佐藤博信編『中世東国の政治構造』『中世東国の社会構造』
(中世東国論上・下)
評 者:鈴木 哲雄
掲載誌:「千葉史学」51(2007.11)


 本書は、佐藤博信氏の還暦を契機に、千葉歴史学会中世史部会などの各種研究会や『千葉県の歴史 中世編』の編集・刊行などにおいて、折にふれ佐藤氏の指導をえた研究者による日頃の研究成果を公表したものである。佐藤氏の研究は、「広く東国史を見すえることなしに房総中世史を明らかにすることはできないことを示すもので」、こうした「研究姿勢は、房総中世史研究に新たな広がりと深化をもたら」すものであったため、佐藤氏のもとには、千葉県内はもちろんのこと関東各地から多様な分野にわたって東国中世史の研究者が集い、研究が進められてきた(上巻、まえがき)。
 こうした成果はすでに、『中世房総の権力と社会』(中世房総史研究会編、高科書店、一九九一年)、『中世東国の地域権力と社会』(千葉歴史学会編、岩田書院、一九九六年)に結実し、さらに今回の『中世東国論』には、多くの方々から論考が寄せられたため、『中世東国の政治構造』と『中世東国の社会構造』の二分冊としたものであるという。
 以下に、目次を掲げる(ただし、副題などは略す)。

上巻 『中世東国の政治構造』
  T鎌倉府
 雑訴決断所と鎌倉将軍府              阪田雄一
 南北朝・室町前期における幕府・鎌倉府間の使者   松本一夫
 白旗一揆の分化と武州白旗一揆           小国浩寿
 南北朝・室町期の関東護持僧について        石橋一展
  U古河公方
 享徳の乱における足利成氏の誤算          久保賢司
 下総国篠塚陣についての基礎的考察         和氣俊行
 室町・戦国期の下野小山氏に関する一考察 佐藤博信
  V地域権力
 戦国期千葉氏の元服                外山信司
 真里谷城跡出土遺物の歴史的位置          簗瀬裕一
 戦国期佐竹南家の存在形態             今泉 徹
 「房相一和」と戦国期東国社会           竹井英文
 関東領有期徳川氏家臣と豊臣政権          平野明夫

下巻 『中世東国の社会構造』
  T宿と町場の営み
 中世「墨田渡」と隅田宿および石浜について     加増啓二
 香取社宮中町の成立と変貌             湯浅治久
 戦国後期房総における城下集落の存在形態      遠山成一
 中・近世移行期を生きた商人の一様態        滝川恒昭
  U人と物の交わり
 中世の鎌倉と山林資源               盛本昌広
 常陸国久慈西郡と金沢称名寺について        小森正明
 戦国期東国の徳政                 黒田基樹
 大和田重清をめぐる人と地域            日暮冬樹
  V宗教と理念
 日蓮と鎌倉政権ノート               坂井法曄
 中世末の密教僧の交衆と付法について        植野英夫
 東国大名里見氏の歴史的性格            佐藤博信

 以上、二三本の論考から構成されており、下巻末には、佐藤博信氏の「著作目録」が掲載されている。個々の論文について、詳しく論評する能力が私にないことは言うまでもないが、読んで確認しえた要点のみ紹介していきたいと思う。

 上巻の「T鎌倉府」の四本の論考では、鎌倉府の政治的権限や支配の特質が検討されている。
 まず阪田論文では、『建武年間記』に記された「雑訴決断所条々」にある「関東十カ国成敗事」が本来は一つ書きであったことをまず確定する。そのことで建武政権下の鎌倉将軍府には引付的権限が付与されていたとの通説を否定し、鎌倉将軍府は軍事的権限しか持ち得なかったとして、初期鎌倉府論に再検討をせまる。
 松本論考は、南北朝・室町前期における幕府・鎌倉府間の使者の特質について論じている。鎌倉府から室町幕府への使者は関東管領であり、幕府から鎌倉府への遣使は幕命の伝達であった。これにより両者の上下関係がわかるが、鎌倉府の成立当初(鎌倉公方基氏期)は、幕政への関与ができたとして、建武政権後の室町幕府と鎌倉府の関係を問うている。
 小国論文は、南北朝・室町期の東国史を彩るものとしての典型的な領主一揆であった白旗一揆の成立と分化について論ずる。鎌倉府体制の確立過程における鎌倉公方と関東管領との分国支配における職権的・地域的分化への対応として、小山義政の乱を直接的な契機に白旗一揆の武蔵と上野への地域的住み分けがなされたとする。
 石橋論文は、研究が遅れているという南北朝・室町期の関東護持僧・武家祈祷について検討したもの。鎌倉期の性我・定豪・隆弁・親玄や南北朝期の光恵・豪智について整理し、さらに頼印について詳細に検討したうえで、鶴岡を中心とした関東での護持僧体制について明らかにしている。

 「U古河公方」には三本の論考がおかれている。
 久保論文は、享徳の乱での足利成氏への勝長寿院門主成潤の敵対化に注目したものである。成潤は成氏の兄であり、室町将軍の猶子という最高の貴種性をもつ存在。そうした存在が公方に敵対化したことは、鎌倉府の最高位貴種の分裂を意味し、その結果、成氏は鎌倉を放棄し、古河へ移らざるをえなかったとする。先の石橋論文は、足利氏一門の勝長寿院門主(日光山別当)や「雪ノ下殿」(鶴岡八幡宮若宮別当・若宮社務)の権威を関東護持僧頼印が確立した宗教的なものと見通していたが、関東における鶴岡八幡宮や日光山の宗教的権威を含めて、注目すべき論点が明示されたのではないか。
 和氣論文は、足利成氏の子・孫にあたる政氏・高基父子の房総動座の可能性を示す一次史料を発見・検討し、在陣した下総国篠塚が当該期関東においてどのような位置にあったのか、その地政学的な意味と房総動産の政治史的意義を問うたものである。南関東を制圧することで「公方−管領体制」を再建しようとしたものとみる。
 佐藤論考は、足利公方政氏の発給文書の使節文言に注目することで、受・発給文書では確認できない「小山大膳大夫政綱」の存在について確認したうえで、室町・戦国期の下野小山氏について検討したものである。編者の佐藤氏によって体系化された古河公方論は、本節の論考においても確実に深化しつつある。

 「V地域権力」は五本の論考で構成されている。
 外山論文は、『千学集抄』に記載された佐倉千葉氏の元服に関連する記事を子細に検討し、戦国後期に妙見信仰が果たした政治的役割を考察したもの。千葉氏の元服儀礼は千葉妙見宮で行われるべきものであり、本宗家を継承(しようと)した馬加千葉氏・佐倉千葉氏や海上千葉氏は、千葉妙見宮において元服儀礼を行うことで、その正統性を確保しようとしたとする。
 簗瀬論文は、通説を否定し、「真里谷城跡」は真里谷武田氏の本拠地ではなく、『快元僧都記』にみえる「新地」の城にあたる可能性を、真里谷城跡からの出土遺物の検証から論じたもの。検証結果から、真里谷武田氏の本拠地は城下に真里谷宿をもつ要害城であるとし、武田氏の内紛を契機に反惣領派によって「新地」に築城されたのが「真里谷城」であり、それによって反惣領派は造海城を介して北条氏と結びついたという。
 今泉論文は、佐竹南家の系譜と発給文書を丹念に収集・整理し、南家の成立と佐竹氏権力内での役割や所領・家臣のあり方について検討したもの。南家の所領と家臣団は本宗家から分与されたもので、独立した家としての基盤をもたない分家であり、「家と家産は成立しているが、本家の家産とは未分化であった」という。戦国期の家臣論に関わる論点である。
 竹井論文は、天正五年の北条氏と里見氏との同盟=「房相一和」の意味を戦国期東国社会のなかで問い直そうとするもの。それは、「領」を単位とした国分を前提としたもので、北条氏の軍事的優位の状況下、里見氏の内紛や飢饉のなかで締結された不安定なものであったが、結局は小田原合戦まで崩壊しなかったと通説をくつがえす。
 平野論文は、関東への転封から関ヶ原の戦いまでの徳川氏の有力家臣には、秀吉の意向による所領配置を受けたり、叙位任官するものがあったことを明らかにする。こうした有力家臣=両属大名が豊臣政権下に少なからず存在した。それは豊臣政権の脆弱性を補強するもので、戦国的状況の反映だとして、豊臣政権を戦国的権力とする。

 このように上巻は、「中世東国の政治構造」を問い直そうとする意欲的な論考によって構成されている。

 下巻の「T宿と町場の営み」におかれた論考は、房総周辺における都市的な場を検証したものである。
 加増論文は、古代中世の関東の水陸交通の要衝であった「墨田渡」(隅田川の渡し)が隅田宿付近から石浜付近へと移動したことを諸資料を駆使して明らかにする。点としての町場ではなく、隅田川河口近くの広域的な町場・渡場論として注目される。
 湯浅論文は、はじめて中世の香取社宮中町の実像を明らかにしたもの。宮中町は、香取文書に見える「当社まち」のことであり、蔵本町でもあったとする。
 遠山論文は、房総における「内宿」地名の所在地における戦国期の城下集落の構造について検討したもの。内宿は、戦国末期の拠点的城郭に附属することが多く、防御施設をともなうもので根小屋の発展形であるとする。
 滝川論考は、里見氏の城下町館山の商人岩崎氏の存在形態について、同家に伝来した文書から検討したもの。連雀の司=商人司として、城下町館山の自治を主導した岩崎氏は、里見氏の転封後も町名主役の地位を保証され、商人司の地位を確保し得たのだとする。
 これらの論考によって、房総周辺の都市的場の検証がさらに進んだといえよう。

 「U人と物の交わり」には、四本の論考がおかれている。
 盛本論考は、環境歴史学の視座から中世の鎌倉の植生変化と鎌倉における山林資源の利用について論じたもの。発掘報告書等の花粉分析などの成果から、中世鎌倉では幕府成立期には杉や照葉樹が多かったが、鎌倉後期にはそれらは減少し松が増加したことを文献資料からも検証し、その変化が杉や照葉樹の伐採=利用→都市鎌倉の建築ブームや薪炭化によったこと、そして得宗は山林資源の豊富な所領を各地に確保していたとする。
 小森論文は、金沢文庫古文書を丹念に検討することで、はじめて称名寺領としての常陸国久慈西郡の所領経営について明らかにし、替用途に関する史料からは、久慈西郡の年貢も使僧や替銭屋の請負によって称名寺や京都に送進されていたことを論じている。
 黒田論文は、戦国期の東国における徳政政策を検出したうえで、それが広域の飢饉・災害という事態のなかで、「村の成り立ち」のための対策としてなされたものであるとする。戦国期の徳政令は、戦国大名・国衆ごとに出されるものであり、戦国末期には出されなくなるという。
 日暮論文は、中近世移行期の東国武士の日記として著名な『大和田重清日記』の検討から、重清の所領支配と人物像を具体化したもの。「まとめ」に書かれた重清の家政も注目される。「家計簿」もつくれるのではないか。

 「V宗教と理念」におかれた坂井論文は、日蓮遺文の一つである「未驚天聴御書」のなかの「天聴」を「朝廷への奏聞」とみる通説を否定し、「国主=得宗への奏聞」とすることで、「日蓮にとって東国がすべて」であったとする。そうした観点から、日蓮と鎌倉政権との関連を示す事項を再検討し、評価し直している。
 植野論文は、上総国新義真言宗を中心に中世末期における密教僧の交衆と付法について検証したもの。市原市の釈蔵院と袖ヶ浦市の光福寺の諸史料の子細な検討から、畿内の本寺との関係や東国における本末関係、地縁的連合などいわゆる東国密教僧のネットワークを明らかにしている。
 佐藤論考は、東国大名里見氏の歴史的性格をその支配理念の側面から問おうとするもの。佐藤氏が取り出したものは、禅僧・日蓮僧・浄土僧などをブレーンとしての宗教的理念とそれに関わる文化的雰囲気、古代中国の政治思想、そして「御百姓」支配と法度支配の確立にあったとする。

 下巻では、交通・情報・宗教などのネットワークの視点によって、「中世東国の社会構造」が縦横に論じられているのである。

 以上のように、本書は「その視点を広く東国にむけることで、房総史の視点から東国をとらえ、あるいは東国史のなかに房総史を位置づけることによって東国史研究の進展に寄与するとともに、中世房総の歴史的・地域的特質への認識を深めていくことを目指」したものである(下巻、あとがき)。その企図は十分に達成されているものと評価されるし、中世の房総史のみならず、中世の関東や東国に関心をもつ方々にとって必読の書である。「東国」という地域の範囲や地域社会論の意義も含めて、佐藤氏のもとに集う研究者による「中世東国論」のさらなる進展に期待したいと思う。


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