西海賢二著『武州御嶽山信仰』(山岳信仰と地域社会:上)

評者:山口 正博
「宗教研究」361(2009.8)

 著者は言わずと知れた山岳信仰研究の分野における中心的な研究者であり、本書の主題である武州御嶽山以外にも四国の石鎚山や関東甲信地方の大山・富士山など主要な霊山の信仰、さらには遊行宗教者などに関する優れた著作を多数上梓している。著者は平成十七年に國學院大學へ提出した博士論文『近世山岳信仰の地域的展開−武州御嶽山・伊予石鎚山を中心にして』によって博士(民俗学)の学位を授与されており、本書は武州御嶽山の部分をまとめたものである。筆者には旧著『武州御嶽山信仰史の研究』(名著出版、一九八三年。以下、旧著)があるが、本書はそれに大幅に加筆したものである。なお、石鎚山に関しては『石鑓山と瀬戸内の宗教文化』(岩田書院、一九九七年)と重複が多いので収録を見合わせたとのことである。
 近年の山岳信仰研究では近世の霊山や里山伏の実態把握が飛躍的に高まっている研究状況の進展がある(1)。本書のような個々の霊山への詳細な研究が再び刊行されることは、新たな研究の展開を招来する起爆剤ともなるだろう。

   一 構成と内容

 本書は次のような構成となっている。

序章 近世山岳信仰と地域社会−研究史の回顧と展望をかねて−
 一 山岳信仰研究の在り方
 二 一九八〇年代以降の研究史
第一章 中世社会と御嶽山
 一 御師の発生
 二 講集団の萌芽−多摩を中心にして−
第二章 近世御嶽山の祠職制
 一 幕藩体制確立期の御嶽山
 二 神主・社僧・御師
 三 御師団と講の展開
 四 武州御嶽信仰の普及伝播
第三章 武州御嶽山の経済構造
 一 蔵王権現社の経済基盤
 二 御師の経済と講集団
第四章 御嶽山の祭礼諸役
 一 日の出祭
 二 祭りをめぐる御嶽山
第五章 武州御嶽講の組織と機能
 一 武蔵における御嶽講
 二 稲荷信仰と狐憑き
 三 相模における養蚕業の展開と御嶽講
 四 丹沢山麓の武州御嶽講
 五 小田原市新屋の武州御嶽講
 六 平塚市四之宮の武州御嶽講
 七 下総における御嶽講の展開
第六章 代参習俗と講
 一 代参講について
 二 太々講と太々神楽奉納
 三 寄せ講とヒラマイリ
 四 御師と宿坊
第七章 多摩地方の経済構造と御嶽講
 一 御嶽道の住民と御嶽講
 二 御嶽山麓の経済生活と御嶽講
第八章 農民決起と講集団
 一 武州一揆と御嶽講
 二 御師の存在と一揆
第九章 幕末維新後の御嶽山
 一 御嶽山の社会組織
 二 御師と民宿経営
 三 御嶽神社の運営状況
終章 山岳信仰と地域霊場

 以下、各章の概要を示す。
 序章ではまず講に関する歴史学・民俗学の研究史を概略し、櫻井徳太郎や宮田登の業績を評価している。だが、やや唐突な形で記述のトーンが変化する。それは研究と実践のジレンマとして私的な体験を基にした記述の部分である(九−一二頁)。例として筆者が参与観察を行っている際の老人の切実な祈りや対照的なNHKクルーの横暴さをあげ、研究対象として冷静でいることへの迷いが語られている。再び研究史に戻り近世における山岳信仰の地域的展開に関する書籍五冊とシンポジウムの報告を書評形式で紹介している。
 第一章では中世における御嶽山信仰に本山派山伏が寄与したことが指摘され、受容される側の民衆には弥勒下生への信仰が南北朝期頃から関東に一般に見られたことを板碑の存在から浮かび上がらせ、それが武州御嶽山信仰にも当てはまり、これを背景として山伏や御師が御嶽山信仰を広めたとする。また、中世に発生し中世末期に衰退する板碑(石製塔婆の一種)に着目し、そのあり方から中世村落内部の農民の結集を見出し、いくつかの画期を提示している。こうした過程に宗教者の活動の影響や民間信仰の浸透の影を見出すのである。
 第二章は近世御嶽山の組織に関する考察である。近世御嶽山は神主・社僧・御師から成っていた。近世を通じた御師の台頭や社僧世尊寺の廃絶などによって、御師が御嶽山の中心的存在になっていく過程が示されている。また、山上(山内)と山下(山麓)の御師の質的相違や講中の分布状況と性質の差異も指摘されている。
 第三章では御嶽権現社の収入源および御師と講中との関係が論じられている。権現社の収入は祭礼の散銭によって賄われたが、それだけでは財政が逼迫し、出開帳や勧化が度々行われていたことが指摘されている。こうしたなかで農村社会での新規開拓が頭打ちとなる中で、御師たちが江戸町人との関係を深め幕末には町人たちの財政基盤への寄与が大きくなったことを指摘している。御師個人の収入としては講中による太々神楽奉納が重要な位置を占めていたという。
 第四章では御嶽山の諸祭礼、特に日の出祭を中心として紹介し、元旦祭・太占祭・山開き国宝祭についても略述している。
 第五章は各地の講中の事例紹介である。武蔵の講中を紹介する中で民衆が御嶽山に豊作祈願や雨乞いなどの信仰を寄せていたことが示される。また、講の結成に御嶽御師による狐落しを発端とする伝承を有するものがあることから、近世史料に見られる狐憑きの事例(御嶽山とは無関係)を参照しながら、こうした憑物現象が頻繁にあり、御嶽御師が憑物落しに深く関与したと指摘している。さらにその狐憑きが多く見られる地域では養蚕業の展開が見られることから、養蚕業と御嶽講の関係を考察する。
 第六章では代参習俗に関する考察が展開される。代参講とは講中から数名の代表者を選んで参詣する形態であるが、講員全てが代参を終了すると講員全員で御嶽山に参詣し太々神楽を奉納するところが多い。これは御師にとっても重要な収入源でもあり、同時に御師のステータスを表すものであるので廻檀の度に熱心に奉納を勧めるという。また、太々神楽は素面神楽と面神楽から成り、元来前者だけだったところに後者が加わり、近代には前者が廃れたという大まかな変遷が述べられている。
 第七章では宿場町と御嶽講の関係が述べられる。参詣ルートとなっている沿道の町への経済的影響の大きさを指摘している。また三多摩における養蚕業の発展と御嶽講の結成の相関関係を史料を豊富に提示しながら詳述している。
 第八章では幕末の武州世直し一揆の波及が御嶽講の分布状況と関係し、御嶽御師の講社廻りによって情報が瞬時に広まったことを指摘している。講社が一揆の発生・展開に情報源と結集の機能を果たしたのである。
 第九章は御嶽山の御師集落の民俗と近代以降の社会変化がテーマである。集落の社会構造や神仏分離への対応、御師の民宿経営への展開が取り上げられている。
 終章では「霊場」概念への筆者の私見と本書全体のまとめが簡潔に述べられている。

   二 コメント

 以上が本書の概要である。本書はすでに評価の定まった古典ともいえるものを土台とした研究書であり、旧著が刊行以来山岳信仰研究の進展に寄与したことは言うまでもない。加筆されていわば再刊された本書によって、その成果が今日でも入手しやすい環境が整えられたことは福音と言えるかも知れない。しかし、その上で様々な疑問点があることは指摘せねばならない。むしろ、評価が定まった旧著を土台としている以上、疑問点を指摘するほうがより生産的であると考える。ただし、四半世紀前に刊行された部分がほとんどであるので、各章の内容を個別に細かく指摘しても、その後の御嶽山研究の進展に通じていないため的外れに終わる危険もある。また、講集団に対する重厚な研究ではあるが、それを民俗学的側面だけで指摘するのもまた媒体に適していないと危倶する。そこで、民俗学における講研究の文脈での書評は別の評者に任せるとして、評者は宗教史・宗教民俗学的な観点から気になる点や要望を指摘してみたい。ただし、ここではあくまでも評者が気になった点を挙げているに過ぎないことを断っておく。したがって偏りや誤読があるかもしれないが、その点は御寛恕願いたい。

 1 研究史における再定位の必要性
 序章には本書で新たに追加された部分として、山岳信仰と地域社会という観点からの一九八〇年代以降の研究史がまとめられている。巻末の初出一覧や記述スタイルを見てもわかるように、過去に様々な雑誌に掲載された筆者の書評が転載されて並べられている。このため、決して網羅的ではない研究史ということになるが、そのことに関して、すなわち書評を並べることで研究史と称することに関してもう少し説明が必要だったのではないだろうか。一般的に研究史は書籍だけに限られるわけではなかろう。この研究史には論文への言及が無い。しかも武州御嶽山研究の領域では筆者前後の研究が存在しないかのようである。旧著では斎藤典男『武州御嶽山史の研究』(隣人社、一九七〇年)を書評形式で取り上げていたのだが、本書では削除されている。また、旧著では御嶽山に関する論文の題目は列挙されたものの、まとまった研究は斎藤のものだけということで特に言及されなかった。こうした姿勢は旧著刊行後の御嶽山関連の論文への言及が無いことからもわかる。すなわち、御嶽山を研究しようと志した場合、本書を通じて研究状況を概観することは到底不可能なのである。もっともそれらが筆者の研究テーマには関わらないとの判断であったとしても、四半世紀を隔てて『武州御嶽山信仰』という書名で再び世に出すのであれば、その後の研究や史料の充実など、特に御嶽山研究という文脈に再定位して、研究の最前線を提示すべきだったのではないだろうか。

 2 中世の山伏から近世の御師への変容
 本書で中心的に扱われている宗教者は御師である。中世には山伏を源流とすると述べられているが、中世の御嶽山の組織に関する説明が無い。第二章において御師が近世初頭に御嶽山に定住するようになることを述べ、この段階では「いまだ御師制度の未熟ななかでの御師であり、半ば山伏的色彩を色濃く残すものであった」(八一頁)と述べているが、中世の山伏と近世の御師との相違はどこにあるのか。評者が研究対象とする英彦山では十六世紀の段階には定住する山伏も非定住の山伏もいたし、近世には山伏(定住)が檀家を有し廻檀の際に祈?を行ったり宿坊を営んだりしている。この意味で御嶽山の御師と英彦山の山伏の具体的な違いが理解しづらいのであるが、山伏のどのような性質が脱落すれば近世の御師になるのかもっとわかりやすく示してほしかった。

 3 御嶽山の宗教者の思想と実践
 御師の性質だけでなく御嶽権現社という神社の性質や芸能にも共通する問題として、筆者は御師の思想や実践をどう捉えているのかということが気になった。例えば第六章の太々神楽における面神楽と素面神楽との違いは「(評者注‥素面神楽のような)修験的なものではなく、『古事記』『日本書紀』をもとにした国家神道の特質であるとされる皇室尊重の主張や神々を皆、史上実在の人物として血脈(血統)づけようとした思想が表れていること」(二七〇頁)であり、面神楽は「神社形態へと移行していく段階に、「復古神道」の宗教儀式としての意味あいで採用したのではないか」(二七〇−七一頁)と述べている。面神楽の伝承が安永期(一七七二−八〇)頃とされ、宝暦四年(一七五四)に神主家の交代があり、社僧の廃絶が天明八年(一七八八)ということから、組織的に大きく変貌を遂げているだけでなく、面神楽の導入という実践面での変化も見られるようであるが、これらを関連付けて指摘していないのは残念である。また、十八世紀の神楽の変容に関する叙述にあえて「国家神道」や「復古神道」の語を用いるのが適切であるかは疑問である。
 さらに、第九章で近世において御嶽山が神道化していたということが、社僧が絶大な力を持った三峰・大山と異なり神仏分離がスムーズに行われたことの証左とされている。いずれにしても社僧の衰退・廃絶は御嶽山の神道化と関係がありそうであるが、神主や御師がどのような思想を有していたのかが語られない。神道といっても所謂神仏習合では混乱をきたしたはずであるから、国学思想の流入などがあったのではないだろうか(2)。思想と言わずとも世界観の変容もまた御師の性質に影響を及ぼすと考えられるので指摘しておく。
 後の指摘とも関係するが、御師の憑物落しをはじめとする加持祈?といった実践が存在したことが指摘されているが、だとすれば明治初頭の宗教の大変革が御嶽山に影響を与えなかったと果たして言い切れるだろうか。神社となった豊前の修験寺院の旧修験が教派神道に属しながら続けていた配札活動に度々禁令が出されていたことなどを想起するとき、御師の配札活動への影響にも焦点を当てるべきだったのではないだろうか。

 4 「信仰」の実態に関して
 第五章から第八章が筆者の主題である山岳信仰の地域的展開としての各地の講中を扱った部分であり、豊富な事例を提示して議論も多岐にわたっている。これを簡潔にまとめることはできないが、基本的には御嶽山に対して五穀豊穣や風雨除け、雨乞い、火難除けなどの祈願が多いことが挙げられている。興味深いのは、第五章第二節「稲荷信仰と狐憑き」で講結成の契機として御嶽御師による狐落としがあった事例が紹介されていることである。いわゆる稲荷社が濃密な分布を見せる地域には狐憑きが多いという指摘のあと、氷川神社と日蓮宗の祈?寺院との係争に関する史料(御嶽御師とは全くの無関係)が挙げられている。そこには数十匹の狐を使役する山伏も登場する。要するに近世における武蔵では憑物落しに様々な宗教者が関与したということが論じられているのだが、それならば御嶽御師の関与もその一つの表れに過ぎず「稲荷信仰−狐憑き−御嶽御師−武州御嶽講−という連繋関係も、武蔵地方の特定地域に限ってみると考えられる」(二〇六頁)というまとめ方は、「ではなぜ他の宗教者ではなく御嶽御師であったのか」という疑問が生じるが、筆者は十分に説明していない。
 近隣の他の宗教者ではなく御嶽御師による憑物落しが講結成の契機であり、それによって御嶽講の分布が濃厚になっているとすれば、そこには御嶽御師の持つ「力」(験力・法力・呪力など)への承認・信頼が必要となるはずである。この意味で御師たちがその「力」を獲得する過程、すなわち御師の修行が本書で等閑視されていることが不満である。源流は山伏であったということは何らかの行の体系は継承していたようにも思われるのだが、それに関する具体的な指摘は無い。あとがきにおいて「綾広の瀧で修行の真似事をしていた」(三七五頁)という経験を語っていることからしても、近世にも行法が存在したはずであるが、全体を通してもそこへの言及がない。
 第五章に関してもう一点指摘しておこう。おそらく第三節「相模における養蚕業の展開と御嶽講」への導入とも考えられるが、憑物に関して「その憑依現象面だけを研究の視野におく傾向にあるが、地域社会における位置づけを把握することも必要ではあるまいか。たとえば、憑依現象が、近世中後以降顕著となってくる養蚕業地帯に多いことなどをみれば、武州御嶽講とも、当然重層した問題として視野のなかに入れるべきであろう」(二〇五頁)と憑依現象・養蚕業・御嶽講の関連性を指摘している。これは非常に興味深い指摘ではあるが、第二節の狐憑きが重点的に語られる部分では養蚕業と講中の関わりが見えず、逆に第三節では養蚕業の盛んな地域での狐憑きとの関係が見えてこない。第四節以降は個別の事例紹介であり、狐憑きとも養蚕業とも関係の無いものとなっており、第五章は不安定な構成に感じる。
 第七章では御嶽講の参詣道の途中にある宿場町との関連が示されるが、『御嶽山信仰』という書籍に含むにはやや飛躍がありはしないだろうか。
 第八章での幕末の世直し一揆に御師が介在したという仮説は非常に刺激的であった。仮説の根拠は一揆の発生伝播と夏廻り(廻檀)の時期が重なっていることによるが、宗教者がメディアとしての機能を果たすということが講中と宗教者の関係性の持続・強化に寄与する可能性に目を開かせてくれた。
 終章では御嶽講以外の三峰講や富士講など同系列の講集団との比較の必要性を述べているが、それだけではなく山伏や陰陽師など他の宗教者(3)との競合・軋轢などに関しても目を向けていく必要があるだろう。

 最後に、無いものねだりかも知れないが、評者としては信仰を受容して講を結成し、御師との関係を持続させるために必要と思われるいくつかの側面にもっと踏み込むべきだったと考える。すなわち、御師の「力」の源泉である行への言及や農耕に際しての最大の関心事である太占神事(ツツガエ)の結果を真剣に受け止める人びとの姿、あるいは蔵王権現の眷属である「お狗さま」(大口真神)に関する語り(4)などである。
 考えてみれば、旧著刊行時の筆者は評者よりも若年であり、縷々述べてきた疑問点も、現在の筆者に対しては釈迦に説法かもしれない。筆者の研究の真骨頂は民間宗教者の歴史的実態に関する研究(5)によって示されており、こうした側面に関心があるならば、他の著書へと読み進められることをお勧めする。本書は今日の研究の成果としてではなく、あくまでも山岳信仰研究における重要な古典の再刊として読むべきである。そして不満を覚える部分があれば各自で掘り下げていけばよい。その意味では無視できない重要な古典ということだけは確かである。

 注
 (1) 宮家準編『「神社と民俗宗教・修験道」研究報告U 修験道の地域的展開と神社』国学院大学二十一世紀COEプログラム、二〇〇六年。宮家準編『「神社と民俗宗教・修験道」研究報告V 近現代の霊山と社寺・修験』国学院大学二十一世紀COEプログラム、二〇〇七年。なお、研究報告Tは宮家準『神道と修験道−民俗宗教思想の展開』(春秋社、〇七年)として刊行されている。
 (2)斎藤典男の研究や加藤章一「神仏分離と御嶽信仰」(『日本民俗学』一二八、一九八〇年)によれば御師が吉田・白川に入門し、幕末には吉川神道の影響もあったようである。このことに触れられないのも研究史に関する評者の指摘と呼応する。
 (3)注(1)における成果や林淳『近世陰陽道の研究』(吉川弘文館、二〇〇五年)における陰陽師の実態把握が進んでいることも研究状況を一変させている。
 (4)第五章の小田原の事例において火難除けのために御嶽山に祈願すると、御師からどのお犬様を迎えるかと尋ねられ、その帰路にお犬様が共に来ていると感じる体験やお犬様を見ようと覗いてみると子馬・子牛ほどの白くて大きなお犬様の姿を見たといった語り(二二五頁)は御嶽山の「霊験」のリアリティを補強する語りとして地域社会で機能していると思われるが、こうした語りをもっと収集してもよかったのではないだろうか。
 (5)西海賢二『近世の遊行聖と木食観正』吉川弘文館、二〇〇七年。


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