伊村吉秀著『近世東三河の水産物流通』

評者:中西 聡
「社会経済史学」73-5(2008.1)

 本書は,近世期東三河吉田藩領吉田宿の魚市に関連する研究を発表してきた著者が,これまでの研究を一書にまとめたものである。まず本書の内容を紹介する。

 第1章「魚市の開設と伊奈忠次証文写」では,吉田宿の魚市が開設された経緯に関して,これまで評価の分かれてきた「伊奈忠次」の判物の写しが再検討された。慶長5(1600)年の関ケ原合戦後に遠江・三河の国奉行に就任した伊奈忠次は,遠江・三河の社寺に対して,所領の安堵状や寄進状を多数発給しており,その内容からみて伊奈忠次は,遠江・三河の公私領を通じて,商業活動の掌握を企てていた。問題とされてきた「伊奈忠次」の判物の写しに記載された「魚市の安堵」も,忠次の一連の政策に即した内容と言えることから著者は,文言の細部はともかく,同じ内容を示す証文が,家康の命を受けた忠次によって発給されたと推測できるとした。

 第2章「宝飯郡前芝村『魚出入記録』をめぐって」では,牟呂・前芝両村民と吉田宿の魚問屋・中買との争論が検討された。争論の始まった嘉永4(1851)年以前から,牟呂・前芝両村民の「魚売歩行」(漁民が行商により魚を直接販売)は慣行として認められていたと推定され,魚問屋と中買による卸売独占は,あくまでも魚問屋・中買の主張・願望にすぎず,争論の結果,牟呂・前芝両村民の「魚売歩行」は藩によって公認されることとなった。それにより両村から魚問屋へ出荷する魚は次第に減少したと考えられ,魚問屋に打撃を与えたと思われるものの,魚問屋らは魚売歩行の公認を容認する代わりに,藩への運上の半減を勝ち取るなどしたたかな存在でもあった。

 第3章「片浜十三里の魚荷の流通と吉田の魚市」では,吉田の魚市へ魚を送り出した片浜十三里の浜方と吉田の魚市との関係が検討された。片浜十三里のうち田原藩領の八ケ浜では,漁猟運上の方式として捌くり浜と請負浜の2種類が行われ,不漁が続かない限りは,年間の運上金額があらかじめ決められた請負浜が,浜方の村民に多くの収益をもたらしたが,財政難の田原藩は,請負浜を漁獲量に応じて運上を決める捌くり浜に変更させることもあった。捌くり浜では,漁獲量見分のために浜手代が派遣されたが,藩の統制はなかなか行き届かず,運上の増徴は藩が期待したほどには実現できなかった。また,漁獲物のうち鰯の多くは,浜方の村民が干鰯に加工し,吉田を含む各地から商人が浜方や田原町に出向いて干鰯を仕入れ,吉田宿では魚問屋と別に肥料を専門的に商う干鰯屋が出現した。

 第4章「渥美郡吉田宿魚市の肴荷物と馬稼ぎ」では,吉田宿の魚市と魚荷の出荷先であった信濃地方との馬背輸送の様相が検討された。三河と新信濃を結ぶ伊奈街道の馬背輸送として中馬が著名であるが,著者は中馬と対抗しつつ伊奈街道の肴荷物の輸送を担った三河(三州)の馬稼ぎに着目している。吉田宿の魚市から伊奈郡飯田への肴荷物の運送形態は,中馬と三州の馬稼ぎのどちらも先着順で吉田の荷問屋あるいは魚問屋が直接に荷渡して,附通荷物として飯田まで駄送された。この慣行が明和元(1764)年の裁許で否定され,吉田からの送状付の附通荷物は,中馬が独占して駄送することとされた。しかし現場の吉田宿の魚市では,肴荷物の流通にとって鮮度確保が欠かせないため,中馬・三州の馬稼ぎのどちらにも先着順・直出しの慣行を続け,結果的に,幕府もその慣行を容認した。

 第5章「伊那街道の中馬・三州馬と文政三年裁許」では,前章で触れられた中馬と三州の馬稼ぎに関する慣行を幕府が容認する過程が検討され,文政3(1820)年の裁許と天保15(1844)年の内済が取り上げられた。中馬と三州の馬稼ぎの間に争論が起きて,文政3年に三州の馬稼ぎに対する最初の幕府の裁定が出されたが,それは中馬の権利を認めた明和裁許を踏襲しており,文政3年の裁許により,三州の馬稼ぎの権利を認めてきた慣行の多くが否定された。それ以後三州馬村方は慣行の復活を目指し,中馬村方はさらなる三州馬の排除を求めて係争を繰り返したが,中馬の独占的権利が容認されたことで荷物の停滞と駄賃の値上がりが見られたため,飯田・新城・吉田の馬宿・荷問屋・荷主らは次第に三州馬村方と同調するようになった。その結果,幕府は天保15年の内済で吉田出の地荷物,特に「商人送り状之魚荷・出地荷物」を附通荷物とする駄賃稼ぎに三州の馬稼ぎも参入することを認めた。

 第6章「田口町村外五カ村の天保二年三州馬復帰訴訟と商品流通」では,前章で検討された文政3年の裁許の結果,幕府の言う「三州馬」の規定から外れ,信濃・三河間の附通荷物の駄賃稼ぎに参加する慣行が権利として認められなくなった田口町村外五カ村の馬稼ぎ人らが,否定された慣行の復活を主張して幕府へ出訴した天保2年の訴訟が取り上げられ,田口町村外五カ村・中馬村方・三州馬村方・荷問屋・荷主らがどのようにそれに拘わったかと,それが信濃・三河間の流通にいかなる影響を及ぼしたかが検討された。田口町村外五カ村は,中馬村方と三州馬村方のみを相手に訴訟を起こしたく,また荷問屋・荷主は,駄賃値上がりの防止と迅速な商品輸送のために田口町村外五カ村の主張に同調する向きもあったが,評定所は田口町村外五カ村の訴訟相手として荷問屋・荷主にあたる信濃と三河の商人も召喚した。そのため田口町村外五カ村は,その訴訟での勝訴を諦めたと推測でき,田口町村外五カ村の訴えは退けられた。しかし,荷問屋・荷主らの協力を得られる見通しを得た田口町村外五カ村は,十分な準備を進めて2度目の訴訟を起こした結果,天保12年の内済で三州馬への復帰が認められた。

 以上のような内容をもつ本書は,全体として吉田宿の魚市で取引された肴荷物の漁獲地から販路の伊奈地方までの流通を検討した好著であった。綿密な史料解読に裏打ちされた丁寧な検討がなされ,各章の結論にも違和感は覚えなかった。特に興味深かったのが,中馬と三州の馬稼ぎの位置付けであり,著者もたびたび引用した古島敏雄『信州中馬の研究』(伊藤書店,1944年)では,領主的階層と結び付いた運輸の担い手に対抗しつつ,商業的農業の発達と結び付いて成長した運輸の担い手として信州中馬が位置付けられたのに対し,本書ではむしろ信州中馬は,支配権力の特権的保護を受け,三州の馬稼ぎの自由な活動を阻害する勢力として描かれた。

 むろん前掲古島著でも,既存の宿駅勢力に対抗して権利を勝ち得た中馬が,新たな新興勢力である三州の馬稼ぎの活動を抑圧する存在になったことは,見通しとして述べられたものの,三州の馬稼ぎを本格的に検討した本書は,領主的商品生産・商品流通と農民的商品生産・商品流通の二項対立的に幕藩体制の動揺を捉えることの問題点を提起しているように評者には思われた。歴史は常に新たな勢力の台頭を生み,既存勢力も当然それに対して巻き返しを図り,そのダイナミズムのなかで展開してきたと考えられ,近世社会から近代社会への移行過程の複雑さも本書から感じることができた。

 さらに本書では,吉田宿の魚市の魚問屋に関しても,商取引の独占的権利を目指しつつ,それが認められなければ,それを諦める代わりに支配権力から運上減額の譲歩を引き出すなど,単に支配権力の保護を期待するだけの特権勢力とは描かれなかった。

 ただ,その意味では本書で近代期への展望が述べられていないのが残念に思われる。本書258頁では「中馬村方と三州馬村方の間の虚々実々の駆引きは,明治期になっても続いていた」とされているが,近代社会への転換のなかで彼らの力関係がどのように変容したかが論じられれば,三州の馬稼ぎの歴史的意義がより明確になったと思われる。前述の信州中馬に関する古島敏雄の研究が,近世から近代への移行のあり方をめぐる研究を盛んにする端緒になったことを想起すれば,三川の馬稼ぎの検討の歴史的意義は大きいと言えよう。また,吉田宿の魚市の魚問屋についても,彼らが近代社会のなかでいかなる役割を果したかは興味深いところであり,それらの点についての著者の見解を是非伺いたく思った。


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