佐藤弘夫著『死者のゆくえ』

評者:関沢まゆみ
「宗教研究」361(2009.8)

 本書は、日本思想史を専門とする著者が、死をめぐる観念の変化について古代から中世、近世そして近代へと通史的な追跡を試みたものである。構成は、序章「死の精神史へ−方法と視座−」、第一章「風葬の光景」、第二章「カミとなる死者」、第三章「納骨する人々」、第四章「拡散する霊場」、第五章「打ち割られた板碑」、終章「死の精神史から」、からなっている。読後の率直な感想は二つの相反するものであった。
 第一は、著者の専門分野と思われる中世の納骨信仰をめぐる考察の精密さに対する高い評価である。たとえば、第三章の十二世紀以降の納骨信仰の流行についての論考で、浄土往生を希求した人々にとって「垂迹」への結縁こそが重要であり、その垂迩は従来の本地垂迹説の説くような日本の神々だけでなく、聖徳太子や伝教大師、弘法大師などの聖人や祖師、また仏舎利や法舎利をも含む幅広いものであり、そのような視点から納骨の場としての霊山霊場の形成や経塚の流行をも視野に入れた中世の納骨信仰の展開世界を解明している点はたいへん貴重な研究成果であるといってよい。
 一方、第二には、逆に先行研究への誤読や見落としがあることも否定できなかった。たとえば、誤読の例を二つあげてみるならば、序章での柳田國男への誤読である。その一例は、著者は柳田が「百年千年と継承されてきた日本「固有の死生観」を発掘する作業」(一一頁)を試みたとか、自分は「柳田が想定したような時代を貫通する民族固有の死生観の存在を前提とすることなく」資料に即して解明していく(一九頁)、などと述べているが、それは明らかに柳田への誤読である。柳田國男の民俗学は決して「日本固有の」文化や観念の解明をめざすものなどではなく何よりも生活の変遷史、その過程を明らかにしようとする広義の歴史学であった。たとえば著者の「百年千年と継承されてきた云々」という表現も、それが柳田の『先祖の話』の自序の中の「ただ我々が百千年の久しきにわたって、積み重ねて来たところの経歴というものを」という部分からの引用であるならば、肝心な部分がまちがっている。柳田が問おうとしているのは「久しきにわたって積み重ねてきた経歴」、つまり「経歴」、変遷史なのであり、固定化された民族固有の死生観などではない。その逆なのである。民俗学が日本文化の特質を明らかにするものだという誤解の原因は一般に和歌森太郎氏のエトノス論の影響にあるのであろうが、それは柳田の論点を大きく誤解したものであったことをここに確認しておきたい。

 もう一つの誤読の例は、著者が「柳田国男の理論が抱えるもう一つの重要な問題点は、骨の問題にまったく触れられていないことである」(一九頁)とか、「柳田が遺体や骨の問題を取り上げることはない」(二〇頁)などと述べている点である。柳田は著者がいうような古稀を過ぎた晩年になってから初めてではなく、むしろ早くから「日本の葬儀慣習の変遷を知りたいと心掛けて」おり(『郷土生活の研究法』一九三五年)、昭和四年(一九二九)には有名な「葬制の沿革について」(『人類学雑誌』四四巻六号、一九二九年)を著している。その「葬制の沿革について」は日本各地の民俗資料をもとに葬制の沿革、つまり葬送習俗の変遷について論じたものである。いま眼前にある土葬や火葬の普及また墓地の石塔の普及よりも以前の葬法としてのオキツスタへを想定しながら、その一方で、遺骨の改葬や火葬の骨揚げ、「高野山の骨堂」などに注目しそれを「追福の目的に行ふ例」とみるなど、「遺骨の移動」という問題にも大きな関心を示していた。そして、「最初は現実に骨を移しかつこれを管理しなければ、子孫は祖先と交通することができず、従って家の名を継承する資格がないものと考えていたのではあるまいか。姓をカバネといい、カバネが骨という語と関係があるらしいから、私はかりにそう想像する」とも述べており、葬送をめぐる死者の遺骨と霊魂の両者に対してともに高い関心を抱いていたのは明らかである。柳田は死者の遺骸と霊魂という両者に対する意識と行為の変遷史を民俗の伝承の中に探ろうとしていたのである。このような柳田への誤読をめぐる問題は、この本の著者だけの問題ではなく、最近、民俗学の世界でもいわゆる福田・岩本論争として注目されているところである(岩本通弥「戦後民俗学の認識論的変質と基層文化論」『国立歴史民俗博物館研究報告』第一三二集、二〇〇六年)。柳田國男の文章の読解においては原典確認による文脈確認が肝要なのであり細心の注意が必要である。

 また、先行研究の見落としの一例をあげるならば、著者は「遺骸を放置して顧みなかった古代の人々」とか、「平安時代半ばぐらいまでは、天皇家や貴族・高僧などごく限られた一部の人々を除いて、墓が営まれることはなかった」(一八頁)、「遺骨に対してまったく関心を払うことがなく、遺骸を放置して顧みなかった古代の人々」(一九頁)などと述べている点である。それはあくまでも九世紀後半から十世紀にかけての古代国家の転換期を経て平安貴族の触穢思想が歴史的に形成されてきた当時の状況に限ってのことであり、「古代の人々」の葬制墓制をそのように一まとめに決めつけるのは学史的に問題があろう。古代といえば長い時代であり大きな変遷もあり考古学の知見も重要である。葬制墓制の歴史からいえば、古墳時代だけでなく、縄文、弥生時代の葬墓制研究の知見も拡大してきている(本書刊行と同年に設楽博巳『弥生再葬墓と社会』塙書房、二〇〇八年、山田康弘『人骨出土例にみる縄文の墓制と社会』同成社、二〇〇八年などが続々と刊行されている)。また、文献史料の上からも八世紀から九世紀中葉頃までは各地の有力層の間では墳墓の側に蘆を結んで守り亡霊を追憶する風が根強くみられたことを示す記事が六国史には散見される。八世紀に実践されていた「山陵監護」や「陵墓祭祀」が九世紀前半に次第に闕怠がみられるようになってきた中でも「墓側結蘆」などの習俗が各地でしばらくは継続していたことはすでに指摘されており、階層差をも含めて複雑な墓制の変遷史が存在していた。その他、七世紀以降の殯など旧俗の廃絶、縄文以来の火葬の変遷史、七世紀から八世紀の墓碑の流行、仏教の葬送関与の上での八世紀と十世紀の大きな相違、等々、古代から中世への葬送墓制の大きな変遷についての通史的整理はすでに試みられており(新谷尚紀『生と死の民俗史』木耳社、一九八六年、『日本人の葬儀』紀伊国屋書店、一九九一年)、それらを参照した上での時系列的な整理が必要ではなかったか。それにもとづく九、十世紀の変化から十一、十二世紀の変化へと論を進めた方がより説得力があったのではないかと思う。

 このような問題点も指摘されるのではあるが、もちろん冒頭にも述べたように、本書が貴重な知見を提供しているものであることにまちがいはない。それは、第三章以降でとくに顕著である。第三章「納骨する人々」では、十二世紀つまり平安後期の院政期から鎌倉時代にかけて、聖人の廟所を中心に霊場という信仰の場が形成され、そこに遺骨を納めることによって故人の救済が実現するという信仰が広がっていったことを指摘する。霊場への遺骨納入の風習に関する早い例は高野山への納骨であった。『兵範記』仁平三年(一一五三)十二月八日条の覚法法親王の遺骨の納骨の例や『山塊記』永暦元年(一一六〇)十二月六日条の美福門院の例などが知られている。

 ではなぜ十二世紀だったのか。それについて著者は以下のように述べる。まず、古代から中世に向けての世界観のもっとも顕著な変容は、この世と隔絶した彼岸世界の拡大であった。この世の浄土たる霊場、霊地の形成である。この世は仮の宿りに過ぎない、来世の浄土こそが真実の世界であり、現世の生活はすべて浄土への往生のために振り向けられねばならない、そうした浄土信仰が十世紀の源信『往生要集』のころから流行しはじめ十二世紀の院政期にいたって一段と高揚した。そのような理想世界としての他界浄土を代表するのが阿弥陀仏のいる西方極楽浄土と考えられた。そこで、臨終の瞬間こそが往生のあり方を決定する最も重要な時と考えられ、いかにすれば浄土往生を実現できるか、それは「垂迹」との結縁によると考えられた。たとえば、『善光寺縁起』や『粉河寺縁起』では「生身如来」が本地と直結する存在であり、その垂迹の所在地は聖なる彼岸世界への通路とみなされ、その場への参詣が極楽往生に通ずるものであるとされた。そのような霊地、聖なる地を実際に自分の足で踏むことの重要性が十二世紀頃からさかんに宣伝され、諸寺社は極楽往生を願う民衆の心をひきつけていったというのである。

 このような霊場の形成に続いて起こったのが、十二世紀中葉から畿内を中心としたその霊場への納骨という風習であった。その背景には、かつての律令国家体制の解体のなかで、国家の庇護のもとからはじき出された官寺など伝統寺院が自力で生き延びていくためにその納骨信仰を通じて多くの人々の参詣を求める動きがあった。そこには寺院側の経済的かつ宗教的な戦略があったという。そうして、高野山や法隆寺などの霊場への遺骨納入の風習が本格化し普及してきた一方で、もう一つ注目される納骨の場が経塚であった。経塚とは法華経などの経典を経筒に入れて地中に埋納しその上に塚を築いたものである。末法の世に至ったと考えられた当時、釈迦入滅後五十六億七千万年後に現れて衆生を済度するという弥勒菩薩の出現を待つまでの気の遠くなるような長い期間、貴重な経典の消滅を防ぐために行われたのが理経という信仰的行為であった。そのような経典という「法身の舎利」を納める経塚が、仏舎利という「生身の舎利」を祀る廟堂と同様の霊地とみなされて、それへの結線のためさかんに納骨が行われる場となっていったというのである。

 第四章「拡散する霊場」では、鎌倉時代から室町時代にかけて、東日本を中心に造立された膨大な数の板碑に注目している。学術的な板碑研究の開拓者であった千々和到氏の成果を引用しながら、とくに東北地方の板碑に注目して、板碑もまた彼岸の仏の垂迹にほかならないとの視点から、それに対する結縁のための納骨信仰が展開したこと、そしてその背景として霊場信仰の地方への拡散を指摘する。十二世紀以降、官寺としての古代寺院からの脱皮を目指した畿内の諸寺院が地方にも積極的に教線の拡大をはかり、廃れていた地方寺院の再興と末寺化を試み、その運動の中心的な役割を果たしたのが聖と呼ばれる行者たちであったという。東北地方の場合には天台宗が大きくその勢力をひろげて慈覚大師の開基ないしは中興の伝説をもつ岩手県の黒石寺や山形県の立石寺や宮城県の松島寺や東光寺などの再興や創建が実現していった。そこでは当時最新のスタイルであった、本堂−奥の院、の霊場形式の伽藍配置が整備されて一大霊場が形成され、そこが板碑の造立や納骨信仰の流行の拠点となったという。一方、畿内では十三世紀末になると惣墓などと呼ばれる大規模集団墓地が形成されるが、その中心には多く惣供養塔としての巨大な五輪塔が建立された。それらの惣供養塔にも結縁のための納骨がなされていた例が少なくなく、東国における大量の板碑の建立と、畿内における惣墓の形成や惣供養塔の造立は、日本各地に新たな共同墓地とミニ霊場つまり来世への回路が数多く形成されていった現象と呼応するものとして把握できるとして、列島各地への納骨信仰の広がりを指摘する。そして、関東や東北の各地の板碑の事例踏査をもとに、「板碑建立が全盛期を迎える時代は、一般常識としては法然流の念仏が全国を席巻した時代とみなされている。しかし、東日本に関していえば、浄土信仰の主流は称名念仏ではなく、板碑を建立し、結縁のためにそこに参詣し納骨するという形態だった」と主張する。浄土信仰と板碑と納骨習俗とを関連づける著者のこのような見解は大方の賛同を得られるものと思われる。

 第五章「打ち割られた板碑」では、十三世紀前半に現れてまたたくまに東日本で爆発的に流行した板碑が、十四世紀中葉をピークとしてやがてその建立が激減しまもなく消滅してしまうその歴史についての追跡を試みる。宮城県下での無残に打ち割られたり海中に投棄されたり建築資材へと転用されている板碑の数々を紹介しながら、板碑の宗教的意義の喪失についての考察を進め、供養塔から墓石へという中世から近世への大きな転換を指摘する。畿内における死者の名を刻んだ小型五輪塔の出現、東国における板碑の衰退のなかで被供養者の個人名を刻んだ板碑の増加、などについての先行研究を紹介しながら「おおよそ一五・一六世紀を転換期として、死者のために建立される石塔は、不特定多数の霊魂救済を目的とした供養塔から、特定の人物の遺骸ないし遺骨に個別に対応する墓標へと、しだいにその性格を転換させている」と述べる。そして、古代以来の遺体や遺骨への無関心の背後には、救済が実現した霊魂はもはや遺骸や骨には留まらないという世界観が存在したが、それに対して「その名を刻んだ墓石や五輪塔を建立するという行為には、それ以前とは明らかに異なる、遺体・遺骨そのものに向けられた永続的な強い関心と、墓標を通じて死者を記憶に留めようとする新しい指向性を看守することができる」と述べ、十五、十六世紀に納骨信仰と板碑が終焉したことの背景として、供養塔の時代から墓標の時代へと、死をめぐる観念の決定的な転換がおこったのだと主張する。中世前期では彼岸世界こそが真実の世界であり、この世はその世界に到達するまでの仮の世にすぎなかったのが、中世後期を転換期として、人々にとっては現実世界こそがリアルな実体と考えるようになったというのである。このような見解に対しては、たしかに了解できる。ただ一言コメントを寄せるならば、現実的に全国各地に近世以降も大量の三界万霊供養塔をはじめとする各種の供養塔の類の建立が継続しており、単純に供養塔から墓標へという変化が中世後期に起こったという把握の仕方には留保をつけざるを得まい。中世後期の供養塔の出現はそれに続く個人墓標への先駆的なものであり、両者は前後して起こってきた現象であって相補的に併走してきているというのが現実的な理解ではないか。墓石をめぐる研究も近年活発化しており(『国立歴史民俗博物館研究報告』第一一一集、二〇〇四年など)、供養塔と墓標の問題も今後精密さを増していくことと思われる。

 また、中世から近世へ向けての変化については、「縮小する他界」という視点から「他界浄土のリアリティの衰退」を指摘して、世俗の生活と人倫を重んじる儒学の本格的な受容によって、その傾向がますます強くなっていったと述べる。そして、近世後期には本居宣長をはじめとする国学者たちが垂加神道の影響を受けつつ新たな他界観を形成し、幕末の平田篤胤によって、死者の亡魂が向かう先である「幽冥」界(かくりよ)はどこか遠い場所ではなく、生者の住むこの世界=「顕世」(うつしよ)の内部に存在するものであるとする現世中心主義の発想による世界観が語られていったと指摘する。そして、死者が身近に留まりやがては祖神となるという考え方について、それは柳田國男の祖霊観に接近するものとなっており、むしろ柳田の祖霊観はそうした国学の流れを前提としたものであったと位置づけている。また、近世における霊場の変質について、中世後期において顕著であった遠い他界の観念のその後の近世における縮小化にともない、各地の霊場の性格も中世的な浄土信仰の拠点から近世的な現世利益の祈?寺へと変質していったと指摘する。

 その他にも、多くの興味深い問題点が提示されつつ解読されていく本書であるが、いざ読んでみるとエッセイ風の文章と学術的な文章とが混在していて、読みやすくもあり同時に読みにくくもあった。時系列的な理解を求めてとまどうことも多かった。もちろん刺激的な一書であることは確かであり広く推薦したい一書である。


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