渡辺尚志『惣百姓と近世村落−房総地域史研究−』

評者:千葉真由美
「歴史学研究」850(2009.2)

 本書は渡辺尚志氏が長年続けている房総地域の村落史研究の過程で発表された諸論考をまとめたものである。全体の構成は以下の通りである。

 序章
第一編 上総国長柄郡本小轡村と藤乗家
第一章 明暦〜延宝期における「惣百姓」
補論1 天和〜元禄期における「惣百姓」
第二章 庄屋と身分的周縁
第三章 十七世紀後半における上層百姓の軌跡
第四章 藤乗家の文書整理・目録作成と村落社会
補論2 藤乗家の文書目録
補論3 長柄郡北塚村の村方騒動
第二編 房総の村々の具体像
第五章 十八世紀前半の上総の村
第六章 近世後期の年貢関係史料
第七章 相給知行と豪農経営
補論4 細草村新田名主役一件と高矯家
第八章 壱人百姓の村

 序章では,本書の分析対象の半分を占める上総国長柄郡本小轡村と庄屋を世襲した藤乗家の概要,1万6000点余におよぶ大量の藤乗家文書についての概要がまとめられているほか,本書の諸論考等に対して出された批判に丁寧に答えている。続く第一編は本小轡村と藤乗家に関する研究,第二編は房総各地の個別分析である。

 本小轡村の藤乗家には17世紀の文書が多数残されているという特徴があり,第一編の第一章〜第三章・補論1では,17世紀の村のすがたを「惣百姓」をキーワードとして論証している。第一章は17世紀後半の惣百姓の性格と機能を明らかにしたものである。惣百姓文言が使用された意味,惣百姓が相互扶助および相互規制を行うなどの機能を有していたこと,村運営が庄屋と惣百姓との相互関係で行われていたことを明らかにし,そこに百姓代成立以前の特有の村落状況を見る。続く補論1では,天和〜元禄期の惣百姓の諸機能が,第一章で明らかにした時期から基本的に維持されていたとし,「惣百姓」「百姓代」文言が現れる時期を示している。第二章は17世紀後半の村における庄屋の周縁性を論じたものである。本小轡村の公正で「民主的」な村運営の内実は,常に庄屋を中心として行われたものではなく,庄屋が参加しない惣百姓の相談でまとまる場合もあったことを示している。第三章では17世紀の段階では組頭を務める家ですらその経営は安定しておらず,相続・転居・出奉公など家の存続に関わる問題には庄屋と惣百姓の了承が必要であったことを述べている。

 藤乗家文書は19世紀の史料も豊富であり,第四章では藤乗家の文書が大量に保存されてきた理由を当主の文書整理に焦点を当てて考察している。近世後期の藤乗家の文書整理と目録作成の実態,その意図および社会的背景を検討し,自家が村に貢献してきた「家」であるといった強い「家」意識の存在,村役人の側に文書整理や目録作成を促す契機が存在したことを明らかにしている。続く補論2において第四章の文書目録類が紹介されている。補論3では本小轡村の隣村,北塚村の幕末期の村方騒動から村用書類が整備・確定されていく様子,文書保存・管理の問題が百姓のステイタスと連動していく様子が明らかにされている。近世後期の文書保存・管理の問題が村と「家」のあり方に規定されるという,近世固有の特質を指摘するものである。

 第二編は農村荒廃,相給知行,壱人百姓などの村の特質から房総各地の村々を分析したものである。第五章では上総国山辺郡堀之内村の18世紀前半の農村荒廃に対する村の努力を明らかにしている。まず17世紀に有力百姓の家が村や地域の紛争解決システムに包摂されていく様子が描かれる。享保期に本田畑の荒れ地化が進み潰百姓が続出したため,村では村惣作や近隣村々による「近郷惣作」が目指され,領主へも負担軽減を要求するなど,隣村や領主に助力を要請しながら村再建への努力が続けられたことを述べる。第六章は下総国相馬郡川原代村を事例に,近世後期,年貢収納過程で作成される文書の流れを追ったものである。第七章は上総国山辺郡台方村を事例に,房総地域に多い相給知行と豪農経営の相互関係を明らかにしたものである。豪農が知行主と密接に結びつき,知行所村役人として年貢諸役徴収を中心的に担い,自己の知行主の知行地を相対的に多く集積する様子が明らかにされ,豪農の土地集積に相給知行が一定の規定性を与えているとする。補論4は鶴牧藩領の大庄屋高橋家の史料から,嘉永期の新田名主役一件を事例に,相給知行と本村一新田関係との相互関連について述べたものである。第八章は本百姓が一人しかいない「壱人百姓の村」である上総国長柄郡小萱場村を事例に,村の独自性と他村との共通性について考察する。17世紀における耕地の増加と小農自立の動き,近世後期の経済的変動と身分制の動揺や村方騒動の発生など,壱人百姓の村という特殊な村における近世社会の全体的動向の反映を見るものである。また村落身分の維持に対する領主の役割にも触れる。

 本書のうち「惣百姓」を中心テーマとして,その役割や機能に具体的に言及したものは第一章〜第三章・補論1で,惣百姓を直接のテーマとしたものではないが,第五章では地域の機能の問題を扱い,庄屋や村の草分け百姓が次第に村や地域の秩序に包摂されていく姿が描かれている。渡辺氏は一つの村を対象とした具体的な事例で丹念に検討を行うとともに,村を含む地域の問題,近世村落全体での位置づけを試みることを常に意識している。現在までに構築されてきた近世村落の一般像との比較を行い,新たな視角を提示するという渡辺氏の研究姿勢が窺える。自戒にもなるが,近年の村落史研究は個別具体的な事例に終始してしまいがちであり,渡辺氏の問題意識や取り組みには大変教示を受ける。近世社会全体のレベルで村落の問題を捉え直そうとする視点は,今後の村落史研究の活性化にとっては必要不可欠である。
*      *
本書序章において渡辺氏は,収められた諸論考に対するいくつかの批判に答えている。評者も批判を試みた一人であるが,現時点では具体的かつ有効な「再批判」を示す準備はできていないため,はなはだ不十分ではあるが,村落史研究における今後の課題を含めて以下に私見を述べてみたい。

 近世前期の関東地域の文書に特徴的にみられる惣百姓文言を取り上げたのは,小高昭一氏(「十七世紀における「惣百姓」について」,川村優先生還暦記念会編『近世の村と町』吉川弘文館,1988年)と酒井右二氏(「「惣百姓代」から「百姓代」へ」,瀧沢武雄編『論集 中近世の史料と方法』東京堂出版,1991年)であった。渡辺氏はより具体的に惣百姓の機能を論じ,惣百姓は相互に助け合い,年貢勘定の公正さを確認し,村の平穏を維持する機能をもち,そのため百姓の土地所持や「家」相続に関与し,相互規制も行うなどの機能を有すると述べる。評者は相模国高座郡羽鳥村と武蔵国多摩郡小川村の事例から,惣百姓の印が名主や組頭などの印であることを重視し,惣百姓の実質的な機能に疑問を呈した(拙稿「近世前期関東における惣百姓印」『関東近世史研究』61,2007年)。渡辺氏は評者が取り上げた二つの村の事例は,近世前期の村方騒動という特殊な状況下の一面的な検討であるとし,土地の管理など平常時のあり方をより重視して検討すべきとする。

 渡辺氏と評者との最大の相違は,惣百姓印をどう捉えるかという点であろう。第一章では惣百姓の印は同一文書中の当事者等の使用した印であることが述べられ,補論1でも「惣百姓の中でも中心的な位置にいるものが捺印する場合が比較的多かった」(66頁)としている。しかし特定少数の人物のみが常に捺印したものではないため,特定の人物が「惣百姓」を僭称していたとはいえないとする。では,渡辺氏は本小轡村での惣百姓の印が時折,組頭など村の中心的な者の印を使用していたことをどのように解釈されるのか。これについては具体的に触れておらず,「惣百姓印の問題は,私の議論のなかでは,重要ではあるがあくまでその一部分であって,私の惣百姓論は村内における現実の社会関係の具体的分析から導き出されている」(序章,15頁)としている。つまり惣百姓が実質的に機能を有している以上,誰の印が使用されても惣百姓という社会関係が村のなかに存在することは否定できないということであろう。捺印は文書作成上の形式的なもので,惣百姓の名によって印が「捺されている」ことそのものが重要ということになる。一方で「村内の一グループがみずからの主張を百姓全体のそれだと強調するためのレトリックとして使われている」(第二章,92頁)とし,惣百姓の文言が必ずしも村全体の実質的な結束を示していない場合があることも念頭に置いている。では当時の人々は何をもって惣百姓と名乗ったのか,という疑問も残る。当該期の捺印に対する意識を含めた検討が必要であろう。
*      *
渡辺氏は日常的に村役人層が恣意的に村運営を行っていた場合を否定しないとしつつ,序章で「そのような中世以来の土豪が盤踞する関東の村のイメージは,畿内の惣村型の村との対比で,従来から繰り返し強調されてきた」(15頁)のであり,この点を繰り返しても研究史に資することは少ないとし,「惣百姓をキーワードにすることによって,近畿地方の研究の引き写しではない,関東に固有の近世前期村落像を描ける可能性がある」(第一章,54頁)と述べる。この点は評者もまったく同意見である。しかし渡辺氏の導き出した本小轡村の惣百姓は,結果的には畿内の惣と類似した「自治的」結合であるようにも思える。惣の花押は独自の花押ではなく,村運営層の花押の代用であるが,「村の名において記されていることこそが重要」とした水本邦彦氏の認識と同様ではないのか(水本邦彦「村と村民」,同『近世の郷村自治と行政』東京大学出版会,1993年)。関東の「惣百姓」と畿内の「村惣中」との明確な違いはどこにあるのか。渡辺氏は惣百姓が「庄屋を含まず,庄屋との間に一定の対抗関係をはらむという点で水本邦彦氏が近畿地方の村落を素材に解明した「村惣中」とは異なっている」(54頁)とする。しかし文書に現れる惣百姓の範囲は村や時期によって異なり,確定できるものではない(拙稿「近世の惣百姓印」,有光友學編『戦国期印章・印判状の研究』岩田書院,2006年)。名主を含む場合,名主以外の村役人を含む場合,村役人は含まない場合など,多様なのである。

 かつて福田アジオ氏は,関東地方を中心とした東日本は家を単位として個別性を強調するという特色を述べた(「近世の村と民俗」,『岩波講座日本通史』第13巻近世3,岩波書店,1994年)。本小轡村の惣百姓が実質的な機能を有していたとしても,−方で庄屋の藤乗家は近世を通じて特権を持ち続け(第二章),村や地域に貢献してきた先祖の功績を明らかにするなど,村を草創した「家」の誇りを持っていた(第四章)。本小轡村のような「民主的」な村で藤乗家が庄屋を続けていた事実と惣百姓の存在との関係をどう捉えるべきであろうか。村と「家」意識との関わりをより明らかにする必要もあるだろう。

 また渡辺氏は前述の酒井氏の主張と同様に,惣百姓から百姓代への展開を視野に入れている。しかし惣百姓という複数からなる主体が一人の百姓代として成立する過程を含め,いまだ検討の余地がある問題と考えられる。

 渡辺氏は村の存続のためには「相互扶助」が前提であり,不安定な小農が自立していく過程で村落共同体に依拠する姿が,史料文言上の「惣百姓」に表現されているとする。本小轡村は家数20軒程度の規模の小さい村で各家の経営は不安定であったため,惣百姓として協力しなければ村としても成り立たなかった。村の規模と百姓の結合が深く関わることは想像に難くなく,本小轡村の惣百姓が十分に機能していたこと,「民主的」な村運営を行い得たことは首肯できる。しかし−方で「民主的」な村ですら近世初期に村方騒動が起こったのはなぜかという疑問も残る。本小轡村の事例については「従来の十七世紀関東農村の定型的イメージを相対化しようとしたのであり,直ちにそれを普遍化する意図はない」(序章,15頁)とするように,今後も各村の様相に応じた惣百姓の検討が必要であろう。評者は渡辺氏と大きく主張が隔たっているとは思わず,惣百姓研究の蓄積によって近世前期の関東村落の全体像が描ける可能性があると考えている。
*      *
そのほか,本書から得られた今後の村落史研究の課題をまとめる。近世史料学,特に近世村方史料論は今後議論が深められるべき課題である。第六章で示された年貢収納過程で毎年作成される文書は,領主との関係で様式が定まっていくとも考えられ,「近世文書主義社会」の成立期を考える材料の一つである。何をもって文書主義社会が成立したと考えるべきか,村社会への文書の浸透にも関わる問題である。第七章では知行所の運営に大きな位置を占める村役人,補論4では年貢立替機能を有し,名主役勤続や村役人・小前間の調停を行う大庄屋の職権が示されており,一村を越えて機能する村役人の役割もさらに解明が待たれる。第八章では壱人百姓体制が中世的な土豪支配の単なる残存物ではなく,小農自立の動向などの対応形態として成立した極めて近世的な村内身分関係であるとする。近年,小農自立の問題はほとんど触れられることはないが,この問題は惣百姓の存在や,惣百姓から百姓代への展開と深く関わる問題でもあることが,本書によって明らかにされた。改めて17世紀における小農自立の問題を正面から取り上げる必要があるだろう。

 以上,評者の力量不足により的はずれな意見を述べたところがあるかと思う。渡辺氏をはじめ諸氏のご批判を仰ぎたい。


詳細 注文へ 戻る