橋本章彦著『毘沙門天―日本的展開の様相―』 |
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評者:鈴木善幸 | |||||
「宗教民俗研究」19(2009.11) |
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「毘沙門」はサンスクリット名の音写であり、これを意訳したものが「多聞」とされる。四天王の中では、多聞天とされるが、他の四天王と異なり、毘沙門天は単独で信仰の対象となる。 序論 研究史と本書の位置 本書の目的は、「仏教の思想と民衆の世界観がどのように出会い、新しく秩序立てられていくか、その具体的様相を思想論的に描き出す」と述べられ、毘沙門天信仰について、特に縁起や説話の分析を中心に述べる。時代としては、古代から中世末頃を中心とする。先にも触れたように、毘沙門天信仰についての先行研究は、他の諸信仰の研究に比べても、多いとはいえない。その一つの要因は、仏法の守護神としての毘沙門天、福神としての毘沙門天という位置づけはなされているものの、そのいずれかに帰着しようとする傾向があり、結果として十分な研究がなされていなかったように思われる。本書で取りあげる時代は、まさに仏法の守護神から、福神へと信仰の中心をずらしていく時期であり、この時代における毘沙門天信仰を取りあげることは、庶民信仰の対象としての毘沙門天が創り出され、受容されていく様相を描き得る時代といえるであろう。 まず毘沙門天の起源から探り、ヴェーダ以来の存在といわれ、インドの叙事詩『マハーラーバタ』や『マーラーヤナ』の財宝神クヴェーラと同一視され、さらに近年の研究によりガンダーラ地方にある最古の毘沙門天像(四天王像)から、像の起源=信仰の起源とはいえないが、その起源はさらに遡るであろうとする。ただし、本書の目的は、毘沙門天の起源論が主たるものではなく、その起源がインドだけではなく、西域にもあったことを確認している。この毘沙門天は、仏教に取り入れられてからは、北方の守護神(四天王)として、護法と施財の機能を担う。中国に伝えられてからは、密教を媒介としながら、国家における怨敵退散の期待から、国土守護神となった。 日本に毘沙門天が伝えられた時期は明確ではないものの、『西大寺資材流記帳』(七〇八年)にその名称を確認することができる。日本における毘沙門天信仰は、奈良時代でみれば国家守護神であり、貴族や僧侶を中心とした信仰と思われる。それが、時代の経過とともに利益される対象が庶民へと拡大され、いわゆる「福の神」的な信仰へ移っていく。 「福の神」については、喜田貞吉によれば、延徳三年(一四九一)に遡ることができるといい、その頃には福の神として巷間に知られていたとなる。その後、毘沙門天の福の神としての信仰は途切れることなく続いている。 ただし、国家守護神から「福の神」への信仰の変容の中でも、怨敵退散の武神としての機能を伴う国土守護と護法神としての期待は継続される。これは一方で修験道信仰との結合をみせる。鞍馬寺や信貴山、さらに本書で取りあげる神峯山寺などの山岳宗教寺院において、本尊として祀られる毘沙門天は、そのような信仰の顕著な姿といえる。これらの事例では、霊場や修行者の守護・援助はもちろんであるが、「その地における民俗的な神をも統制する存在として期待され」ていた。これは毘沙門天がもつ「我領諸天善神」という認識から、仏教側から、土着の神を統御する毘沙門天という認識が適用されていくとする。 では、研究史上の本書の位置についてみれば、従来の毘沙門天にかかる研究はその多くが美術史からの論考であり、信仰そのものついて論じたものは多いとはいえない状況である。また、毘沙門天信仰については、七福神の中で論じられることが多い。 この七福神について先駆的かつその後の研究に大きな影響を与えたものは喜田貞吉の一連の業績がある。喜田は、護国・福神の両面から論じているが、その注目すべき第一点として、毘沙門天研究の基本的史料のいくつかを紹介し、もう一点は、観音・毘沙門同体思想を示し、これが毘沙門の福神への傾斜の起因を求めている。さらに喜田による「福神」の定義―福神の性質の沿革・変遷を明らかにする必要がある―から、「時代や社会階層などの相違」が「毘沙門天をどのように変化させたのか」という著者の原点を位置づける。 それ以降、しばらくは毘沙門天信仰を主要な論点とした論考は、あまり注目すべきものはなく、ようやく一九七九年に西村千穂氏の「毘沙門天と福」が発表される。この西村氏の論考では、毘沙門天が鉱山従事者に篤く信仰され、一般的な福の神へ変容すると指摘する。しかしながら、当該の論考に示された、鉱山従事者の信仰が、どのように広がり、人々の「福神」へ変容したのかを明らかにしたとはいえず、また鉱山における毘沙門天祭祀そのものがどの程度のものであったのかなど、改めて考察が必要な点があるとする。 田中久夫氏の研究では、神峯山寺の事例を取りあげ山岳宗教と毘沙門天の具体的関係を考察の俎上に載せ、鞍馬寺毘沙門天に関わる日記や説話などで黄金と関係していることから、「黄金をもった布教活動」の展開から、「鞍馬の毘沙門天は福神としての地位を確立したと」という福神変容の新たな視点を提示した。これについて著者は、まず神峯山寺の事例については、史料批判が不十分であると指摘し、また「黄金」による布教についても、その具体像がないことから、再検証が必要であるとする。 著者が述べるように毘沙門天信仰研究は、福神としての性格に傾斜したものが多く、体系的に論じる必要が求められてきた。そのような中で、毘沙門天は国家守護神、軍神、福神などの性格が見いだせ、日本宗教史上の位置を改めて確認する必要があり、本書が持つ意義といえる。 このような研究史上において、本書では、毘沙門天信仰を通じて、庶民信仰の生成を明らかにすることが基底となる。この庶民信仰の生成は、仏教の世俗化の問題に通じるとする。「世俗化」といえば、批判的なとらえ方もあろうが、著者は現世希求に呼応する宗教の形態であり、教団の教義とは別の形ではあるが、しかし教団も民衆に呼応するなど、相互に響き合い流動的なものであり、創造的な意義を与えていく立場から描き出すことを基本的な視座とする。この問題は、五来重氏が言う「民俗の文化創造力」の問題にもつながり、民俗宗教史研究叢書としての本書の役割も明らかにされている。「世俗化」は、評者からすればやや否定的な表現に思えるが、民衆が希求する宗教(救済)と教団の教義には、一定の隔たりがあり、その摺り合わせが行われてきた歴史は否定するつもりはない。教団が布教した内容を民衆が取り込み、そして自己消化しながら受容していく。さらに民衆の中にある信仰を教団が影響を受け、さらに呼応するという相互関係は、他の事例からも確認される。 この解明に向けて、本書では毘沙門天に関わる説話を中心資料とする。特に説話のテクスト間の関係性に注目する。書承関係、説話・伝承史的関係、民俗的関係などがあげられるが、特に後者二つの関係性は、「日本人の宗教精神の本源構造」に関わるとする。「必ずしも時間軸に配慮しているわけではない」が、「共通の磁場―例えば毘沙門天信仰―の中で互いに摺り合わせたときに意味のある関係性が浮かび上がってくる場合は、両者の関係するものと認定する」としている。 そして、「仏教の思想と庶民の世界観がどのように出会い、衝突し、そして融合していくか、そのダイナミズムを描くことを通じて、日本人の本源的な宗教的精神構造を透視」することを目標とする。このような視点には大変共感を覚えるものであるが、著者は文学的な手法を用いるためか、評者が史学的立場にあるためか、その歴史的経緯・変遷について、違和感を覚える点も少なくはない。しかし、手法の違いからの批判は的外れであろうから、本評では、なるべく著者の方法論の中での私見を述べてみたい。 冒頭にあげたように、本書は三章構成となっており、第一章では中国での毘沙門天信仰と、日本における奈良時代の毘沙門天信仰のあり方について論じている。ここでは中国と日本における毘沙門天信仰の比較検討を通じて、両者の共通点・相違点のあぶり出しを試みている。だが、著者も述べるように中国における毘沙門天信仰は、あくまで『大蔵経』史伝部にみえる記述を中心としたものであり、その内容が限定的であることは否定できない。しかしながら、その分析を通じて、中国の毘沙門天が現実的な世界を中心としたものであり、城壁や寺の門へ設置される姿から、日本の毘沙門天信仰のほうが、抽象的な世界を対象とした仏であることが、注目される。また、中国では日本の事例より、浄土教との関係が大きいことが明らかとなった。この浄土教とのつながりについては、一目に価する。本書でも取り上げられるが、日本においては、融通念仏と毘沙門天のつながりが確認され、念仏者を護持する仏という機能では、両国に通底する問題が浮き彫りになるであろう。古代日本における毘沙門天信仰については、『金光明最勝王経』にみえるごとく、毘沙門天の施福機能は、本来仏道修行完遂のために機能するとされており、後の福神信仰へのつながりを想起させる指摘ともいえる。また、四天王から独立した毘沙門天という従来的な枠組みに対しても批判し、四天王と毘沙門天という理解は別のルートで輸入された可能性を指摘する。このような指摘は四天王と毘沙門天という関係性に新たな視座を見出したといえる。 第二章では、『今昔物語集』を材料として、『法華経』に見られる毘沙門天信仰からの影響を論じる二編と、念仏信仰、特に融通念仏との関係について考察する二編で構成される。本章で注目されるのは、やはり『金光明最勝王経』が、『法華経』などの護国経典に毘沙門がみえる点である。毘沙門が経典に描かれる際は、その多くは護国神としての性格が強い。そのためか『今昔』の中でも修行僧への守護という形でみえ、いわゆる福神信仰とは距離を感じざるを得ない。しかしながら、『今昔』では、そのような伝統的信仰基盤―仏道完遂守護の仏―を持ちながらも、新しい時代の信仰形態を垣間見せる内容が確認される。それが、「化身」であり、念仏信仰と毘沙門天との関係である。化身についてみれば、毘沙門天が化身として出現する説話は、それほど多く確認されないが、そのような説話の形成の背景には観音信仰とのつながりがある。『法華経』にみえるように観音の応身の中に毘沙門天があり、経典レベルでは毘沙門と観音を同体とする思想がみえ、また諸説話の中でも、観音と毘沙門の積極的な関係性が説かれる。このような関係性から、「化身」という観音の説話群の表象が、毘沙門天説話にも反映されている。さらに、毘沙門がもつ現世利益的性格が唱導によって強調されたことにより、福の神となる契機となったという理解について、従来的な時代が下ることによる大衆化という漠然とした概論ではなく、念仏者の介入を指摘する。救済対象が出家者であった時代から、民衆への救済―不特定多数の救済―において、念仏勧進などの遊行者の果たした役割は少なくない。この念仏者たちは、仏法の守護者たる毘沙門天を念仏の守護者として位置づけ、さらに「現世における生」の守護という形を作り出した。このような現世における仏として明確な位置づけを得ることに伴い、福の神への傾斜がよりいっそう加速するといえる。つまり、現世利益の中で毘沙門が位置づけられるのである。この指摘は、従来の福の神への傾斜に加える新たな知見である。 著者が分析するように、念仏行者と毘沙門天信仰の関わりは多くの説話で確認することができ、福の神となる一端を担っていることは間違いない。ただし、注意すべき点は先学が指摘するような流布の形、さらに付記すれば、武士の中で信仰された毘沙門天信仰が民衆の中へ受容される様相や、武人にかかる伝承―坂上田村麻呂伝承や平維盛伝承、源義経伝承など―の流布についても注意すべき必要がある。この流布に携わった宗教者の具体的な姿は明確になってはいないが、諸説の中でみれば、天台系や興福寺系の唱導者の関与、さらに中世後期にいたれば、清水寺の勧進なども注意を払う必要がある。また受容した先での変容についても、中世期から確認されることは注意すべき問題であろうが、その細部に至るまで網羅することは容易いことではないが、著者は『古今著聞集』や『広疑瑞決集』の分析から、東国への融通念仏勧進への視座や、伝承の再生産についても触れており、今後の見解が期待される。 そのような期待の一端に応えるように第三章では、融通念仏による唱導だけではなく毘沙門天がもつ山岳宗教とのつながりについて、神峯山寺の縁起の分析を通じて論証している。本章においては、縁起や説話を用いる上で重要な視座についても論じている。当然ながら縁起の内容をそのまま鵜呑みにすることは危険でしかない。縁起の世界観と現実の世界について内容の批判はもちろんながら、充分な資料批判があって、はじめて縁起を資料として用いることができる。その際、諸本との比較、流布する内容の比較など充分に性格を吟味した縁起には、その当該期の人々の思想や信仰の一端を叙述的に表現している興味深い資料であるともいえる。 また縁起を用いる際に注意すべき点、というよりは、その魅力とでもいうべきか、縁起が作られるダイナミズムについて、「モノ」(現存する物、実在の有無は問わない場合もある)に「コト」(語り)を結びつけ、宗教的価値観を創造し、それを文字化することが縁起であると端的に表現する。つまり「モノ」に宗教的な意味づけをおこない、共同体−寺社内、さらには地域も含める事ができるだろう−意識の形成に繋がるという指摘をする。ただし、その共同体においては、取捨選択が行われ、その過程において内容の差異が発生していく。 そのような分析手法を用いてとりあげる神峯山寺は、十世紀末には比叡、比良、伊吹、愛宕、金峯、葛木と肩を並べて「七高山」に名を連ねる霊山とされる。もちろん修験としての性格も濃厚であったが、その研究はそれほど多くない。しかしこの神峯山寺の本尊は毘沙門天であり、その縁起の分析を通じて、毘沙門天の新たな性格を見出している。それが民俗的な神を統制する機能である。これは、毘沙門天に期待された機能であり、本書では水神について取り上げているが、例えば東北地方の例などをみれば、悪路王の封鎖など、民俗的な神(鬼)に対する封鎖・統制する機能が確認される。 先に神峯山寺の信仰についてみれば、観音と地蔵の信仰が混交し、顕密一体の形を見出せ、往生と観音の誓願が即応している。このような信仰の背景には、修験道的な滅罪―原点は『法華経』―などが見出せ、融通念仏と山岳宗教の結合がその一端を担っている。ではこのような信仰体系の中で毘沙門はどのような位置にあるかといえば、観音を娑婆の救済者、阿弥陀を極楽に位置させ、毘沙門と同体であるという論理を作り出す。これは観音と毘沙門が同体―『法華経』―に即し、天台における阿弥陀との同体説を導入することで解決させようとするものである。 また、『神峯山秘密縁起』では毘沙門の浄土と地獄を巡る異界遍歴譚を載せている。この異界遍歴譚そのものが他のそれと一線を画した形態である。他の異界遍歴譚同様に、現世における苦の原因を地獄遍歴などにより抜苦の方法を知るのだが、神峯山では生身のまま地獄遍歴をするというものである。これについて著者は、天台法界観と民俗的な山中他界観念との習合を想起し、その両者の性格から生身での地獄遍歴という、他の遍歴譚から逸脱した形態を作り出したとする。 このような著者の発想は、従来山中他界観念が民俗の基層とする説に一考の余地を与える可能性を秘めているが、他の類例が見出せない段階では、やはり推論の範疇になりかねない。むしろ、他の地獄遍歴譚の中にも同様の思想を読み解く必要があるのではないだろうか。山中他界での疑死は生身ではあるが、「死」であることには変わらない。そう考えれば生身の堕地獄もやはり「死」の範疇で捉えるべき問題かもしれない。 そして神峯山寺や鞍馬寺、長谷寺などの毘沙門天を祀る寺院について分析する中で、地主神―特に雷神―を統制する機能について着目する。これは毘沙門天が本来的に有する怨敵退散の機能が働いたものといえるが、このような機能は、ひいては民俗的神の統制という理解にもつながる。 評者はこの説について、何度か論考で触れたことがあるが、武人伝承の流布―特に奥羽地方―についてみた場合、悪路王などを封鎖する機能として、田村麻呂を模した毘沙門天を配するなど、毘沙門天に求められた機能が多様化しているように思いえる。これが単純なる仏教の守護神という理解ではなく、民俗的な信仰の中で息づいている形として見出せる以上、注目すべき指摘といえる。 評者の個人的なこととなるが、武人伝承を取り扱ってきたこともあり、本書の書評を依頼されてから、しばらくの間、どのように評すべきか悩み続けていた。結果、書評と呼ぶにはあまりにもお粗末な内容となったが、毘沙門天信仰について概説的に論じられた研究は極めて少なく、著者の他の研究にも見られるような独創的で刺激的な内容を持つ本書が世に問うた見解の数々が、今後どのように変容して行くのかを楽しみにしたいと思う。
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