由谷裕哉著『白山・立山の宗教文化』

評者:長谷川賢二
「宗教研究」362(2009.12)

 著者は、北陸を拠点として宗教文化、民俗文化等の研究に精力的に取り組んでいる社会学・民俗学研究者であり、これまでに多数の論著を発表している。本書は『白山・石動修験の宗教民俗学的研究』(岩田書院、一九九四年)の続編にあたる研究成果であり、北陸の代表的な霊山である白山と立山を対象とした研究が集成されている。研究方法やフィールドの面で前著との関連が深いことから、著者のスタンスを正しく理解するためには、併読が望まれよう。

 本書の構成は、冒頭に序論を置き、続く本論は第一部「立山の地獄説話と開山伝承」(全四章)、第二部「白山加賀側の長吏・衆徒・社家」(全五章)からなり、最後に結論として成果と課題がまとめられている。さらに巻末には、英文要旨が添えられている。

 「序論 地方霊山の位置づけと研究視角」では、中央の霊山や修験道の歴史的展開過程を概観しつつ、白山・立山を含む地方霊山の位置づけを示している。その上で、地方霊山の研究史を検討し、とくに郷土史的な、あるいは五来重が提唱した仏教民俗学の影響を受けた霊山信仰史研究の克服を図ることを課題としている。そこで導かれた視角が地方霊山の開山以前の伝承、地方霊山の一山組織の二点である。これを具体化するフィールドとして、前者については立山(本論第一部)、後者については白山(本論第二部)がそれぞれ設定されている。史料的な制約にもよるものだが、研究視角・内容とフィールドの両面で、大きく区分されているとみえる。
 
 本論の第一部「立山の地獄説話と開山伝承」は、四章にわたって、立山に関する説話の分析し、古代から中世にかけての立山の宗教的動態を明らかにしている。

 第一章「立山の宗教文化と地獄説話:概観」は、第一部の序章に相当する。立山の歴史的・地理的環境を概観した上で、立山の開山と地獄説話について論じている。宗教的な登拝が始まった段階と寺院の建立や組織の成立をみた段階(著者はこの段階をもって「開山」とすべきとしている)との差を考えてこなかった従来の研究を批判し、その段階性と立山の地獄に関する説話・伝承の対応を主張している。そして、日本における地獄観念と地獄説話について、『日本霊異記』をもとに、古代国家の仏教体制を反映したものととらえ、次章以下で検討対象とする『法華験記』や『今昔物語集』との差異を見通している。

 第二章「『法華験記』に描かれた立山地獄説話」は、十一世紀前半頃成立したとされている『法華験記』における観音代受苦を説く地獄説話を分析したものである。まず、従来、この説話に先行するとされてきた狩人開山伝承所収テキストとの先後関係を確定し、むしろ『法華験記』所収地獄説話が先行したと主張している。また、狩人開山伝承については、熊野や伯耆大山の開山伝承を前提としていると説いている。次いで、『法華験記』所収説話について、『今昔物語集』巻十四所収説話との比較も含めて考察している。そして、『法華験記』における説話について、立山地獄とそこでの若い女性の堕地獄と救済といったローカルな唱導パターンを基盤とし、律令国家仏教に特有の観音信仰・法華経霊験譚が付加されたものとみている。また、開山以前の立山の宗教環境を示す説話として評価している。

 第三章「『今昔物語集』巻十七における立山地獄説話とその中世的展開」は、『法華験記』とは異なる立山地獄説話として、『今昔物語集』巻十七所収の地蔵代受苦タイプの説話(第二十七話)に注目したものである。まず、『法華験記』との対比を行い、次いで、『今昔物語集』巻十七の説話の典拠とされている『地蔵菩薩霊験記』との相互関係を検討している。現存の『地蔵菩薩霊験記』は『今昔物語集』と共通の失われたテキストもしくは『今昔物語集』を典拠としたと推測している。また、『今昔物語集』巻十七の地蔵菩薩関係説話の内的構成を分析し、立山地獄説話を含む二十七〜二十九話を女人の他界譚として一括し、天台系寺院・教団や平氏とのつながりという宗教的・政治的状況の反映をみいだしている。その中にあって、第二十七話の立山地獄説話は唯一、地蔵によるヒロインの再生がない点にローカル色を残したものという。一連の考察を踏まえて、後の立山における女人堕地獄・救済の唱導の濫觴たる『法華験記』と『今昔物語集』のうち、後者における地蔵代受苦タイプの立山地獄説話が、以後繰り返し用いられ、やがて阿弥陀による西方往生が付加されたことを指摘し、そうした説話の展開に立山開山の実態が投影されていると論じている。

 第四章「中央と地方霊山における本地説と開山伝承」は、第一部の総括にあたる。中央の霊山や修験道の動向と立山との対照を行うことで、立山が地方霊山の位置に至った理由を明らかにしている。まず、古代における中央霊山の聖性を検討し、律令的秩序との対峙・否定はなく、後の修験道の中心となる吉野・熊野と立山・白山の類似性を指摘している。次いで、吉野金峰山と熊野三山における本地説・感得譚の登場を論じている。吉野金峰山では行者により、熊野三山では山中生活者により、それぞれ本地が感得されるというものであり、それらは、在来の律令的神祇と無関係に形成されているという。こうした本地説成立は院政前期の十二世紀であり、その背景として、同時期に進行する吉野−熊野修験の組織化とともに、院権力との結びつきをみいだしている。一方、立山は院権力と結びつく契機をもちえず、吉野−熊野修験道の配下に組み込まれて地方霊山という位置に甘んじたと論じている。

 本論の第二部「白山加賀側の長吏・衆徒・社家」は五章からなり、中世後期から近世にかけての白山加賀側の一山組織の展開を明らかにしている。

 第一章「十四世紀から十五世紀前半までの白山加賀側の衆徒」は、白山における宗教活動の実態に迫ることを目的として、十四〜十五世紀の文献史料をもとに白山本宮や中宮八院について分析したものである。白山本宮については、施設及び人的構成の面から寺院としての実態を有しており、神社としての祭礼も僧侶である衆徒が主体となっていたことから、衆徒は社僧であったとしている。また、衆徒の実態について、神人との抗争を例に僧兵的性格を指摘するとともに、宗教的側面として比叡山で修行してきたらしい「戒者」という僧、荘厳講衆、常行堂僧、長吏、先達衆などの相互関係を探っている。中宮八院については、『源平盛衰記』や称名寺文書をもとに検討しており、とくに『源平盛衰記』が十四世紀の白山衆徒関係史料として有用であることを指摘している。また、これら白山衆徒を即時的に修験者としてとらえることには慎重で、少なくとも荘厳講衆は修験と関係なかったのではないかとしている。

 第二章「一揆時代における加賀白山」は、白山本宮と一揆門徒衆の相互関係を中心に、一揆時代の白山の宗教環境を考察したものである。一揆時代の六代の長吏、十五世紀における南加賀の白山関係宗教施設や真宗寺院、十六世紀の超勝寺を中心とする真宗寺院と白山について検討している。十五世紀には、真宗側は旧仏教勢力に親和的であり、白山本宮も自己利益が期待できる場合に一揆勢力に助勢したと指摘し、さらに、十六世紀初頭の永正一揆以後、超勝寺が加賀一揆のヘゲモニーを掌握し、白山本宮は超勝寺や背後の本願寺に全面的に依存することになったという変容を論じている。

 第三章「一揆時代の加賀白山を巡る五つの宗教テキスト」は、道興・即伝という修験道教団形成の中心人物が一揆時代の白山加賀側にかかわっていたことに鑑み、当該期においても白山が宗教センターとして意味を持っていたのではないかという関心から発して、十五〜十六世紀の五つのテキストを分析している。それらは時代は同じでも、書かれた立場が多様であることから、白山での修行観や白山そのものの宗教的位置づけが異なっていると理解し、その前提から、加賀側だけでも山頂への禅定の仕方が複数あったと考えられるという。さらに、『白山禅定私記』『大永神書』『拾塵記』というローカルな宗教者によるテキストでは、白山を仏法守護の権現にして母神という位置づけで描き、時代が降るにつれ、母神という解釈が顕著になると思われるという指摘をしている。また、「仏法守護」という性格は真宗門徒にも受け入れやすいものであったともしている。

 第四章「一揆時代後半における三代の白山本宮長吏・再考」は、一揆時代後半から藩政期にかけての三代の長吏職であった可能性の高い澄祝・澄辰・澄勝について検討したものである。前二者については、『言継卿記』における記載を読み解き、宗教者としての職能を感じさせないとしており、そうした性格が、第二章で述べている白山本宮の真宗への全面依存化とどう関係するのかという課題を示している。また、澄勝については、十七世紀後半から十八世紀初頭にかけて惣長吏職にあった澄意が執筆したテキストに基づき、澄意が理想化した存在であったことなどを指摘している。

 第五章「近世 下白山における長吏と社家との関係」は、下白山と称されるようになった近世の白山本宮における長吏と社家との関係やその変化を焦点化したものである。まず、澄勝が長吏だった段階を中心に、本宮が藩側から神社として認識されてゆく過程を検討している。藩主前田家と関係の深い真言僧空照とのかかわりから、澄勝は天台宗から真言宗に転じたのではないかとみている。次いで、澄意が長吏であった段階について、白山山頂の祭祀をめぐる加賀の尾添村と越前の牛首村間で続いた争論に着目し、長吏がかかわったわけではないが、加賀側に有利に展開しなかったため、禅定道から山頂にかけての宗教活動に制約が生じたとしている。その中で、長吏は麓の下白山での活動へとシフトし、社家との相剋が生じたととらえている。さらに、十八世紀半ば、澄盛の長吏継職以降になると、社家の支援が不可欠になっていたと、社家側の勢力拡大を指摘している。

 「結論 成果と課題」は、「要約」と「成果と課題」の二節からなる。要約については省略し、成果と課題に示された内容のみをまとめておく。ここでの論点は三つあり、(1)地方霊山の相対的自律性、(2)地方霊山と修験道とのかかわり、(3)地方霊山麓または山腹の近世神社における社家・神職の権勢拡大である。(1)については、やがて熊野修験の配下に置かれる立山の開山以前のローカル性や白山における修行の独自性への視点を示すとともに、白山・立山と金峰山等との自然条件や景観の相違などを説いている。また、未解明の課題として、地方霊山の山内における修験の系譜が挙げられている。(2)では、立山と白山が中央の修験道とどのような関係にあったか判然としないとしつつも、立山が熊野修験の影響のもとに開山されるのが鎌倉末期から南北朝期ではないかと述べ、加賀の白山本宮や中宮八院では南北朝期に何らかの変化があったとしている。また、白山については、十五〜十六世紀における聖護院道興や阿吸房即伝の訪問の意義に触れている。(3)は、下白山における十八世紀前半以降の長吏の相対的な権威低下と社家の相対的上昇をいい、新潟県妙高市の関山権現との類似に着目している。ただし、こうした現象の理由については未解明で、今後の課題となっている。

 以上を踏まえて、本書をめぐる所感を述べていこう。

 序論において霊山信仰史研究の克服を掲げただけあり、全体的には非常に意欲的で小気味よい議論が展開されていることが印象的だった。当然ながら、地方霊山の事例を「地方」の内にとどめず、「中央」との差違や関連をも探ろうとしており、この点、研究の姿勢として共感するものである。

 第一部の立山地獄説話の分析、すなわち地方霊山の開山以前の伝承の追究にかかる諸論考は、歴史学や文学など、幅広く既存研究を参照しながら、説話テキストの詳細な比較や編年にもとづいて考察されており、実に興味深いものである。とくに、「開山」を再定義したことや地獄説話の展開を緻密に跡付けたこと、狩人による開山説話を中世における熊野や伯耆大山の影響によるとしたことなどは、高く評価すべきと考える。また、中央霊山との比較から、立山が地方霊山に止まったとしたが、その背景に院権力の存在をみいだしたことも、説話と現実(政治・社会)との対応を探った興味深い視点といえる。

 一方、第二部所収の論考、すなわち地方霊山の一山組織の追究にかかる論考については、主たる分析対象が長吏とその周辺に限定されているが、寺院から神社へという推移、長吏の権威低下と社家の勢力拡大、真宗勢力との関係など、白山本宮を中心とした白山加賀側の組織の推移・変容が俯瞰できるものとして評価できる。また、第三章のテキスト分析は、第二部の中ではやや趣を異にしているが、ある意味、著者の本領というべき内容で、地域的な思想・信仰の深層にまで分け入っており、貴重な成果ではないかと思う。衆徒の性格についても、白山という山岳霊場を背景としていることから、無限定に修験的と定義する傾向にあるだろうが、著者は安易な理解を退けている。こうした視点は他の山岳霊場をとらえる際にも参照すべきだろう。

 このように得るところの多い著作であったが、一方で、気にかかる点もあるので、瑣末な点ばかりかもしれないが、述べておきたい。

 第一部については、立山の地獄説話や開山伝承の分析により、熊野の影響を受けたものとみたことが一つのポイントであった。テキスト分析の結果として説話の影響関係をいうことは了解できる。だがさらに、「中世以降の立山の一山組織が熊野系統の宗教者を主体としたとも考えられ」ること(一一七頁)、「中世に向けて吉野−熊野修験道の配下に組み込まれ」たこと(一五二頁)、「おそらく熊野修験の配下に置かれることになった」こと(三二二頁)をいい、組織の問題に接合しているのはいかがなものだろうか。無論、それぞれの表現は断定を避けて、慎重ではあるが、「影響」と「配下」とではレベルが異なるだろう。著者には「権門寺社勢力によって一山が形成される」(八六頁)という認識があるから、影響を受けたということと配下に入るということが同義として扱われているのかもしれない。だが、そもそも一山組織は中央の権門寺社との本末関係が前提にあって形成されるとはいえまい。

 また、熊野が立山を「配下」に収めた契機については明言はされていないが、院政期における「修験道の成立」(一四八頁)、「吉野−熊野修験が組織化された」こと(一五〇頁)、「中世に向けて修験道教団が成立する」こと(一五一頁)、「修験道教団の確立」(三一八頁)などといったことや、熊野と院権力との結びつきにあるとみているのであろうと思われる。そうだとしても、繰り返されている修験道の「成立」や「確立」という類を表現は適切なのだろうか。院政期は修験道の長い形成過程に位置づけられるものの、この時期に教団組織といえるほどのものがあったといえるかどうか、ましてや「確立」していたのかということは慎重に扱うべきだろう。

 さらに、院権力との結びつきの有無が、中央霊山と地方霊山の分岐点となったとする見解について。院政期は、有力寺社が荘園領主として権門化する時期であるし、熊野にしても金峰山にしても、悪僧の拠点として国家にとっての脅威でもあったことは無視できない。院政期における自立的勢力としての側面にも、霊山の性格を規定する意味をみいだすことができるのではないだろうか。

 第二部では、一山組織の展開を明らかにしようとしながらも、実質的には白山本宮の長吏が焦点化されており、組織の部分的な様相をとらえるにとどまっていることが惜しまれる。
 また、中世における白山本宮の集団について、すべてが修験的ではないとする指摘に関連し、他の事例との対比から特質を探ることが必要ではないかと思われる。白山本宮は衆徒という集団の中で講集団や先達等が分かれていたようだが、中世の地方寺院に多く見られた僧侶集団の形態は、比叡山や高野山等の大寺院を模したかのように、衆徒・寺僧という上位集団と行人などの下位集団からなる階層型の構成であった。越前の越知山や近江の伊吹山といった地方の山岳霊場に依拠する寺院であれば、修験を担う山伏は行人クラスとして位置づけられていることが多いようである。したがって、集団構成の面では、白山本宮は特殊な形態かもしれない。その点が白山本宮における修験的なものの位置づけと関連してはいないのだろうか。

 このほか、しばしば表明されている著者の歴史学観なども検討が必要と思うが、ここでは、著者のような社会学・民俗学の立場から歴史を対象化する試みと歴史学との対話が生産的に進んでいくことを望んでいると記すにとどめておく。
 すでに述べたように、本書には刮目すべき成果が盛り込まれており、今後の山岳霊場研究に与える影響は大きいに違いない。著者の研究がますます発展することを祈念しつつ擱筆する。


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