松下正和、河野未央編『水損史料を救う』

評者:人見佐知子
「専門図書館」238(2009.11)

 歴史資料ネットワーク(以下「史料ネット」)は、阪神・淡路大震災後の被災歴史資料の救出・保全を目的として生まれたボランティアを主体とした団体である。震災対応が基本であった史料ネットが、風水害時の被災史資料の救済に着手したのは2004年10月の台風23号がきっかけである。

 本書は、2004年以来の風水害による被災歴史資料の救出・保全・修復活動の経線(第T部第1章、第2章)とその後の展開(同第3章)、および活動に携わった当事者たちが「風水害時の被災歴史資料救出活動」について検証した、シンポジウムの記録をまとめたものである(第U部)。歴史研究者を中心に、風水害で被災した紙媒体を中心とする資史料(以下「水損史料」)の救出・保全・補修活動を大々的に実施したのは、おそらく史料ネットが初めてである(もちろん、保存科学の分野では水損史料の保全についての研究と実践例が積み重ねられている)。そのため、2004年の台風23号、2005年9月の台風14号への対応が一段落すると、水損史料の修復方法についての講習会「水損史料修復ワークショップ」が各地で開催されることとなった(第T部第3章)。

 ただし、本書を水損史料の修復の「マニュアル」として期待した読者は裏切られることになる。本書の最大の目的は、これまで経験のない風水害対応にあたった史料ネットの試行錯誤の経験と、そこから得られた課題を読者と共有することにある。そして今後も必ずやってくる地震や大規模水害の際の歴史資料の保全体制を構築するための土台作りにある。本書で示された「マニュアル」(本書未収載「参考資料」)は、今後の個別事例の積み重ねと経験の共有化によって、常に改変されていくはずのものである。

 また、被災史資料の保全活動に邁進する中で得た著者たちの共通認識が、逆説的ではあるが、平常時の地域社会との関係づくりが最も肝要であるという点は重要である。被災地(とくに被害が甚大な場合)では、生活復興を優先せざるを得ず、史資料どころではないという状況にあることは推測に難くない。そのような場合、いかにスムーズな対応が出来るか否かは、地域における行政・住民・大学それぞれの歴史資料への関心のあり方と、それぞれの日頃の関係のあり方に大きく左右される。

 まず、未指定文化財を含めた古文書の悉皆調査(所在確認、目録整備)を常日頃から行い史資料台帳を作成し、それを定期的に更新していくことである。そうすれば、災害発生時の被災史料パトロール(各戸巡廻調査)の迅速な実施が可能となる。その担い手は、地域の歴史資料と接する機会の多い自治体史編纂職員や研究者(大学)、郷土史研究団体などが期待される。そうした機関や団体は、史料所蔵者に対して史資料管理の方法や、被災時の処置方法などについて伝えるとともに、日頃の管理状況について定期的に確認作業を行わねばならない。その根底にあるのは、歴史資料の保存・保全が、歴史研究者のためだけではなく、地域の人々の権利と未来への遺産を守ることであり、地域コミュニティの基盤をなすという意識=「思想」(本書まえがき)である。史料ネットは、こうした地域に密着したかたちでの持続的な活動と、日常的に連携を保つことによってはじめて被災時の被災史資料調査・保全体制を円滑に構築することができるのである。

 ところで、本書の第T部第4章は、全体のなかで異質な位置にある。というのも、史料ネットはボランティア組織であることを前提とし、史料ネットが主催する水損史料修復ワークショップも、今後も史料ネットがボランティアを母体として活動を展開していくために、水損史料の修復の経験やノウハウを知悉し、災害時に「ボランティア・リーダー」となるべき人材を養成することを目的としている(第T部第3章)。それに対して第4章は、野田正彰氏の『この社会の歪みについて』(ユビキタ・スタジオ、2005年)を参照しながら、ボランティアとは、社会に本来必要な人材が足りていないことのアピールであり、本来の仕事とは別にもつ技能を活用していくためのものであると定義し、「史料ネットはボランティア組織でいいのか」と問題を提起している。

 しかし、このことは史料ネットがボランティアで運営される組織であることを直ちに問題化するわけではない。現在、人文諸科学の分野において定職としての大学教員や学芸員のポストが減少しており、それにかわって任期制や嘱託のかたちをとる職が拡大していること、歴史資料を守り伝える役割を担ってきた博物館・史資料館などが指定管理者制度の導入や、大幅な運営費削減(場合によっては機能縮小・廃館を強制される場合もある)など様々な困難な状況に直面していること(本書松下論文「水損史料保全活動をめぐる現状と課題」)、こうした状況が改善されないかぎり、史料ネットは、現在の「ボランティア」(院生やオーバードクターからなる若手研究者)に依存する状況は変わらない。『水損史料を救う』活動は、こうした問題をも社会に鋭く問いかけている。

 去る2009年8月8日から11日にかけての台風9号による豪雨は、兵庫県佐用町、宍粟市、岡山県美作市などに大きな被害をもたらした。史料ネットは、8月15日より被災地入りし、被災歴史資料の救出活動を展開している。その様子は、日々ブログに更新されている(http://blogs.yahoo.co.jp/siryo_net)。本書とあわせて参照されたい。被災歴史資料の救出・保全活動の最前線を知り、改めて本書を読み直すことで、今後われわれがなすべき課題を見いだし共有されんことを願う。

甲南大学人間科学研究所 人見 佐知子(ひとみ さちこ)

●同文が、「史料ネット News Letter 」61(2010.1)に採録。


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