喜多村理子著『神社合祀とムラ社会』
評者・岸本昌良 掲載誌・日本民俗学223(2000.8)


 神社合祀とは明治末年に政府により推進された中小神社の統合政策である。これまでの間、この政策についての研究はさほど多くない。その理由として三つほど考えられる。一つは、『広辞苑』の神道の項目にあるように、神道とは「わが国に発生した民族信仰。(中略)明治以降は神社神道と教派神道(神道十三派)とに分れ、前者は太平洋戦争終了まで政府の大きな保護を受けた。」とあり、一般的に戦前に神社神道は国家の保護を受けていたとみなされ、そのような視点からは、明治期に政府が神社を整理統合を推進したことは見逃されやすいという点。二つ目は、『広辞苑』の国家神道の項目にあるように、国家神道とは「明治維新後、神道国教化政策により、神社神道を皇室神道の下に再編成してつくられた国家宗教。軍国主義・国家主義と結びついて推進され、天皇を現人神とし、天皇制支配の思想的支柱となった。第二次大戦後、神道指令によって解体された。」と神社は規定され、戦後、国家神道は解体されたと見なされ、また、戦前の社会を支えたと見なされるものについてはあまりふれたくないとして、神社に関する研究が忌避されていたのではないかという点。三つ目に、神社合祀は全国一律に実施されたわけではないため、地方ごとに違いがあり、全国的な問題とならかった点などである(神社合祀の地方差については岸本 一九八一参照)近年になり、次第に神社合祀に関する研究が深まってきている。今回、紹介する喜多村氏の著作もその一つである。この著作は大きな特徴は、地域社会における神社合祀の経過を調査解明しているところにある。第T部で、鳥取県東伯郡安田村大字八幡、第U部で滋賀県野洲郡三上村における神社合祀を取り扱っている。まずは、著作を俯瞰するために、目次を取り上げよう。
(目次省略)
 この著作は以上のような構成になっている。少し詳しく内容を紹介してゆこう。
 第T部で鳥取県東伯郡安田村大字八幡における神社合祀を下市の古い区長箪笥に残された「宮騒動関係書類」や地元のインフォーマントからの聞き書きにもとづき再構成している。地方における合祀実施の状況がよく分かる。八幡(ヤハタ)は明治一○年に向原村と下市村が合併して成立し、明治二二年の町村制の施行時に、八幡は箆津(ノツ)・湯坂・光(ミツ)・梅田・尾張が合併して安田村の大字となった。なお、ここで喜多村氏は町村合併に対して「このように画一的な強制合併に対する不満が各地で沸騰し、地方改良運動後に分離独立運動を起こした地域も多くみられた。」としているが、どこの地域のできごとなのだろうか。多くとしているがあまり聞いたことがないところなので、知りたいところである。なぜ、このようなことを記すのかというと。地方制度確立において、町村制という制度をつくることが優先され、その内部に合併以前の社会関係が残され、そのために行政町村は大字間の対立が生じやすく、それを解消するために、地方改良運動が始まったわけであり、その一環として神社合祀が実施されたわけである(詳細は岸本 一九八六参照)。神社合祀の分析と同様な視角で分離独立運動も分析ができると思うし、何故に地方改良運動が始まったのかを解明でき、合祀研究としても深まるところだと思うからである。
 安田村には箆津・湯坂で祀る箆津神社、下市で祀る下市神社、向原で祀る八幡宮があった。下市神社には江戸後期に箆津神社の神職河合家から分家した神職がおり、向原の八幡宮も兼務していた。また、下市・向原は箆津・湯坂とは川で隔てられていたという。なお、ほかの字にも神社があったようであるが、箆津の箆津神社に合祀されているようである。この著作では下市神社・八幡宮と箆津神社の合祀問題のみ取り上げており、他の字にどのような神社があり、箆津神社に合祀されたのかどうかは分からない、知りたいところである。同じ行政村内での神社合祀への対応方法の違いにより、下市・向原での合祀反対運動の特異性があきらかになるのではないかと思うからである。
 神社合祀は地方改良運動の中の一つの施策であり、このほかにも、行政村の確立のために小学校・青年会・部落有林野などの統一なども施策としてあった。この著作では、安田村における小学校の高等科設置問題、同時期の安田村青年会の成立にも言及しており、その点では十分目配りされていると思う。
 箆津は地主屠が多く、八幡には自作農が多く、「自作地主が中心となって抵抗運動を繰り広げ」、下市の区長など、反対運動の中心は下市で地価千円代の地主であることは提示されているが、自作農かどうかは不明であり、また、箆津に地主が多いことは提示されてなく、この農民層分析はいささか明示的ではない。また、文中に「寄生地主」という言葉が便われているが、寄生地主とは一般的に高率高額小作料を基本とし、小作料に寄生して生活する地主であると思うが、安田村でそのような地主がいたと論証されているとは思えないのが残念である。おそらく、戦前の日本農村は寄生地主により支配されていたとする論に依拠しているのだろうが、この地域で地主制の展開の解明がこの著作では十分ではないと思う。
 ただ、水利慣行の項目で「水争いの時にも、ムラの意見をまとめて対外交渉にあたるのは土地所有者ではなく、下市に住み、下市の水田で働く下市の農民であった。ムラの運営は土地所有者ではなく、ムラに住む人々によって行われる」と例証し、神社合祀のときに自作農が抵抗しているところは具体的でわかりやすい。
 柳田国男の「物忌みと精進」を引用しつつ、籠りが祭りの本来的な姿であり、強制合祀前に八幡の住民が八幡宮に一晩籠もったのは、「ムラ人が神社を守るために外部に対して激しい抵抗の気持ちをもつ時、内部の絆を確かめあい、その結合の強さを表明する行為ともなったのは当然のことであった。」とし、さらに八幡での民俗行事としての宮籠りついても言及しているが注にあるのはいささか不親切ではないだろうか。
 この章のまとめにある、「八幡における抵抗運動は、均整的な伝統を基盤として近代社会の中で形成されていたムラの秩序と身体感覚が地方改良運動のもとで進められていた国家的秩序、つまり、帝国列強諸国に対抗して近代国家を築くための行政町村単位の国家統合に対して拒否反応を示したものであるといえよう。」としている。この地域における神社合祀反対運動とはそのとおりのものであろう。
 第U部では滋賀県野洲郡三上村の中での神社合祀を取り上げている。なお、「はじめに」のところで、明治三十九年に勅令二百二十号から始まり、社寺合併の通牒を次々に公布し、「これを期に、全国各地では神社・寺院の統廃合が進められる」と記しているが、この時期に合併が推進されたのは神社であり、寺院数の変化は神社と比較してはるかに少ない、この点が「神社合祀」の特徴である。(詳しくは岸本 一九八七参照)。なお、この三上では神社の合祀ばかりでなく、寺院の統合も同時におこなわれた地域であり、貴重な報告である。なお、三上村は北桜・南桜・妙光寺・三上の四か村が明治二十二年に合併して成立した付であり、この著作では北桜と南桜の神社合祀について記述しており、三上村全体でどのような合祀があったのかという記述がなく、物足りなさを感じる。
 ただ、この著作の主眼は「綿密な聞き取りとわずかに残された史料から、合祀に至るまでの過程を細かく検討してみれば、当時の北桜内部では神社と寺院の統廃合をめぐって大変に揉めていた事実が明らかになった。簡単な実地調査のみで、「神社合祀への抵抗感が少なかった」と判断できるものではないことを、北桜の事例は示している。」といい、三上村での神社合祀を解明するというより、神社合祀が問題なく実施されたと思われる地域においても、綿密な調査をすれば、住民の抵抗が明らかになるという姿勢であり、期待する方が無理な注文なのかもしれない。
 北桜は、近世において五十五戸前後の村であり東組と西組に分かれ、西組は若宮大明神・多門寺、東組は十禅師宮・得生寺があり、西組の寺社の方が規模は大きく、村の寄合も西組の多門寺でおこなわれていた。明治四十三年に十禅師宮を若宮大明神に合祀し、得生寺も多門寺に合併させ、東組が西組に組み込まれる形で社寺の統廃合がおこなわれた。東組の中では、「当時東組は合併に賛成する者と反対する者と二派に分かれ」ていたという。
 神社合祀後、北桜は東西に二分されたムラを一番組、二番組、三番組の三部に分けた。東西に分かれて何かにつけて口論が絶えないために、東西両組が混ざるようにしたという。また、若宮大明神の祭祀権が西組三十軒の内十八軒くらいでしていたのを、北桜全体で担うように変革した。その後、合祀された神社の祭祀の復活はなかった。北桜において、神社合祀と同時にムラの中の編成を変えたので、神社の復活は無かったという論であるが、どこの誰が、ムラの中の編成を変えようとしたのだろうか。ムラを外から見ていただけでは東西の対立は分かりにくいだろうし、ましてやムラの編成を変えるという指示をし、実施させることも難しいと思える。おそらく、ムラの中で決めたことと思えるがどうだったのだろうか。
 神社合祀とは改府の指示により始まった神社の統合政策であるが、ムラの中ではこの時期以外にも神社の統合は実施されており、その実施の主体はムラ人であったと思う。また、外部から神社の合併を強制されたときに、ムラの中でも神社の合併が必要と考えている人間もいたのではないだろうか。北桜の神社合併の事例はそれを推測させるものである。
 南桜は九十七戸で構成され、その中は五つの組に区分されている。組は村寄合の単位となり、南桜区の問題を討議するときは、区長と組頭が集まり検討し、その後、各組で話し合うことになっている。また、組は共同労働(道普請など)や祭礼行事(お日待ちなど)の単位でもある。各組に小祠があり、お祭りをしていた。それが、明治四十三年に村社に合祀された。組の組織は変化せず、合祀して社殿が無くなっても、組でその社の祭礼を続けている場合もあるという。
 私が神社合祀について調べた昭和五十五年(一九八○)頃には、合祀を実際に見聞きした人にかろうじて会うことができたが、現在ではかなり困難であると思う。その困難を地元研究者の協力を得て乗り越え当時の様子を綿密に調ベ、社会状況につなげ、わかりやすく再構成したところにこの著作の意義があると思う。
《参考文献》
岸本昌良 一九八一「神社合祀の実態」(『史潮』新九号)
岸本昌良 一九八七「神社合祀の理論」(『宗教学論集』一三輯)
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