伊藤裕偉著『中世伊勢湾岸の湊津と地域構造』

評者:綿貫友子
「歴史批評」703(2008.11)

 本書を以て初めて著者の論稿に接する読者であれば、その専攻が本来は考古学で、長年、埋蔵文化財、主に文化財行政に携わるなかで中世考古学の研究成果を数多く公にされてきた人物であることに気が付くのは、かなりの頁を読み進んだ後のことになるのかもしれない。考古学の専論は、近年の津市内での発掘調査をもとに安濃津を検討した補論一「安濃津と物資集散機能」や南伊勢系土師器の分布状況を概観した補論三「南伊勢系土師器の分布」で、本論のほとんどは文献史料にもとづく、あるいは歴史地理学的見地からの行論である。中世の伊勢湾岸という地域の「位相」を明らかにしようと多角的な視野から挑んだことが随所に感じられる意欲作である。以下、本書の構成と内容を紙幅の許す範囲で紹介する。

 序章「中世伊勢湾への視座」では、先行研究で、中世伊勢湾のなかでも大湊以外の湊津についての検討が不十分であるとして、検討の必要性が提起される。第一部「湊津と在所の地域相」がその検討成果で、第四章と補論、蒐集史料にまとめられている。特に、一次史料となる古文書から地名が挙がるのみの文学作品まで、一六八件の史(資)料が安濃津関連史料として集成され、公にされたことは重要である。ただ、氏が序章で「考古資料から言えるのは基本的に分布の問題である。それを即座に流通や交易と換言できないのが考古資料の性格であることを充分踏まえなくてはならない」(一五頁)と指摘したのと同様、文献史料の存在と、そこから流通や交易の状況が検証できることとの間には乖離がある。集成史料からは「安濃津」と記された多くが地名を示しているに過ぎないことも確認できる。安濃津が位置的にも、政治・文化的側面においても京都と密接な関係をもち、外港的機能を有したであろうこと、その重要性を考古・文献それぞれの側面からみた第一章「安濃津の位相を探る」は、今後の研究に資する研究成果ではあるが、史料に「安濃津」とあっても、地名以外、湊津や海運の実態に関わる内容は限られている。暗黙の了解事項とされているであろう「津」が船の停泊地であるという認識を敢えて排除し、考える必要がある。宿や市の所在を記す内容からは、陸上交通や商業の中継との関わりにまず注目すべきだろう。また、一六世紀後期の明国史料『籌海図編』や一六世紀末の『日本風土記』に安濃津と思しき「阿乃好子」や「洞津」が記され、編纂者が日本の代表的交易地と認識していたことは確かだが、記事が日本の実態そのものであったのか、一七世紀前期の『武備志』の関係個所が『日本風土記』記事を踏襲している可能性はないのかについて検証が欲しい。戦国期には成立していたとされる『廻船式目』(『廻船大法』)にしても、住田正−『廻船式目の研究』(東洋堂、一九四二年)が明らかにしたように、五三件伝わる諸本は浦戸・兵庫・坊の津の三系統に大別されるが、何れも近世の写本で内容には異同がある。三津のうちに中世海運拠点の筆頭格と思しき兵庫津がみられず、七湊に挙げられたなかで実際に中世海運が史料上確認できるのは三国湊・輪島・十三湊に過ぎない。奥付にある貞応二年という年紀だけでなく、扱いには慎重さが求められる史料である。構成上の問題かもしれないが、第二章「中世矢野の湊と機能」、第三章「醍醐寺領曾禰荘と松崎浦・細頸」、第四章「伊勢湾西岸の中世湊津」さらに言えば、後述する第二部の内容までを踏まえたうえでないと、他地域との比較検討が十分ではないままに相対化を図ろうとするのは性急であるとの感が否めない。補論一「安濃津と物資集散機能」が発掘調査による成果とはいえ、伊勢湾岸のなかで偶発的に調査が叶った限定的な地域での調査成果は、あくまでも安濃津の所見として論じてこそ、研究の基礎としての重要な意味をなすものと思う。

 第二部「地域間の諸関係をめぐって」では、第五章「屋号から見た中世後期の地域構造」、補論二「山田・大湊と魚屋善四郎」、第六章「大湊と山田の位相をめぐる諸問題」として、屋号を地域構造解明の手掛りに検討がなされる。当該地域に関わる史料に屋号が散見されることは周知されていながら、それが十分検討されてこなかったことにも関わるが、本来、屋号を把握・記録することを目的に作成された訳ではないそれら史料に遺された記載をどのように分析・論証しうるのかが問題となる。伊勢・志摩関係史料から慶長年間の史料まで約一一〇〇件の基礎データ収集にもとづく作業に敬意を抱きつつも「屋号商人/全商人=屋号商人比率」(二一○頁)とされた史料からの検出数とその判断基準、解釈の妥当性をはじめ、いくつか疑問がある。ある史料に限定して、そのなかでの傾向なり特徴ということは指摘できるにしろ、作成時期も対象地、目的も異なる史料をとりまとめて比較することに無理はないか。屋号が継承されるなかでは、経済的事情などから必ずしも生業を同じくしない非血縁者への職の売買という事態も少なからず生じており、ある時期の屋号をもって、本貫地や生業、取引地を判断すると誤認が生じる可能性もある。大胆な作業を通して、先行研究では外宮の所在地山田の外港として包括的にとらえられていた大湊を海船の出入航地・製塩地にとどまるとし、川湊であり、物資の集散地としての山田との機能を区別して論じたことには注目したいが、海運で移出される代表的商品が大湊と周辺で生産された塩とみられることも軽視すべきではなかろう。前述した補論三と補論四「中世後期の桑名」は、第一部に比較事例として挙げたほうが説得的であったかと思う。

 史料解釈上の問題や他地域との連関を探り、相対化するうえでの段階を踏んだ論証という点で課題が残るが、終章「総括と展望」や後記にも示されるように、著者が中世の伊勢湾岸という地域に視座を据え、その「位相」を明らかにしようと挑んだ問題提起の書と承った。中世伊勢湾岸史の総合的把握に向けての野心的な試みが研究の刺激となり、学際研究がさらに進展することを期待している。
(わたぬき ともこ)


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