永井隆之・片岡耕平・渡邉俊編 『日本中世のNATION 統合の契機とその構造』 |
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評者:小川弘和 | |||||
「歴史」113(2009.9)東北史学会 |
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本書は、編者となっている三名の若手研究者らにより、近代的「国民」意識の歴史的前提を中世にさぐるという立場から、中世における社会統合の様相を明らかにせんという意図のもとに企画された二〇〇六年度中世史サマーセミナーにおけるシンポジウムをもとに編まれたものである。評者は、その発言が本書の全体討論にも収録されているシンポジウムの一参加者であり、その意味では中立的立場からの論評の資格を欠くが、企画意図や諸論点についての疑問を発した者の責として、本書評をひきうけたものと理解されたい。 まずは本書の構成を提示しておこう。 はしがき このように本書は「中世に国家はあったか」という問いを、近年あらためて強調された新田一郎氏(1)をむかえて議論の入り口を用意したのちに、編者三名による各論を配し、佐藤弘夫・小路田泰直両氏がコメントを付す、いわば若手の意欲的挑戦をベテラン三名がはさみこむ構成となっているが、これはシンポジウム当日の構成を忠実に反映したものである。 まず新田論考では、上野千鶴子氏の王権論や堀米庸三氏の封建制論を参照しつつ、象徴的な〈外部〉の独占により存立する「王権」が、仏教の如き普遍的価値体系との接触によりその独占を綻びさせたのち、社会というゲームの場にかたちを与えつつそれを操作する「権力」へと再定義されていくことや、そこにゲームのルールの源泉たる「権威」と、ルールの運用主体たる「権力」への分節が生じていくことが論じられ、中世後期の「日本」がかかる「権威」構造をもつ一定の統合の場として機能していたことが確認される。次いで明を軸に再編された同時代の東アジア国際秩序が、各国の相互関係を律する「権威」構造として機能し、そのなかで各国代表者が自国の〈内部〉と〈外部〉とを分節する存在となっていくことで、相互の境界の確定という近代の国境観念につらなる方向性をうみおとすのではないかと指摘される。 さて、かかる概観をうけて展開する各論の口火を切るのが、「神国」観念という世界観の共有の如何が自他認識を相補的に形成していく過程を、対外的ひろがりをも念頭に問題とする片岡論考である。ここでは国土領域の観念と連動しつつ国家中枢に形成された「神国」観念が、本末関係をとおして死生観の地域差を平準化しつつ浸透させられていき、その素地のもと蒙古襲来を契機に〈われわれ〉意識が自覚されていくこと、その際、「穢」を媒介に〈われわれ〉から排除される〈他者〉の内実が、生業によるものから異国人の子孫というものへと転換していくことを示して、「神国」意識の形成・深化を媒介する「異国」の不可欠性が実証的水準で論じられる。 これに対して渡邉論考では、ネイションとよびうるような統合状況の一つの条件として、直接対面可能な範囲をはるかにこえた抽象的統一性が措定され、その中世日本における装置としての年中行事と、それを支える「滅罪と安穏」の意識がはたす統合のさまが、やはり対外的ひろがりにも留意しつつ提示される。まず滅罪を目的とする寺社への寄進の列島全域における分布が示され、かかる意識の内面化が年中行事の重層的体系をとおした統合を下支えしていったことが確認される。次いで戦乱に満ちた中世においては、滅罪による鎮魂が為政者に繰り返し求められたことをとおして、その内面化と統合が深められたこと、かかる意識が普遍宗教たる仏教に基礎づけられていることにより、三国観のもとに天竺・唐土と対比される「日本」という〈われわれ〉認識の輪郭をかたちづくっていったことが論じられていく。 かくして統合の輪郭を対外的ひろがりのなかに捉える片岡・渡邉両論考に対し、その統合に中世の人々が主体的に参画する面を有していたことを論じ、そこに「国民主権」の起源をみようとするのが永井論考である。まず戦国期百姓の「王孫・神胤」意識が、敗北者・反逆者である王孫・神胤に依拠するものであることから、そこに一方的「恩賜」ではない主体性をみいだして、これを「天賦人権」の論理につらなるものとみる。次いでその起源を『日本書紀』にみえる逆臣のあり方に求めてその戦国期の「王孫・神胤」意識への規定性を主張し、そこから百姓等の「本源的統治権」が導出される。そして『本福寺由来記』のなかに、職能への専従にともなう百姓の直接的な統治権行使の否定とその貴人への委任という論理をみいだし、これを「社会契約」に相当するものと評価して、以て「国民主権」の起源が確認されることになる。 さて、このように編者らによる分析は、中世における統合の様相の具体化という点で一定の成果をあげつつ、そこから導出されるさらなる問題群の存在をも暗示させるものとなっているが、かかる若手研究者の見識と姿勢を、ベテラン二名はどのようにうけとめたのだろうか。中世思想史を代表する研究者という立場から、統合をめぐる意識・思想に重点をおいた本書への評価を期待される佐藤論考は、手短ながら十全にその役割をはたしている。まず統合の契機をめぐる研究状況が、かつての武力編成や支配機構から帰属意識といった人間の内面にかかわるものへとシフトしつつあること、本書がその流れをさらに加速させるべく、気鋭の若手研究者らによって企画されたことを確認・積極的に評価したうえで、各報告の趣旨をまとめつつ、そこに鋭く適切な論評が加えられていく。そして本書が全体として中世日本における統合の様相を具体化したことを評価しつつも、さらにその先に超越者や死者をも含むコスモロジーや、その多元・重層性の解明といった課題が浮上することを指摘するのである。 一方、長期的観点からの歴史把握の必要を掲げて本来の専門分野である近代史以外についても積極的な発言を試みてきたことで知られる小路田氏には、本書を長いタイムスパンのなかに位置づけることが期待されたものと思う。そしてその成果を連続面を示すものとして高く評価する小路田論考は、確かにその役割をはたしてはいる。しかも中立的・教育的ともいえる佐藤論考に比して、小路田論考は当日のフロアからの批判を、企画者たちの意図を十分汲んでいないものとして、その弁護の役割を担うきわめて主張の強いものとなっている。 最後に、本書の企画意図の背景にある理論的問題にも不十分ながら触れておきたい。本書冒頭には「近代以前から受け継がれ、現在にあり続ける〈われわれ意識〉の歴史「物語」を書く試みの第一歩」という趣旨が掲げられ、「物語」という語には「恣意的に創作されたフィクションという意味での物語ではなく、各史料に対する認識に基づいてそれらの意味連関を構築する営為という意味での「物語」である」という注が付されている。この趣旨の意味するところが、すべて言説は同等に「物語」であるという言語論的転回をうけとめつつ、そのなかでも学術には相対的に蓋然性ある作業が可能でありまた必要だという宣言である限りはとりたてて問題がない。ただし全体討論における「『新しい歴史教科書』とは別の形や方法」での「国民の物語が必要」という趣旨の編者らの発言をふまえれば、この「物語」という語の強度は、「悪しき」「〈われわれ〉の物語」に、より「善き」「〈われわれ〉の物語」を対置させるという実践的姿勢の強度をも含意しているとうけとめても不当ではあるまい。だとすれば編者らは〈われわれ意識〉の構造と変容を対象化した歴史分析を経ることで、「善き」「〈われわれ〉の物語」がうみだせる可能性があるという意図を、この言明に込めたのかもしれない。しかしこれはとたんに、〈われわれ〉という主語の自明性が不断に掘り崩されていく「物語」とはいかなるものなのかという困難に直面するのではないだろうか。この「〈われわれ意識〉の歴史「物語」」という表現と、そのむこうに透けてみえる「〈われわれ〉の物語」への志向性とのあいだによこたわる溝は、たとえば次のような問題を想起させる。 十六世紀、ヨーロッパの中部、北部で荒れ狂ったあの邪なる大聖戦において、これらカトリック教徒とプロテスタントの人々は各地でそれぞれの役割を果たし、かれらは当然のことながら、自分たちを心地よくおたがい共に「フランス人」などとは考えなかった。しかし、…こうした比喩的表現の効果によって、中世・近世ヨーロッパにおける大規模な宗教紛争上の事件がほかならぬ「フランス人同胞」のあいだの安心できる兄弟殺しの戦争とされることになる。(『定本想像の共同体』「Y 記憶と忘却」三二七〜八頁) かかる問題をどのようにうけとめていくのかが、「試みの第一歩」としての本書の価値を、今後において規定していくのではないだろうか。 《註》 |
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