渡辺尚志著『惣百姓と近世村落−房総地域史研究−』

評者:荒木仁朗
「千葉大学」55(2009.11)

 本書は渡辺尚志氏が一九八九年から二〇〇二年にかけて発表した房総地域における論文とおよび新稿をまとめたものである。評者は、小田原を中心とする相模国を研究対象としている。書評依頼の趣旨は関東の他地域村落研究者が房総地域と関東他地域とを比較する観点や関東村落史研究全体から本書の意義に触れてほしいとのことである。最初は通例どおり全体の構成を掲げた上で個々の論考について簡単に纏める。その上で本書の意義を論じながら関東近世村落ないしは房総地域の課題について考えることとする。まず全体の構成は、以下の通りである。

 序章
第一編 上総国長柄郡本小轡村と藤乗家
 第一章 明暦〜延宝期における「惣百姓」
 補論1 天和〜元禄期における「惣百姓」
 第二章 庄屋と身分的周縁
 第三章 十七世紀後半における上層百姓の軌跡
 第四章 藤乗家の文書管理と目録作成と村落社会
 補論2 藤乗家の文書目録
 補論3 長柄郡北塚村の村方騒動
第二編 房総の村々の具体像
 第五章 十八世紀前半の上総の村
 第六章 近世後期の年貢関係史料
 第七章 相給知行と豪農経営
 補論4 細草村新田名主一件と高橋家
 第八章 壱人百姓の村
 
 序章では、第一編の研究対象になる上総国長柄郡本小轡村と庄屋を世襲した藤乗家の概要および文書群を説明する。また「惣百姓」に関する論文や藤乗家文書を利用した著書『遠くて近い江戸の村』(崙書房、二〇〇四年)への批判に対して、反批判を行っている。まず第一章から第三章では、「惣百姓」の動きを中心に庄屋との関係を意識しつつ、十七世紀後期の村落運営を分析している。ここでは水本邦彦氏が分析した、畿内村落が初期・前期村方騒動を通じて、庄屋対年寄から庄屋・年寄対本百姓層と変容していくあり様と明らかに違うことが判明する。この分析から村内外に対する「惣百姓」の多面的な結合を論証している。
 さらに第四章では村役人の文書認識について、近世後期の藤乗家による文書整理や目録の作成過程および村方騒動を通じて検討している。村役人の文書認識を村・地域との関係性から理解しようとする方法は、今後文書管理史研究にとって重要であろう。また補論3では、長柄郡北塚村の幕末期村方騒動を事例にして、文書管理について検討し近世後期の社会変動の中で文書整理・管理の重要性が増大していくことが示される。
 第二編は、上総国の特徴的な村々を様々な角度から分析した論考である。まず第五章では上総国山辺郡堀之内村を事例に、農村荒廃が深刻になり、村方騒動が発生する中で、村人がどのように復興に向けて努力したかを検討する。次に第六章では、下総国相馬郡川原代村を事例に、近世後期の年貢関係史料から年貢割り付けから皆済までの一連の過程を紹介している。
 第七章・第八章は、房総村落の特徴である相給村落を取り上げた論考である。第七章では、上総国山辺郡台方村を事例にして、豪農経営と相給知行の相互関連を検討し、豪農の土地集積における相対的な側面と絶対的な側面を統一して把握することを提起している。補論4では七給細草村で発生した新田名主一件を事例に、相給村落における本田と新田の関係を論じている。第八章では、上総国長柄郡小萱場村という百姓身分が一軒の村を分析して、その特殊性から近世村落の特徴を特に村内の身分の問題を絡めながら分析する。以上簡単に本書の概要を紹介した。

 本書は、第一編・第二編を通じた結論がない。しかし個々の論文を通読すると幾つかの論点が導きだせる。本書の読み方によってはいろいろな論点が発見できるはずであるが、評者は今後の研究課題として二つの論点を取り上げたい。まず一つ目は、「惣百姓」をキーワードにした関東前期村落の分析方法を提示したことである。もう一つは、あまり個々の論考では触れられていないが、関東村落における房総地域の特質を表わす研究課題である。

 まず「惣百姓」をキーワードにした関東前期村落像の分析方法を提示したことに対して、研究史的意義を考えたい。著者はこの意図について序章において千葉真由美氏の批判に対して反論する中で以下のように述べている。「私は、本小轡村のように、実質的な惣百姓結合が日常的に存在した村の事例を示すことによって、従来の一七世紀関東農村の典型的イメージ(=中世以来の土豪が盤(ママ)据する関東の村)を相対化しょうとしたのである」。つまり渡辺氏は、関東前期村落像を打ち出すための方法として「惣百姓」を取り上げたのである。もともとはじめてこの「惣百姓」を分析した小高昭一氏も、同じ問題意識を持ち、関東前期村落史研究は、関東以外の地域(とくに畿内)におけりる先行研究の成果を関東地域で検証するというパターンが多く、関東の地域的特質から描き出すことができていないと指摘した(同「一七世紀における「惣百姓」について−南関東農村を事例にして−」川村優編『近世の村と町』吉川弘文館、一九八八年所収)。この研究状況は、現段階でもほとんど変わっていないのではないだろうか。そこで渡辺氏が関東前期村落の分析方法として「惣百姓」を機軸に村落運営を検討することを提起した。言い換えれば「惣百姓」を中心とする関東独特の近世前期村落運営論の提起である。この提示は、非常に重要であることは間違いない。ただ、本書の論考では、方法の提起に留まっている。以下この提起を受けて、本書の第一編への若干の疑問を含めつつ、関東前期村落研究の方法を検討したい。

 まず渡辺氏は、「惣百姓」のあり方が一七世紀後半の特有の村落状況の産物であると指摘する。しかし、千葉真由美氏の研究によると惣百姓署名・惣百姓印の存在が南関東において文禄・慶長・元和期から確認されている(同「近世の惣百姓印−南関東地域の事例収集を中心として」有光友學編『戦国期印章・印判状の研究』岩田書院、二〇〇六年所収)。このような成果をふまえると「惣百姓」のあり方が一七世紀初頭から後半までの村落状況の産物であると言えるだろう。そのように考えると小農自立の過程時期と「惣百姓」の形成・展開の時期は重なり合い、当然小農自立過程の検討を行うことも同時に必要である。渡辺氏が論証した「惣百姓」の多様な結びつきも小農自立が進行するにともなって変容していくことも想定できる。ただ関東前期村落の特質を踏まえて小農自立過程を分析した研究は、先述したように殆どないと言っていい。まずは関東村落の小農自立過程について多くの個別事例の蓄積が重要である。この蓄積があってこそ「惣百姓」の分析が生きてくるのではないだろうか。

 次に「惣百姓」の内実である。渡辺氏は、「惣百姓」内部は一門・五人組などの多様な結びつきが存在し、面百姓と小百姓という格差もあったと指摘する。この指摘自体重要であるが、「惣百姓」の内実についてより具体的な分析が必要であると考える。先ほども述べたように「惣百姓」の存在が一七世紀初頭から後半まで(ないしは享保期まで)確認されるならば小農自立も関わり「惣百姓」の内部(およびその主体)も変化していくことが想定できる。もし近世初期から「惣百姓」が存在していれば、その主体も組頭であろうか。周知の通り畿内の場合初期村方騒動から前期村方騒動へ移行する中で、その主体が庄屋対年寄から庄屋・年寄対初期本百姓中心そして庄屋・年寄対本百姓、最後に庄屋・年寄村本百姓・無高層と変容していく(水本邦彦『近世の村社会と国家』、東京大学出版会、一九八七年)。畿内の事例を考えると村政参加拡大(捉え返し)の側面を重視すれば、多様な結びつきがあっても「惣百姓」の中心的存在も変容するのではないだろうか。例えば寛永期までは初期本百姓、そして慶安〜寛文・延宝期には本百姓、それ以後は無高まで含むなど、小農自立していく中で村政参加が拡大して「惣百姓」の主体も変化すると考えられる。このように「惣百姓」内部構造の変容過程を検討すれば、その結果として村方三役の確立過程も論じられることにもなるだろう。そのためには関東前期村落における村方騒動の特質についても検討が必要であろう。渡辺氏が分析した本小轡村の村方騒動のようにそもそも関東前期の村方騒動は、畿内と違うことが想定できる。まずは、関東前期の村方騒動を網羅的に収集し、その要求や主体の変化など分析することが重要である。しかしこの分析を行うにも、その前提として「小農自立」過程の分析が不可欠である。

 以上、今後関東前期村落研究の方法として@小農自立過程の分析を蓄積させること、A@を踏まえた上で「惣百姓」内部構造の変容過程(中心的存在の変化等)を村方騒動やその多様な結びつきを中心に分析することが必要だろう。

 次に関東村落における房総地域の特質を表わす研究課題についてである。簡単に関東村落の研究を振り返ると、戦後近世関東農村の評価は、周知の通り古島敏雄による「関東後進地帯論」が代表な見解であった(古島敏雄『近世日本農業の展開』東京大学出版会、一九六三年)。しかし七〇年代に入ると長谷川伸三・阿部昭などによる「北関東農村荒廃論」が関東農村の評価を変えることとなった。それは、特徴的な近世中後期農民の村外流失による荒廃化が進む北関東を分析したものである。その影響を受けて、研究者の中でも「北関東農村荒廃」のイメージで関東の他地域を分析している傾向が見受けられた(例えば、斎藤康彦「農村荒廃期の藩公金貸付政策の展開−小田原藩足柄農村を素材として−」『日本歴史』四二四号、一九八三年や長谷川伸三『近世農村構造の史的分析』柏書房、一九八一年)。そのためか研究史上、現在も特に近世中後期関東農村といえば「北関東農村荒廃」という印象が強いと言えるだろう。しかしそもそも北関東と南関東という線引きがおかしいではないだろうか。また現在、関東において自治体史が多く刊行され、資料的にも事実的にもいまや関東後期の村落を「北関東農村荒廃」のイメージで捉えられない。当然本書が対象とする房総地域も、評者が対象とする相模地域も含まれる。まずは、研究対象地域の精緻な分析をして、地域的特色を描き出すことが先決であろう。ただ、比較する中で地域的特質は論じることも重要な方法である。この様な比較する視座において関東地域を見ると、相模地域と房総地域は、旗本知行を中心とする相給村落が多い。本書でもこの特質に関わる部分で第七章および補論4で分析している。また両地域は近世後期になると海防問題に関わり、江戸湾防備のため領主が何度か変化し、村々に多大な負担が課せられた。では本書からいかなる房総地域の特質がみるだろうか。ここでは房総地域を分析する新たな視角として農村荒廃の有り様に注目したい。先述べたように北関東のような荒廃は相模地域も房総地域も見られない。小田原を中心とする相模地域は、周知の通り宝永五年の富士山の噴火および享保期酒匂川の氾濫による災害によって壊滅的な荒廃状況となる。この荒廃状況からどのように復興したのかが重要な課題となり、研究者の関心を呼び多くの研究成果がある。

 では房総地域ではいかなる農村荒廃が起きているのであろうか。本書では第五章の上総国山辺郡堀之内村では、享保期新田開発が進められていた。しかし鍬下年季が明けた新田を返上する動きがあり、享保初年段階で本田畑の荒れ地化が進行し、新田開発による耕地拡大を既存耕地の荒廃が上回っていた。周辺村落も同様な状況であるとも指摘している。『千葉県の歴史』通史編近世1によると上総国は全国的に生産力が低いとされ、新田開発しても逆に年貢未進を増長させるだけであった。このようを事例を探すと、若干ずれるが、下総台地の荒廃である。享保一一年(一七一六)の新田検地条目では、検地対象地の内田畑にならない場所は林畑として高に組み込むとされる。この方法による原地検地が下総台地で実行された。しかし下総台地は火山灰土のため耕地に適さない。結果として年貢上納ができなくなっていくのであった。そのため新田村落に居住しない不在地主が所持地を手放すようになっていった。このような状況は、原地検地を受けた松戸新田でも元禄期から発生していた(以上の記述は『千葉県の歴史』通史編近世1の第五編第四章参照)。

 このような低位な生産力や自然条件に規定されて新田開発がうまくいかず、逆に農村荒廃を引き起こしている事例が多々見受けられえる。

 このような視点から見ると、深読みかもしれないが、第一編の分析対象である本小轡村の村高は、「元禄郷帳」では二七七石余りである。しかし明暦二年(一六五六)の段階では村高の内一八二石余りが荒地となっていた。実質的には作付高は一〇〇石以下に減少した。初期新田開発の実施が低位な生産力によって成功せず、この荒地化が発生したのではないだろうか。また渡辺氏は著書『遠くて近い江戸の村』(崙書房、二〇〇四年)の第二章では、本小轡村の享保期の新田開発は、困難を伴いながらも成功したような文脈で描いているように見受けられる。ここで一つの疑問が生じる。明暦段階の荒れ地は、どのようになったのだろうか、復興した上で享保期の新田開発が実施されたのか、それとも本村の荒れ地は放棄されたままであろうか、質問したいものである。

 評者が管見した若干の事例からでは、新田開発に伴う農村荒廃は、当然房総地域の特徴とは言い切れない。しかし房総地域の農村荒廃は、少なくとも北関東や相模とは違うように感じられる。今後の研究課題として検討していくことで房総地域の大きな特徴を示せるのではないだろうか。
 本書は多面的に幅広く基礎的分析を行い、着実な実証から立論されたものであり、個々の論考を読み込んでいくことで今後関東近世村落史研究を行う際の論点が発見できる素材を提供している。

 以上、本書の内容の紹介と本書の成果を踏まえての研究課題を述べてきたが、評者の力不足から著者の意図を十分に理解できず、また的外れな指摘をした箇所もあるかと思われる。その点についてはご海容していただければ幸いである。

(明治大学大学院文学研究科博士後期課程)


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