滝口正哉著『江戸の社会と御免富−富くじ・寺社・庶民−』 |
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評者:小沢詠美子 | |||||
「史潮」新66(2009.11) |
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江戸において、人々が熱狂していたイベントのひとつに、富突(近年多くは「富くじ」と称される)、現代でいう宝くじがある。江戸では宝永(一七〇四〜一〇)ごろから始められたといわれ、その後享保期(一七一六〜三五)に一時禁止されたが、享保末年に解禁となり、宝暦〜天明期(一七五一〜八八)ごろから盛んとなった。さらに文化九年(一八一二)に幕府は谷中感応寺・目黒滝泉寺・湯島天神で行われる毎月の富興行を許可、以来これらは「江戸の三富」と呼ばれるようになり、ますます人気を集めることとなる。富興行は、天保の改革(一八四二)によって禁止されるまで、合法的な庶民の娯楽として、重要な役割を果たしていたのである。 序章 まず、第一部第一章では、幕府による禁止令が出されているさなかの一六世紀末ごろ、鞍馬山の富突の手法を取り入れた興行を、牛込戸塚宝泉寺と谷中感応寺が相次いで開始、享保期には「御免富」として幕府の管理下に置かれ、寺社助成策の一環に位置づけられたことを明らかにし、そして、御免富が年中行事化・金富化したことにより、感応寺と宝泉寺は、興行経営が安定したと指摘する。 第二章では、明和〜天明期(一七六四〜八九)の動向を分析、幕府と寺社との間で寺社助成策としての興行の規格化がなされ、博奕的手法を用いながらも、寺社という神聖な空間で行うことにより正当化された御免富が、興行収入の安定化を図る寺社と、投資的な魅力に惹かれた資本家の利害が一致した結果、多くの寺社で請負人に業務委託されたことを明らかにし、こうした進展こそが、幕府と寺社を結びつけていた、御免富の「境内完結の原則」を打ち壊したと指摘する。 第三章では、町触を中心に分析した結果、江戸の御免富が、幕府によって規制緩和の行われた文政〜天明期(一八一八〜四三)に最大の最盛期を迎えるが、その盛況期は非常に限定的であったと結論づけ、さらに従来伝えられてきた江戸の「富くじ」像は、盛況期に特徴的に開花した諸現象をもとに、庶民の視線で作り上げたものであると断じる。盛況期を過ぎると寺社は御免富から次々撤退するが、富突という娯楽を享受していた庶民の風俗統制が必要となった幕府は、天保一三年に御免富を全面的に廃止し、終焉を迎えていったとする。 次に第二部第一章では、これまで研究の村象として中心的であった感応寺の事例だけでは限界があり、短期間に多数実施された御免富こそ当時の実態を反映するものであると指摘、御免富の興行場所・実施状況などを詳細に分析し、門跡寺院や東叡山の影響下で興行の実施される傾向のあることを明らかにしている。 第二章では、御免富の最盛期には、御府内の寺社を借りて興行を行う場合が多く見られ、場所を提供する側のひとつである日本橋新材木町の椙森稲荷の実態を分析、経済基盤の脆弱な同社では、御免富を誘致し、年中行事化することで、経済効果と参詣者の増加がもたらされたところに、同社の存立意義があると指摘する。 第三章は、浅草寺で行われた御免富について、同寺自らが興行主となって行う場合と、他神社が興行主となり、同寺子院が受け入れる場合についての検証を行っている。そして、前者の場合は、浅草寺の別当であり、東叡山主である輪王寺宮を頂点とする、寛永寺の収益構造の中に組み込まれていた実態を、後者の場合、場所代・礼録等の収入に期待する構造を明らかにした。 第四章では、自坊で興行を続ける感応寺、同じく御府内にありながら場所を借りて興行を行っていた護国寺、そして武州御嶽山ほか地方寺院の出張興行を行っていた寺院の動向を分析、いずれも幕府の方針に反して、世話人は寺社を補完するだけでなく、むしろ寺社に対して積極的に興行開催を働きかける場合もみられ、請負関係が深化し、両者間で利権構造の複雑化していく様相を明らかにした。 以上のように、第二部では、どのような寺社に興行場所が設定され、地域や興行に携わる人々がどう対応したかなど、興行場所を巡る寺社や人々の動向から、御免富の重層化した受容構造が明らかにされている。 最終部にあたる第三部第一章では、富札の購入および販売の様相を中心に、御免富受容の実態について検討されている。すなわち、最盛期の文政〜天保期には江戸市中で富札を販売する店が多く、副業から専門店まで多岐にわたっていたこと、受容層も下層町人から武士に至るまで幅広かったことが明らかとなつた。 第二章では、文献資料や画像資料を用い、御免富およびそれに類似した地方の興行で使用された道具を検証、文政期の御免富適用範囲拡大は、道具のあり方を変え、御免富禁止後に地方で類似興行が行われる際の素材を提供、撹拌性の高い新型の道具は、従来の無尽・頼母子と融合して広まっていったことが、明確に示されている。 第三章では、高価な富札を敬遠し、手軽に楽しむことのできる「影富」、およびこれを簡略化した「第附」の実態を分析し、これらが前句附や棒引のような、庶民層を中心に元禄期以来形を変えつつ連綿と行われてきた簡易型博奕文化に包摂されていったと指摘する。さらに筆者は、江戸の中・下層民はいわば「影の文化」としての影富・第附を通じて御免富を文化的に受容し、これらは時に御免富をもしのぐほどの隆盛を極めたが、天保期の御免富の廃止に伴い、直接的な存在意義を失ったと説いている。 以上のように、第三部では御免富と受容層の接点である富札の流通の実態に迫り、地方との関係や、御免富と連動して行われた影富・第附の存在形態を考察することにより、御免富の受容に関する諸様相を明らかにしている。 さらに終章では、御免富禁止後の江戸文化社会にも触れ、感応寺が嘉永二年(一八四九)以来たびたび富興行や拝借金などを幕府嘆願している点に着目、各方面で御免富復活運動が展開されていたと推察している。一方、影富・第附を享受していた江戸の中・下層民らは、それに代わる都市文化として、湯屋・髪結床・茶屋・寄席・宿屋などを活動拠点に、頼母子や無尽・花会などの博奕類似行為を享受していたと指摘する。 以上のように、本書では、幕府が民衆の「富」を寺社へと還流させ助成するシステムとして確立した御免富が、江戸の中・下層民や地方へ文化的に普及した反面、皮肉なことに寺社助成の意義そのものが破綻するという構図を明らかにしている。しかし、本書の最も注目すべき特徴は、単に社会史・制度史・法政史の視点だけでなく、文化史の視点から御免富を分析した点にあろう。 |
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