岡崎寛徳編『遠山金四郎家日記』

評者:西 光三
「古文書研究」67(2009.10)

 本書は、大倉精神文化研究所に所蔵されている史料「金沢甚衛氏旧蔵史料」中にある、旗本遠山金四郎家の家臣等が記した日記(嘉永元年〈一八四八〉、安政二年〈一八五五〉、同三年、慶応元年〈一八六五〉の四年分六冊が残存)を、同研究所客員研究員である岡崎寛徳氏が編者となり、この度全文翻刻、それに史料解説および詳細な人名・寺社名索引を付し刊行されたものである。

 遠山金四郎(左衛門尉景元)は、時代劇や小説などで「遠山の金さん」として多くの人々に周知され、また大変馴染み深い人物であろう。この日記は、その「金さん」こと六代景元から九代景之まで、四人の「金四郎」家に勤仕した近習および用人といった家臣たちが書き留めたもので、日記中には、これら家臣の目を通した遠山家の交際・交流の実態、歴代の病歴、家臣や領民の動向、幕府役職に関わる記述などがみられる。このように本日記からは、遠山家の視点から見えた、江戸城およびその周辺地域の諸相を垣間見ることができる。
 本書の構成は次のようになっている。

 遠山金四郎家と用人・近習の日記
 一 「日記」嘉永元(弘化五)年一月〜五月
 二 「日記」嘉永元年六月〜十二月
 三 「日記」安政二年一月〜六月
 四 「日記」安政二年七月〜十二月
 五 「日記」安政三年一月〜十二月
 六 「日記」慶応元(元治四)年一月〜八月
「遠山家過去帳」記載人名一覧
 索引(人名・寺社名)

 なお、史料の現状は「日記」の一〜三で一冊、四と五で一冊、そして六で一冊の計三冊にまとめられて保管されているとのことである。また、「日記」一と二は六代景元(五十六歳当時)の町奉行時代の日記、三と四は七代景纂(四十三歳当時)の目付時代の日記、五は八代景影(十三歳当時)の小性番時代の日記、六は九代景之(二十五歳当時)の小性番時代の日記にあたる。

 本書のもつ意義としてまず触れておかなければならないのは、戦前に内務省の官吏の職にあった金沢甚衛氏が、隣保制度の歴史調査を目的として集めた史料群の一部を、戦災から守るために大蔵精神文化研究所図書館に寄贈して以来、約六十年もの間おもてに出ることのなかった「金沢甚衛氏旧蔵史料」より、幕府役職にあった遠山家歴代の動向の一端を描き出しているこの三冊の日記を見つけ出し、それを全文翻刻して公共の用に供したことである。「解説」において編者が記しているように、図書館の貸出記録をみても、この日記に関する研究等が行われた形跡は全くなく、本書の公刊を機に、本史料の本格的調査・研究が今後多くの研究者によってなされていくであろうことと期待される。なお、編者はすでに別稿において本日記の分析を進めており、その成果が今後の本史料に関する調査、および本史料に基づいた研究の重要な参照点となるであろうことに、疑いはない。

 またもう一つ特筆すべき点として、本日記の記録者、および日記に登場する人物の比定が、編者らの綿密な調査分析の末に確定されていることをあげておかなければならない。ほとんど先行研究のない状況でなされたこの人物比定の作業がいかに大変であるかは、資料集の編さんに携わったことのある者であれば誰しもすぐに理解できるであろう。なお、その成果として、巻末には十七ページにも及ぶ詳細な人名索引が付されていることもここで触れておきたい。

 このような編者らの尽力によって一書となった本日記からは、江戸町奉行であった景元の町奉行辞任後の隠居生活や、景元以降の遠山家の様子、遠山家の人的交流の実態、遠山家と家臣および領民との関係などについて読み取ることができる。さらに注目すべき点は、この日記が「御次」や「御用部屋」に詰めていた近習や用人たちによって書かれていること、すなわち、家臣の視点から上記の諸事象が記録されていることである。それゆえに、遠山家の人びとに対する呼称が、その時々の状況に応じて書き分けられており、たとえば安政二年の日記に登場する「御隠居様」である景元が、客人と対面するなどの行動をとっていたことが記述されていたからこそ、これまで知られていなかった景元の隠居後の行動を知ることができたのである。これもまた、本日記の特徴の一つといえるだろう。

 編者は、冒頭の「解説」において、本日記から得られたいくつかの特記事項を紹介されている。たとえば南町奉行であった景元と北町奉行であった鍋島内匠頭直孝とが定期的に接触していたことが、「内寄」や「内寄合」などの記事から確認でき、南町と北町の両奉行所が緊密な関係であったことが伺える。また景元は、安政二年に本所下屋敷で突如「御不快」となるのだが、本日記の記述によれば、その間、景纂は目付の番を休み続けていることから、景元の病状が思わしくなかったことが読み取れる。なお、結局景元は同月二十九日に逝去し、その葬儀の準備が慌ただしく進められている様子や、四十九日や百ヵ日の法事が菩提寺である本妙寺において営まれたことも本日記より確認できる。さらに家督を継いだ景纂も同年八月二十七日に逝去してしまったため、跡目相続の準備も進められることとなるのだが、本日記にも、景纂嫡子である景彰の相続願を幕府に提出し、十二月三日に相続が認可されたことが記されている。

 また本日記には、遠山家の公私にわたる非常に多彩な交際の記録や、遠山家と領民との交流についての記録も多数残されているが、特に、遠山家が町奉行や目付といった役職に就任していたことに伴う、公的なつながりによる交際の記録が残されている点は、当時遠山家が拝した役務の性格を理解するうえでも重要であると考える。また私的な交際についても、たとえば旗本間における家臣の貸し借りがなされていたことや、景元、景纂が相次いで逝去し、景彰への代替わりがなされた際に「御人減」をうけた家臣たちが、親戚筋の旗本に再び雇われていたことがわかる記述からは、旗本間での人材異動の在り方の一端をうかがい知ることができる。医師・絵師・学者や江戸町年寄との交流が盛んになされていたことも注目されよう。

 さらに領民との関係については、村の代表者・責任者である村役人が、年貢を納入する際や、遠山家の祝儀(たとえば景彰の家督相続や番入りに際して)、不祝儀(たとえば景纂の急死に際して)の際に、遠山家屋敷を訪れていたことも記されており、知行地との良好な関係が窺い知れよう。なお編者によれば、この他にも、張訴への対応、寺社参詣など、幕末の江戸社会を理解するうえで注目すべき記事が記されており、このことからも本日記の史料的重要性が理解できるだろう。

 以上の記述からもおわかりいただけるように、本書に収録されている遠山家家臣の書き綴ったこの「日記」には、当時の旗本の交際を始め、その幕府官僚としての側面、また一方では知行地領主としての一面を理解する上でも様々な重要な情報が含まれているといえる。すでに編者は、本史料に基づいた論考を多く執筆されており、さらなる成果及び本著作の研究編と位置づけられるような著書の刊行も期待される。
 そしてさらに、本書の出版により更なる本分野の研究的深化も期待され、これにより幕末旗本社会がなお一層鮮やかに浮かび上がってくるのではないだろうかと考えるのである。
(板橋区公文書館公文書館専門員)


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