平野明夫著『徳川権力の形成と発展』
評 者:鍋本 由徳
掲載誌:「関東近世史研究」63(2007.10)


 本書は、著者が長年の研究のなかで発表した松平・徳川氏権力に関する論者を集め、再構成したものである。従来、戦国期の松平・徳川氏の分析は、江戸期に作成された家譜・記録類をもとにして分析されることが多く、いわゆる「松平・徳川中心史観」に基づいた内容となっていた。しかし、著者は可能な限り同時代の記録や文書を集め分析することで、江戸期において作為された松平・徳川氏像ではなく、当時の実像を描き出す手法を採りながら「松平・徳川中心史観」からの脱却を進めてきた。その一つの成果が、松平広忠までを描いた前著『三河松平一族』(新人物往来社、二〇〇二年)である。
 このたび刊行された著書は、一九八六年以後に発表された論考に新稿を加えたものである。本書の構成を以下に掲げる。

序論 松平・徳川氏研究の軌跡と本書の構成
 第一節 近世における松平・徳川氏研究の軌跡
 第二節 近現代における松平・徳川氏研究の軌跡
 第三節 本書の構成
第一章 戦国期の今川・徳川氏
 第一節 松平宗家と今川氏
 第二節 徳川氏と足利将軍
 第三節 三河統一期の支配体制
 第四節 徳川氏の起請文
第二章 織豊大名徳川氏
 第一節 徳川氏と織田氏
 第二節 豊臣政権下の徳川氏
 第三節 徳川氏の年中行事
 第四節 松平庶家とその家中
第三章 統一権力徳川氏
 第一節 江戸幕府の謡初
 第二節 徳川将軍家代替わりの起請文
結論 中近世移行期の権力

 構成からわかるように、本書は戦国期にとどまらず江戸期までを扱ったものである。ここに著者の明確な意思が現れる。著者が松平・徳川氏を扱うのは、地域有力者から大名権力へ成長し、統一権力へと上昇した唯一の権力であり、それが他大名と決定的に異なるためである。そこで、時期区分にもとづいて到達レベルを分析することによって大名権力と統一権力との質的差異を明らかにし、中近世移行期の権力の特質を描き出すことを本書の目的としたのである(六三頁)。なお、本書全体を通じて、宗主としての側面からは「松平氏・徳川氏」、安城松平家後裔の側面からは「松平家・徳川家」とあえて用語を使い分けている点にも着目したい。では、各章ごとに主な内容を紹介しておこう。

 序論は研究史整理および構成紹介である。
 この研究史整理では、近代以降のいわゆる「歴史学」的研究のみならず、江戸期における松平・徳川氏認識にまで遡る点に特徴がある。慶長八年(一六〇三)〜慶応三年(一八六七)を六段階に分けた。そして天保一二年(一八四一)に完成した『朝野旧聞■(ほう)藁』を、「松平・徳川中心史観」を排除し得ない状況の中で生み出された近現代歴史学における松平・徳川氏研究の出発点として位置づける。続いて近代における研究史を五段階に分け、「松平・徳川中心史観」からの脱却過程がまとめられ、戦国期・織豊期それぞれのなかで徳川氏を位置づける重要性を指摘する。

 第一章は、戦国期松平・徳川氏と上位権力である今川氏・足利将軍との関係について論じたものである。
第一節では今川氏との関係について、天文一五年(一五四六)の今川氏による吉田城攻め参陣や翌年の家康の今川氏への年頭参賀が主従関係の徴証であるが、「竹千代」が駿府へ移り、今川義元を烏帽子親として元服した天文一七年を以て主従関係の成立とする。また、松平氏が当主不在の時期にあっても支配機構が機能し続け、今川氏が松平宗家直轄地と家中衆を完全に今川氏知行地・直臣の中に組み込むことを断念した点を述べ、その画期を家康元服であり、元服が西三河支配の正統性の獲得であるとする。
 第二節では足利将軍と徳川氏との関係を論じる。具体的には家康による第一三代将軍足利義輝と十五代将軍義昭への献上儀礼や軍事行動をとりあげている。家康と将軍との直接交渉は永禄四年(一五六一)以後であり、それ以後家康は足利将軍の直臣であったとする。そして、家康は永禄九年の段階で義昭の出兵要請を受けており、信長と義昭の上洛の際は信長と義昭両者の出兵要請を受けていたとする。そして、義昭追放後、家康は義昭の出兵要請に応じないとはいえ、一色藤長宛書状などから義昭に対して好意的に接していたという。
 第三節では領国三河における支配体制を、従来同質であると評価されてきた「旗頭」酒井忠次と石川数正・家成の権限について再検討し、東三河と西三河の支配体制の差異について論じる。酒井忠次は、永禄七年の「吉田東三河之儀、申付候」と記した忠次宛家康判物や、同八年の赤羽根・高松百姓宛忠次書状をもとに、家康の命を在地へ伝達する地位にあった点とともに、忠次発給文書のなかに諸役免許文言があることから、不入権付与の権限を持ったとする。一方、石川数正・家成は、家康の意を奉ずるのみで、酒井のような寺領安堵や不入権付与の権限を持ち得なかったという。つまり、両者とも「旗頭」でありながらも、東三河は酒井忠次が在地領主の上位権力として支配し、西三河は家康が直接支配してその下に石川数正・家成がいたと結論づける。
 第四節は起請文から大名権力としての徳川氏を分析したものである。永禄七年以後に「富士・白山」を意図的に勧請し、慶長四年(一五九九)に江戸幕府の起請文様式に定式化するとの通説に対し、「富士・白山」が必須神仏ではなく、勧請神仏は宛所との信仰地域との関連があるという。そして、家康による起請文発給の契機や内容を、@主従制確認(身体保証・知行安堵・知行宛行など)、A大名間の盟約確認(盟約内容再確認)、B織豊政権への臣従・忠誠、C個人的契機(兵法相伝・身体保証)に分類されると指摘する。さらに家康の起請文は、酒井・石川連署起請文や使者の起請文、家康の知行宛行状との組み合わせで機能し、重臣起請文の取り交わしは大名権力が老臣の支持によって成立していたこと、国衆服属が起請文取り交わしではなく、見参によって成立することも併せて指摘する。

 第二章は、織田氏・豊臣氏と徳川氏との関係について論じたものである。
 第一節では織田・徳川同盟の成立、関係の変化、実態を分析する。まず今川氏と徳川氏との抗争が永禄三年から始まっており、家康は今川氏から自立していたという。そして桶狭間の戦い(永禄三年)直後に徳川氏は織田氏との戦いをやめ、相互不可侵条約(領土協定)を結んだとし、攻守同盟についてはその締結自体が課題であるとする。書札礼によって織田・徳川氏の関係変化をみると、天正元年四月から天正三年一一月を境にして等輩から下様の形式へと変化し、一方、天正二年・三年の信長宛家康書状では、直状厚礼の形式で書かれ、天正九年段階では披露状様式の最厚礼を採用していたという。続いて家康から信長への軍事援助が永禄一一年の織田氏上洛が初見で、以後元亀元年(一五七〇)の朝倉攻め・姉川の戦い、近江への出陣があるが、近江への出陣は将軍義昭の要請に応じたものであるという。一方、信長から家康への軍事援助は元亀三年三方原の戦いが初見で、天正三年の長篠の戦い段階で家康を「国衆」としていることから、織田氏が徳川氏を臣下と認識していたとする。
 第二節では徳川氏の豊臣氏への臣従過程をとりあげ、両氏の関係を書札礼と供奉の実像から分析し、さらに役負担・検地実施状況から従属関係の解明をめざす。清洲会議によって織田大名が代替の起請文を取り交わし、家康は織田大名として行動したとする。小牧の役は、秀吉の織田政権宿老から脱却しようとする動きと家康の織田大名の立場として動きのなかで起こる必然的な戦いであったとする。戦後、家康が豊臣大名として成立するのは、上洛ではなく見参にあり、徳川氏の家格は前田・毛利・大友各氏同様、嫡子が元服とともに公家成する家格であったとするが、元服後の昇進は他氏と異なり、徳川氏が羽柴一門としての待遇を受けていたとする。書札礼では秀吉宛家康書状は披露状様式、一方家康宛秀吉書状は他大名と別格の扱いであったという。そして家康をはじめ前田利家・上杉景勝ら五名が乗輿を許されたが、慶長元年(一五九六)の秀頼の聚楽第出行の際、家康には牛車が許されたという。徳川氏の五か国総検地・天正検地の評価について、秀吉の意向とは無関係であるとの見解が主流であったが、この点については大きく見解を事とする。つまり、太閤検地の目的は「在地掌握ではなく、諸大名へ軍役賦課するための知行表示基準を把握すること」(二六〇頁)、実施方法の統一が目的ではなく、最終的に石高換算できれば豊臣政権の検地意図が貫徹できるとする。そして五か国総検地・天正検地が俵高を使用したことを以て秀吉の意向を受けていない検地であるとの見解を否定する。天正一八年の小田原攻めで統一基準による軍役賦課が計画され、天正一四・一五年でそれが準備され始めたとすれば、天正一〇年代後半は豊臣政権の意向がなかったとは考えられず、徳川氏の五か国総検地・天正検地は豊臣政権の命令に基づくものであると指摘する。
 第三節では年中行事について論じる。徳川氏の行事では領国全体のもの、本城(浜松・駿府)・岡崎城それぞれ個別でおこなわれるものがあり、前者については正月参賀・謡初・上巳・重陽、後者は小正月・端午・七夕、徳川家の行事としての施餓鬼、と重層構造であったとする。領国全体の行事が一国支配の正統性を獲得したことの象徴であり、領国支配の正統性が各国ごとで獲得されたことが、本城・岡崎城それぞれでおこなわれる年中行事が生まれる要因があったという。また、正月参賀が老臣・側近と国衆に分化され、家臣一同が会する場ではなく個別に主従関係を再確認するもので、家臣相互の位置づけを確認するものとして謡初があるとする。端午については家康が肥前名護屋出陣中の秀忠による武蔵六所宮の流鏑馬神事への参加に着目し、徳川氏の関与を指摘する。
 第四節では松平庶家全体にわたる家中の結合関係を深溝松平・大給松平家を事例に論じる。外様国衆ではなく、大名と本国内国衆との関係に着目した点に特徴があり、深溝神社を深溝松平家・家中・領民を結ぶ存在と位置づけて深溝松平家を領主として家中との主従関係強化を図ったとし、大給松平家では起請文提出によって主従関係を確認することが当時の大給松平家の不安定性を示すという。松平庶家の不安定により、家中衆が松平庶家を盟主とした連合体であったことを想定させ、大名権力が介入することで家中を形成せざるをえなかったとする。

 第三章は統一権力としての徳川氏を論じたものである。
 第一節では謡初を開催主体である徳川氏の視点から、謡初に関する統計的分析から、謡初の場・次第・列席者・役職者・変容にわけて論じる。その時期は江戸期全体にわたるものであり、「酒井家本江戸幕府日記」で何度も確認して書かれたという慶安元年(一六四八)の謡初を基準にして論が進められる。江戸期の謡初を詳細に取り上げたもので付表が丁寧に作成され圧倒される。謡初の期日は正月二日であるが、承応四年(一六五五)以降三日に移され、当初は外様大名の参加はなかったが、元禄〜宝暦頃に外様大名の多くが参加し、披露役が酒井家から老中へと変化したという。織豊期と江戸期の質的差異として、通称改称の披露が寛永期以後見られなくなる点を指摘する。通称改称の披露が統一権力下では朝廷によって担われ、そこから、大名徳川氏と統一権力徳川氏のうち、後者がより公的権力となり、家に依存する権力から機構による権力への転換がみられ、大名権力から国家権力へと質的転換を遂げたと指摘する。
 第二節では代替誓詞の提出時期・提出者・手続き・様式から徳川氏権力の質的変化を論じた。代替誓詞は江戸期全体を通じて提出されたことから、近世において起請文形式が必要である理由として、神仏の前では身分的に対等となることから、それによって誓約内容が保証できた点を挙げる。提出者は一七歳以上の御目見以後の大名と旗本であり、将軍と主従関係を結ぶのは御目見以上の大名と旗本であるという。代替誓詞の提出が将軍就任を契機にするものではないことから、大名たちが将軍ではなく徳川家当主と主従関係を結んだとする。そして最後に戦国期と江戸期の起請文を比較し、近世では将軍からの起請文は出されないこと、戦国期は譜代・被官層の提出がないことに対し、近世では譜代層までもが提出する違いを指摘する。そして近世の主従関係は代替誓詞と朱印改めの二つの契機を以て成立することを付記する。

 結論は第一章から第三章の総括とともに、各段階での権力の差異をまとめる。豊臣政権下の権力と戦国期権力との違いを統一権力の有無に求める。近世化は個々の事情を超えたところで全国同一の政策を遂行することで促進するという。江戸期に入り、徳川権力はより全国的な統一権力となり、近代的官僚機構を持つ権力ヘと質的転換を遂げ、近代国家が芽生えていたとする。主従関係については、戦国期・織豊期は起請文を交換し、見参することによって確認されたが、江戸期は起請文によって成立するとした。その背景として統一政権の安定が信用できる社会を生んだことに求める。さらに主従関係が個と個との関係にあり、将軍家と大名家ではなく、将軍家当主と大名家当主との関係であることを示した。

 以上、本書の主な内容を述べたが、最後に二、三の私見・雑感を述べておきたい。
 まず本書全体を通して、緻密な同時代史料分析によって立論されたことで、松平・徳川氏の政治的位置づけを考える基礎的なデータ、新たな知見を得ることができる。特に各章で触れられている通説に対する批判と再検証の重要性を再認識させられる。本書によって、江戸期の史料によって作られた姿ではない松平・徳川氏の実態像を知ることができよう。しかし、推測に留まったことから、一つの論点に対し、複数の推測が混在したと思われる箇所もみられる(第一章を例にするならば、「天正一六年ごろには今川氏と主従関係を結んだと考えられる」(八八頁)の記述があるが、その直後に「天正一七年に、主従関係が成立していたといえる」(八九頁)とある。
 本書はまだ充分に解明されていない中近世移行期に取り組んだもので、各段階での松平・徳川氏の姿の理解は読む度に深まっていく。その一方で、課題として浮かび上がる点も出てくる。些末なことだが、足利将軍との関係では、「将軍の直臣化によって領主としての正統性を認められる」(一〇九頁)とし、「そのための手続きが、早道馬の献上」(同頁)との点は理解できなくもないが、献上することがストレートに直臣化であると断定できるのか、他家を含めて論証を重ねる必要がある。守護職を求めて献上行為に奔走する戦国大名との質的差異を考える上でも知りたいところである。
 次に五か国総検地・天正検地の見解は重要な論点である。近世社会の特徴としてあげられる「石高」評価に対する批判として興味深い。当時広く流通した貨幣が米であるのが自然の成り行きで、米でも俵でも本質に違いはないとする。そして結果として「戦国大名と豊臣大名とに質的差異がないとする。戦国大名以降、近世の大名は、同質の大名といえる」(四三八頁)とする。ここで著者の言う質的差異とは何であろうか。本書では「公儀」を使用していないが、国家権力への転換と主張する上で明確にしたい点である。
 第三章では、謡初や代替起請文など儀礼的側面から全時代を通して江戸期における徳川氏権力を分析し、第一・二章同様、一点一点の記事を丁寧に分析した結果から生まれた成果である。しかし、それだけに分析も難しくなる。そして「家に依存する権力から機構による権力の転換」「大名権力から国家権力ヘの質的転換」があったと結論づけるが、謡初の変化から言い切れるのか不安である。政治制度からのアプローチと照らし合わせることで統一権力徳川氏のあり方をより明確化できるのではないだろうか。また、著者は「近代的官僚機構」と本書で使用するが、「家産制的官僚制ではない」ことを示したということか。また、戦国期からの連続性をふまえると、個別大名・旗本家の徳川氏への意識、特に「十八松平」のあり方が重要であろう。松平庶家が大名と旗本に分化する要因があるのだろうか。

 以上のことは評者の我儘な希望である。抽象的な表現となってしまい、充分に著書の価値を伝えられなかったが、それは本書の価値が損なわれることを意味しない。研究課題・分析手法・展望、全体を通じて参考にすべき点が多く描かれている。無理に断定せずに推論にとどめた点は、逆に松平・徳川氏研究の課題が多々ある点を本書は提示してくれる。著者の苦心や努力は、各論に付された詳細な注釈、および巻末に記された史料索引から充分に伝わってくる。
 以上、本書の簡単な内容紹介および所感を長々と述べてきた。評者も著者と同じく、中近世移行期を研究対象としているにもかかわらず、誤読、誤解、的外れな指摘、無い物ねだりの要望、それらについては、ただただご寛恕を願うばかりである。


詳細 注文へ 戻る