平野明夫著『徳川権力の形成と発展』
評 者:山本英貴
掲載誌:「地方史研究」330(2007.12)


 本書は、松平・徳川氏が戦国大名としての地位を確立し、統一権力に至るまでの過程を段階的に解明したものである。

 序論「松平・徳川氏研究の軌跡と本書の構成」は、松平・徳川氏に関する研究史を丹念に整理したものである。序論では、戦国大名期の徳川氏は戦国期の大名として、豊臣大名期の徳川氏は豊臣期の大名として、それぞれの時代の中に位置づけて分析・考察することの重要性を論じている。また、各章各節の概要と著者の問題関心が記されている。

 戦国期の松平・徳川氏権力を究明した第一章「戦国期の松平・徳川氏」は、次の四節よりなる。
 第一節「松平宗家と今川氏」は、松平氏と今川氏が緊密な関係を構築していた天文六年六月より永禄三年五月までの二六年間を対象とし、松平氏の権力機構、それへの今川氏の介入状況について考察したものである。本節では、今川氏・松平氏の主従関係は、松平氏が家康を人質に出した天文一七年に成立したこと。今川氏は、松平一族の支配機構を利用して、三河領国の在地支配を行っていた。今川氏にとって家康の元服は、その支配の正統性を獲得するための一手段であったことを明らかにされている。
 第二節「徳川氏と足利将軍」は、徳川氏と足利将軍の交渉過程を分析し、徳川氏の政治的立場について考察したものである。本節では、将軍足利義昭の在京時代、徳川氏は将軍の直臣的立場にあったこと。しかし、将軍義昭の京都追放後、徳川氏は徐々に織田氏に臣従し、本能寺の変後は、織田政権の意向に従うなど、同政権に従属する態度を示していたことを明らかにされている。
 第三節「三河統一期の支配体制」は、徳川氏の最有力家臣と位置づけられている酒井忠次・石川家成・石川数正の地位・権限を分析し、三河統一期における徳川氏の支配体制について考察したものである。本節では、三河統一期の徳川氏は、大枠として三河を東西に二分し、酒井忠次が東三河、家康が西三河を支配する体制を敷いていたこと。また、三河を東西に分け、酒井忠次に東三河を支配させたのは、新たに徳川領国となった東三河の支配をより密着して行うためであったと指摘されている。
 第四節「徳川氏の起請文」は、家康起請文の様式や発給手続などを分析し、徳川氏における起請文の機能について考察したものである。本節では、家康起請文の発給契機は、主従関係確認、大名間の盟約確認、織豊政権への臣従・忠誠、剣法相伝などの個人的なものの四点に大別できること。そして、家康起請文は単独で機能するのではなく、酒井・石川連署起請文や家康知行安堵状などと組み合わさって機能していたことを明らかにされている。さらに、徳川氏が知行宛行・安堵を起請文で行っていたのは、主従関係が未成立の者の見参(主従関係の成立)を促進させるための処置であったと指摘されている。

 第二章「織豊大名徳川氏」は、織田大名としての徳川氏、豊臣大名としての徳川氏を分析したものであり、次の四節よりなる。
 第一節「徳川氏と織田氏」は、徳川氏と織田氏の関係について考察したものである。本節では、従来、攻守同盟と考えられていた織田・徳川同盟は、桶狭間の戦い直後に結ばれた国分(領土協定)のみの同盟であったこと。また、書札礼の分析により、永禄一二年より天正元年の織田氏は、徳川氏を対等の相手とみなしていた。しかし、織田氏は足利義昭を京都より追放した後、徳川氏に対する態度を徐々に変化させ、最終的には一門に準じる一大名として把握するようになったと指摘されている。
 第二節「豊臣政権下の徳川氏」は、豊臣政権と徳川氏の関係について考察したものである。本節では、豊臣政権と徳川氏の主従関係が結ばれたのは天正一八年とする諸先学に対し、主従関係は同一四年の家康上洛、秀吉への謁見により結ばれたと主張する。また、徳川氏は豊臣政権下第一位の地位にあったが、政策には関与していなかった。しかし、徳川氏は豊臣秀次事件後、政治の中枢に参画するようになる。その結果、豊臣政権は、従来の奉行中心の集団より、大名連合的な性格と奉行による家政機構が並立する形態に変化したと指摘されている。
 第三節「徳川氏の年中行事」は、戦国・織豊期における徳川氏の年中行事を復元し、各行事の意義について考察したものである。本節では、徳川氏の年中行事は、徳川領国全体に関わるもの、本城(浜松城・駿府城)や岡崎城において個別に行われたものに分類できること。そして、年中行事は深溝松平家のように、家ごとでも行われており、徳川氏の年中行事は重層的構造により成り立っていた点を明らかにされている。
 第四節「松平庶家とその家中」は、深溝松平家と大給松平家を取り上げて、松平庶家とその家中の関係について考察したものである。本節では、深溝・大給の両松平家において行われていた年中行事を分析し、両松平家は年中行事を通じて、家臣との間に強固な主従関係を形成しようとしたが、家中に安定をもたらすまでには至らなかった。それゆえ、両松平家は松平宗家と主従関係を結ぶことで、その介人(「異見」・「肝煎」)を受け、家中を形成していった過程を明らかにされている。

 江戸幕府を開いた後の徳川氏について分析した第三章「統一権力徳川氏」は、次の二節よりなる。
 第一節「江戸幕府の謡初」は、謡初の期日・時刻・場所、列席者や役職者を分析し、統一権力となった徳川氏の権力構造について考察したものである。本節では、元禄より宝暦までの間に、謡初には外様大名も多く列席するようになつたこと。そして従来、酒井家の役であった謡初の披露は、宝永期ごろより老中の役になった点を明らかにされている。さらに、披露役の変化は、酒井家が家宰家として継承してきた徳川氏筆頭の立場に変化が生じたためとする。すなわち、徳川氏はこの時期、家に依存する権力から機構による権力ヘと転換、換言すれば、大名権力から国家権力へと質的転換を遂げたと指摘されている。
 第二節「徳川将軍家代替わりの起請文」は代替誓詞(代替大名誓詞と代替御役誓詞の総称)の様式・提出手順を分析し、近世における主従関係と起請文の機能について考察したものである。本節では、大名等が主従関係を結ぶのは、将軍宣下以前に代替誓詞が提出されているところから、将軍ではなく、徳川将軍家当主であったこと。そして、近世における主従関係は、土地による主従関係と誓約による主従関係により成り立っていた。前者は朱印改めにより、後者は代替誓詞により成り立っていいたと指摘し、代替誓詞の意義を論じられている。また代替誓詞は、秀忠から家光への代替わり時には、既に成立していたことを明らかにされている。

 結論「中近世移行期の権力」は、三章にわたる考察から徳川氏が戦国大名より統一権力へと発展する過程を整理し、中近世移行期における戦国大名権力基盤の解明についての指針を提示されている。


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