山本尚友著『被差別部落史の研究―移行期を中心にして−』
評者・寺木伸明 掲載誌・日本歴史研究No.458(2000.10)

 現在、世界人権問題研究センター専任研究員で、かつて京都部落史研究所の事務局長を勤めていた山本尚友氏が、長年にわたる研究を集大成された。本書は、本文五四三頁におよぶ大冊であって、古代〜中世の移行期も扱われていて、近世部落史を専攻している私には、とくに古代〜中世の箇所(第一章)については、十分な論評ができないかもしれないことをあらかじめお断りしておきたい。
 一
 まず本書の構成を目次によって示すと次のとおりである。
(目次省略)
 以下、その内容を簡単に紹介していきたい。
 第一章第一節では、中世非人の研究動向についてふれ、そのなかて著者の基本的立場を明らかにしている。特に黒田俊雄氏の、中世の非人身分を社会外の身分と規定する見解(「中世身分制と卑賎観念」『部落問題研究』第三三輯、一九七二年)に対しては、大山喬平氏や網野善彦氏の批判があるものの、「中世の賎民身分が当時の言葉で『非人』と呼ばれたものに他ならなかったという点では大方の一致をみたのである」(一五頁)とし、かつ、「黒田氏の非人論は中世賎民史研究の枠組みを変えただけではなく、それと接続する時代、すなわち古代と近世の賎民史にもその影響は拡延する体のものであった」(一五頁)と高く評価している。氏は、基本的には、この黒田説に立脚して論を展開している。
 氏によれば、中世における非人は獄囚と乞食と癩者からなり、特に中世前期においては前二者から構成されていたとする。そして、古代における非人の用例を分析するなかで「非人とほまず罪人のことであった」(一八頁)と指摘する。平安初期に検非違使が設置され、一○世紀後半から獄の管理も行うようになり、獄因を支配するにいたったという。
 他方、平安後期になると、乞食の発生が問題となり、折からの穢れ観の強まりの中で、穢れの除去の仕事に検非違使に使役された罪人とともに従事したのが乞食であったとする。こうして罪人と乞食を同一視する環境が整ったという。この乞食のなかに癩者が含まれていたのである。やがて乞食も非人と称されるようになり、一一世紀初頭から一二世紀半ばにかけて、その乞食の一部が集団を形成しはじめて、非人身分が成立したとする。
 第二節では、乞食の集団化の過程がさらに詳しく跡づけられる。まず清水坂非人であるが、保元三年(一一五八)九月九日に中山忠親が亡母の三周忌を営んだときに、その法要の場に清水坂非人がきて施米を要求したという(『山槐記』)。この史料が乞食を非人と呼んだ初例であると同時に、この地の乞食に清水坂非人の名称が付された初例でもあるという。一三世紀前半には、この清水坂非人と奈良坂非人が末宿の支配をめぐって争ったことは有名であるが、そのころには、長吏を頭とする組織化がはかられており、宿として集団化を遂げていたことを指摘する。次に承暦元年(一○七七)には掃除散所が成立していたこと、鎌倉初期には、穢多=清目身分が成立していたと想定されることを述ベ、遅くとも鎌倉中期には非人身分の中から宿・散所・穢多という、中世賎民の中核をなす三つの社会集団が分化したとみる。
 第二章は、被差別民の中世から近世への移行期の過程が具体的に解明される。この章は、著者の地道な実地調査に基づくものであると考えられるだけに、興味深い事実の掘り起こしが数多く行われている。その研究対象地域は言うまでもなく京都地域である。第一節では、まず河原者が、室町幕府の侍所のもとで刑吏役に従事していたのが、織田政権のもとで京都所司代に任じられた村井貞勝の配下に入り、さらに豊臣政権のもとで京都奉行に任じられた前田玄以の配下に属し、近世の穢多村に連続していくことを明らかにしている。
他方、社寺・公家出入りの河原者については、近世になるとほとんど姿をみせなくなることにも注目している。
中世に癩者を収容する施設として作られた長棟堂に集まっていた人々の居住地は、近世では物吉村として存続したことを指摘する。
 上と下にあった悲田院は、近世初期の非人の居住地につながっていき、悲田院村が、次第に各地に点在していた乞食を支配するようになり、近世非人身分が成立していくとする。
 清水坂の非人宿(そこの住人は犬神人とも称されていた)は、江戸時代には坂弓矢町となり、住人たちは賎民の境遇を脱したという。
 第二節では、洛南地域における六つの宿村、一二の散所村、九つの清目村が、近世にどのようになっていくか具体的に解明されている。
 宿村は、ほぼ近世の夙村につながるが、身分としては平人身分を獲得したとする。散所については、近世になると関係史料が少なく、不明になるケースが多いようである。清目については、太薮・築山村境清目は、近世の穢多村に連続していることがほぼ裏付けられているが、東九条庄内清目は、いつの時点かは不明であるが消滅したことを指摘していて興味深い。あとの七つの地区の清目と近世の穢多村とのつながりは、史料的制約が多く、十分には明らかにされていない。
 第三節は、部落寺院の成立を扱ったもので、著者の初期の研究に属するものであって、真宗系部落寺院史の研究を大きく前進させたものである。山本氏は、そこで江戸幕府の宗教統制の内実の分析により、部落の真宗受容が、幕藩権力の強制や政策によるものではないことを確認した上で、大桑斉氏が措定した真宗系寺院の四つの地域類型を踏まえつつ、部落寺院を近畿型・西国型・東海型・西九州型にまとめ、各類型ごとに部落寺院の成立過程を解明した。その結果、部落寺院の開基年代が近世初頭より前に遡れるものが相当数認められることを明らかにし、部落の真宗受容が基本的には自律的なものであったことを論証している。その際、部落寺院の本末関係も全国的視野にたって、より詳しく解明したことも、氏の業績として注目されるものである。
 第四節では、近世身分制と賎民身分について論じられている。そこでは、政治的領域で編成された政治的身分と、その領域とは少しズレたところて編成された社会的身分があったことを指摘している。天皇・武士・長袖(公家・神官・僧侶)・平人(百姓・町人)・賎民(穢多・非人等)が、前者の身分で、村役人・本百姓・水呑百姓等や賎民(夙・散所・鉢叩き・隠亡等)等が後者の身分である。たとえば夙等は、政治的身分としては、平人身分であったが、地域社会では賎民身分として扱われたという捉え方をするのである。
 第三章第一節は、奥丹後一五の部落で一九六○年代始めまで続いてきた廿日講行事の起こりやその内容について、詳しい史料調査と聞き取りを踏まえたもので、その行事がすたれてしまった現在、この論文の価値は大きいと思われる。
 第四章第一節は、山城・井手郷の前近代の部落史通史であり、第二節は散所の歴史を詳しく分析したものである。
 以上が、本書の内容の概略である。
 二
 紹介してきたように本書には多くの成果がみられるのであるが、あえて大きな特長を二つあげるならば、第一に、古代〜中世、中世〜近世の移行期に焦点をあてて、「賎民史」を解明しようとしていることで、とくに京都における「賎民」の中世〜近世の移行期の実相の研究(第二章)で成果をあげていることである。第二に、部落寺院成立史の研究において、部落寺院の宗派のほとんどが浄土真宗であったのは、幕府の宗教統制の結果ではないことを明らかにしたこと、部落寺院の地域的類型化を図ったこと、全国的視点に立って部落寺院の本末関係を明らかにしようとしたこと、類型別に部落寺院の成立過程を究明し、その結果、真宗系部落寺院の開基年代が中世にまで遡るケースが少なくないことなどを明らかにしたことである。
 次に本書の問題と思われるところを指摘していきたい。
 (1)黒田俊雄氏の中世非人論に対しては、網野善彦氏や大山喬平氏や細川涼一氏の批判があるが(もちろん、黒田氏の反論もあるのだが(「中世社会論と非人」『部落問題研究』第七四輯、一九八二年一二月))、それらの批判を十分検計することなく、黒田説によりかかって論を展開していること(第一章)、とくに中世の「清目」(河原者・「穢多」)を「非人」身分として論を展開していることである。この黒田説の問題点については細川涼一氏の『中世の身分制と非人』(日本エディタースクール出版部、一九九四年)で具体的に指摘されている(三七、一二三貝)。そもそも黒田氏は、「河原者」を「非人」と称した事例を一つもあげていないのである。山本氏も、一例もあげていない。
 ここから次のような無理な解釈も生まれてくるのである。
 @嘉元二年(一三○四)後深草上皇死去に際しての施行注文の解釈の問題
 ここで「河原者」が出ないのは、「恐らく、清水坂の配下かあるいは散在非人のなかに穢多=清目は姿を潜めているものと思われる」(九七頁)としているが、まさに「河原者」は非人と見られていなかったから、「非人」施行の対象とならなかったからではないのか。山本氏のように解釈するのであれば、中世の「非人施行」の対象に「河原者」が入っていたことを論証しなければならないと考える。
 A『塵袋』の記述の解釈の問題
「この『塵袋』ではじめて、穢多を非人身分の一員とする見解が明瞭な形で述べられている」(九○頁)とあるが、『塵袋』の筆者は、本来は「エタ」は「非人」と違うということを指摘しているのである。山本氏自身もすぐに続けて「『塵袋』の叙述で注目すべきは、穢多を非人とする見方を筆者が退けていることで」(九○頁)と述べているのである。「穢多」を「非人」身分に入れてよいかどうかということを考える上での重要史料なのであるから、その解釈はとくに厳密であってほしいと思う。
 B『左経記』長和五年(一○一六)一月二日の条の「河原人」の解釈の問題
横井清氏以来、この「河原人」は、「河原者」につながるものとして解釈されてきたが、「これは河原に住み着いて乞食に従事しながら、動物の死骸などの穢れを清める仕事にたずさわった人びと、すなわち非人とみてよいであろう」(七一頁)として、その理由として「河原者」の初見が、応安四年(一三七一)四月四日の『後愚昧記』で、その間一五○年以上も経過していること、『宇津保物語』に「河原人」が「里人」と対になって出ていることをあげ、「河原に住む人」という意味以上のものではなく「後の『河原者』の語につながるものではないとみるべきてあろう」(七一頁)とする。『左経記』の記述からすれば、名称の問題とは別に、その「河原人」の描かれている姿(死牛を捌いていたことなど)からして、のちの「河原者」につながるものがあると見る方が自然であって、山本氏の主張は論拠薄弱であると思われる。
 (2)一一世紀〜一二世紀中頃にかけて乞食が集団化を遂げ、非人身分が成立し(五四頁)、「遅くとも鎌倉中期には、非人身分のなかから宿、散所、そして穢多という、中世の賎民身分の中核をなした三つの社会集団がすべて姿を現わすことになった」(九四頁)、あるいは「のちにそれは@宿、A散所(声聞師)、B河原者(清目・穢多)の三つに分化していく」(一七頁)としている点である。「穢多」が果たして乞食から発生し、集団化を遂げて非人身分になり、そこから「穢多」という賎民集団に分化したのかどうか、実証的な裏付けを欠いている。これは(1)の問題点と連動している。
 (3)中世の「河原者」と近世の「穢多」との連続性を指摘しながら(第二章、とくに一五四頁、二三一頁など)、非連続のケース(たとえば東九条庄内清目(二三三〜二三九頁))の存在の意味が十分掘り下げられていないことである。
 (4)移行期の研究がテーマになっていながら、第三章近世から近代は第一節真宗の信仰と平等の追求のみで、テーマからすると、きわめて不十分なものになっていることである。
 (5)事実誤認や史料解読の誤りが目立つことである。
 @「賎民とは古代律令制度下の『賎』身分に淵源する言葉であるが、江戸時代の考証家本居内遠が『賎著考』において、古代の賎者同様に『なほ今平民より賎しめ忌避けて、或は同火同食せず或は婚を通ぜざる色目種々あり』として宿・散所等をあげてより、穢多・非人等を賎民と称することが一般的となり」(一頁)とあるが、『賎著考』では、「賎民」という表現は調べた限りでは、使用していない。
 ちなみに青柳種信の『恵登理乃考』(天保三〜五年(一八三二〜四))では、「賎民」という用語が使用されている(『部落解放史ふくおか』第五号、一九七六年)一〇月、一五六、一五七頁)。
 A「諸官司に配属されて奢移品の生産や特殊技能の伝習にあたった雑戸」(一頁)とあるが、奢侈品を生産したのは、品部であって、雑戸は主として軍需製品の生産にあたった。したがって、奢移品とあるところは、軍需製品とでもすベきである。
 B「加賀国では藤内という賎民が中世期よりおり、皮多は藩主が入部のさい連れてきたもので、これは斃牛馬処埋にしたがい」(三七四頁)とあるが、前田利家の加賀北半領有は天正一一年(一五八三)であって、皮多招致は、慶長一四年(一六○九)のことである(田中喜男『加賀藩被差別部落史研究』明石書店、一九八六年、六六一頁)。
 C「遊女を河原者と同様に賎民とみる見方は、中国での賎民観に倣ったもので日本の現実からは遊離した見方であるが、徂徠はここでは種姓観念の衰退と混乱を強調するために、中国の社会理念で日本の現実を裁断している」(三七七頁)というが、中世後期以来、遊女が賎視されてきたことは、たとえば網野善彦『中世の非人と遊女』(明石書店、一九九四年、一三〜一四頁など)で述べられているし、本居内遠の『賎者考』でも遊女は「賎者」として取り上げられていて、けっして日本の現実から遊離した見方ではなかった。
 D『年々随筆』の著者は石川正明(三七七頁および巻末の引用史料九頁)ではなく、石原正明である。
 E伴信友の著作は、『獣宍塩考』(三七八頁二カ所および巻末の引用史料六頁)ではなく、『獣宍塩湯考』である。
 F「承和九年(八四二)に左右京職が東西悲田院に命じて鴨河原の髑髏を焼かせており(『続日本後紀』)」(三四頁、同様の記述が三七〜八頁にもある)とあるが、原文は「勅左右京職東西悲田」云々とあり、天皇が左右京職および東西悲田院に命令していると解釈すべきである。ちなみに、山本氏が事務局長として編纂された『京都の部落史』史料古代中世収録の当該史料についての綱文は、「左右京職および東西悲田院に鴨河原の髑髏焼斂を命じる」と正しく記述されている(同史料集七四頁)。
 (6)出典のあげ方にミスがあったり、巻数・頁数の記載のない場合が少なくないことである。
 @「非人の語と仏典とのかかわりに注目したのは[黒田:1972]で、黒田氏はそこで『日本霊異記』の『七人の非人有り、牛頭にして人身なり、我が髪に縄を繋げ、捉へて衛み往く』を引いて非人は『天竜・夜叉・鬼霊などの空想上の怪物を指す言葉』としている」(一八頁)とあるが、黒田俊雄氏の当該論文「中世の身分制と卑賎観念」(『部落問題研究』第三三韓、一九七二年五月)には、その部分は入っていない。のち『日本中世の国家と宗教』(岩波書店、一九七五年)に収録するに際して追記された部分なのである(黒田著書三八八頁終わりから二行目から三八九頁九行目まで)。こうしたミスは、頁数を明記するやり方をとっていれば避けられたと思われる。
 Aその他、研究文献や史料集の頁数の記載のないものが、かなりみられる。概説書等の場合は、頁数を記載しない場合もあるが、研究論文では頁数がほしい。たとえば一三一、一三三、一三六、一四八頁に出典として『京都御役所向大概覚書』とのみ記されているが、この史料集は、清文堂から上下二冊出ていて、当該史料に当たるのは、困難である。
 以上、本書の紹介と問題点の指摘をさせていただいた。はじめにお断りしたように、特に古代〜中世の部分については私の専門外になるので、思わぬ過誤を犯しているのではないかと恐れている。もし誤りや不十分な点があれば山本氏および読者に、ご海容をお願いしたい。
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