永享の乱終結直後から永享十二年(一四四〇)にかけて、幕府はしばしば五山僧を「関東使節」「鎌倉使」として関東に派遣している(『蔭凉軒日録』)。これらの事例を併せて考察することが必要になろう。
 小国論文は、小山義政討伐の過程で鎌倉公方−武蔵、山内上杉氏−上野という分国支配の住み分けが行われ、これに対応して白旗一揆は国別に分化し、武州一揆と上州一揆が成立すると主張する。山内上杉氏が関東管領(武蔵守護を兼任)という形で武蔵に関与していることを考えると、やや疑問の残る説である。
 石橋論文は、鎌倉府における護持僧体制の全体像を詳細に描く。ただ関東護持僧といえども、頼印の東寺長者就任に見えるように京都の寺院社会と決して無縁ではない。この点を掘り下げていくと、議論に一層の広がりが生まれよう。

 上巻・U「古河公方」は、久保賢司「享徳の乱における足利成氏の誤算」、和氣俊行「下総国篠塚陣についての基礎的考察」、佐藤博信「室町・戦国期の下野小山氏に関する一考察」を収める。
 久保論文は、足利成氏の古河移座は、小栗城合戦の長期化や成氏の兄である勝長寿院成潤の離反といった想定外の事態により、鎌倉を放棄せざるを得なくなったための措置であり、当初から古河を本拠地にする意図はなかったとする。
 和氣論文は、『千学集抜粋』に記述された古河公方足利政氏・高基父子による下総国篠塚在陣を史実であると推定する。
 佐藤論文は、小山本宗家当主に次ぐ家格を誇った小山大勝大夫家の動静を通して、小山家当主と一族・家臣との関係を探る。

 上巻・V「地域権力」は、外山信司「戦国期千葉氏の元服」、簗瀬裕一「真里谷城跡出土遺物の歴史的位置」、今泉徹「戦国期佐竹南家の存在形態」、竹井英文「『房相一和』と戦国期東国社会」、平野明夫「関東領有期徳川氏家臣と豊臣政権」の五本。
 外山論文は、『千学集抜粋』の元服記事を分析し、千葉妙見宮における千葉氏嫡男の元服は、庶流ながら千葉宗家の地位を継承した馬加千葉氏・佐倉千葉氏や海上千葉氏が自己を正当化するための示威行為であると論じる。『千学集抜粋』全体の性格や『千学集』の成立過程にまで踏み込むと、より説得力が増すように思われる。
 簗瀬論文は真里谷城跡の位置づけを出土遺物の分析に基づき再考。真里谷武田氏の本拠地と比定してきた通説に対し、天文六年(一五三七)の武田氏の内紛に際して反惣領勢力が楯籠もった城であるという大野太平説を支持する。
 今泉論文は、佐竹氏の一門である南家の系譜と発給文書を整理し、南家は本宗家から強い保護・統制を受けており、南家の家産は本家のそれと未分化であったと結論づける。
 竹井論文は、天正五年(一五七七)に締結された北条氏と里見氏の同盟の内実を仔細に検証し、両者の同盟関係は小田原合戦まで継続したと述べる。
 平野論文は、徳川家康の関東転封後、井伊直政・本多忠勝・榊原康政らが、徳川氏家臣の立場を堅持しつつ豊臣秀吉の直臣になるという両属的性格を持ったことを明らかにしている。

 下巻・I「宿と町場の営み」は、加増啓二「中世『墨田渡』と隅田宿および石浜について」、湯浅治久「香取社宮中町の成立と変貌」、遠山成一「戦国後期房総における城下集落の存在形態」、滝川恒昭「中・近世移行期を生きた商人の一様態」の四篇を配する。歴史地理学的手法を交えた力作が目立つ。
 加増論文は、中世において隅田川の渡河点がどこにあったのかを追究したもの。中世前期と中世後期では渡河点の位置が異なると想定した点に特徴がある。
 湯浅論文は、在地領主による市町興行という昨今の研究動向を意識したもので、香取社大禰宜の大中臣民の資本投下によって成立した香取社宮中町が、十五世紀後半から徐々に住民のものになっていったことを指摘している。
 遠山論文は、房総の「内宿」地名を収集し、その地理的特質を検討したもの。
 滝川論文は、近年の移行期商人論の成果を踏まえつつ、里見氏の城下町館山を拠点として安房国内の商人を統括した特権商人岩崎氏の実態に迫った好論。会津の「商人司」簗田氏など他地域の特権商人との比較を進めることで、議論が更に発展していく可能性を有しており、興味が尽きない。

 下巻・U「人と物の交わり」は、盛本昌弘「中世の鎌倉と山林資源」、小森正明「常陸国久慈西郡と金沢称名寺について」、黒田基樹「戦国期東国の徳政」、日暮冬樹「大和田重清をめぐる人と地域」の四本より成る。
 盛本論文は、環境史の視点から、中世の鎌倉における植生と鎌倉で使用される材木・薪炭の確保や流通に関して検討を加えている。
 小森論文は、鎌倉末期から南北朝期にかけて称名寺領であった常陸国久慈西郡における同寺の所領経営などについて論じている。
 黒田論文は、戦国期の東国における徳政事例を悉皆的に検出し、個々について具体的に検討したもの。中世を〈飢饉の時代〉として捉える黒田氏の視座は本論文でも貫徹されている。
 日暮論文は『大和田重清日記』を丹念に読み込み、中近世移行期の東国武士の具体像を活写する。

 下巻・V「宗教と理念」は、坂井法曄「日蓮と鎌倉政権ノート」、植野英夫「中世末の密教僧の交衆と付法について」、佐藤博信「東国大名里見氏の歴史的性格」の三篇。
 坂井論文は、日蓮と鎌倉政権との関係について、得宗や得宗被官、得宗周囲の女性に焦点を当てて論ずる。
 植野論文は、上総国の新義真言宗の寺院文書を糸口に、中近世移行期の密教僧の都鄙往還などについて考察する。
 佐藤論文は、寺院史料や印文、伝記類、連歌師の紀行文など多様な史料を駆使して里見氏の支配理念を解明する。里見氏当主を思想面で支えるブレーンの存在を具体的に指摘している点が興味深い。

 本書で提出された論点は多岐にわたるため、浅学である評者の誤読や理解不足は多々あろうかと思う。執筆者一同のご寛恕を賜りたい。本書編者である佐藤博信氏の著作群および『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版、二〇〇六年)が相次いで上梓され、『南北朝遺文 関東編』(東京堂出版、二〇〇七年)の刊行も始まるなど、中世東国史研究は新段階を迎えようとしている。本書もまた、中世東国論の更なる進展に資することであろう。佐藤民らの益々の活躍を祈念しつつ擱筆したい。
(ござ・ゆういち 日本学術振興会特別研究員)




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