渡辺尚志・小関悠一郎編『藩地域の政策主体と藩政』

評者:下重 清
「関東近世史研究」66(2009.7)

 本書は、副題に「信濃国松代藩地域の研究U」とあるように、二〇〇五年に刊行された論文集『藩地域の構造と変容』(岩田書院、二〇〇五年)に続く共同研究の成果である。『関東近世史研究』では前論文集を取り上げていないので、併せて紹介する。
 前論文集は、渡辺尚志氏を中心に若手研究者らが信濃国松代藩領をフィールドとして、真田家文書をもとに共同研究した成果報告書で、一〇本の論文から構成されている。その契機は二〇〇四年の近世史サマーセミナー報告にあり、文科省科研費補助金が交付された基盤研究成果の一部でもあった。

 この共同研究は、一九九〇年代以降、明確な潮流として現れてきた「藩世界」「藩社会」といった新たな藩研究を強く意識しているとともに、もう一つの潮流である地域社会論と藩研究との融合・統合を目指している。それぞれの藩研究は、近世社会のトータルな把握(全体像)を究極の目的とする総合史にあるが、そのなかにあって、松代藩地域の個性を解明するために独自の方法論を提示した。すなわち、核心的なテーマについて集中的に検討を加え、それを軸に多様な諸問題を織り交ぜて幅を広げて分析するというスタイルである。総花的な「何でも揃う大型スーパー」ではなく、「行列のできる専門店」を目指したいという喩えに、その意図がよく現れている。

 前論文集において設定された、その核心的なテーマとは、「訴訟をめぐる藩当局と領民との関係性の問題」であった。訴訟関係史料を分析素材として、訴訟の場に着目することによって、近世身分制の骨格を形成する武士−百姓関係の再検討を試みている。なかでも、他領との間の訴訟沙汰や領内での村方騒動の解決手段としてみられた内済を取り上げ、民衆の力による平和システムとして据えられていた内済について、異なる側面を描き出した論文が多く含まれていた。藩領主の「御威光」「慈悲」と百姓側の「強情」「したたかさ」とのせめぎ合いや、その両者の間に挟まれた村や村役人の行動原理について新たに解明した点は高く評価されるべきであろう。

 すでに発表されている前論文集に対する書評では、研究スタイルについてフィールドワークが欠如している点や、続くであろう問題提起的な核心的テーマの構想が示されていない点など、いくつかの課題が指摘されている。また、研究成果に対しても、松代藩地域ないしは北信地域の個性が見えてこない点、あるいは、考察対象時期が偏っていて江戸前・中期における松代藩固有の問題が扱われていない、などの批判も出されている。

 一方で、『歴史評論』六七六号において、藩研究の新潮流について特集が組まれたのは、前論文集が日本近世史研究に投げかけた問題提起を契機としていた点も、また事実として記録しておく必要がある。

 続編である本論文集は、当然のごとく、松代藩地域という同じフィールドを対象に、核心的テーマを設定するという独自の共同研究スタイルを継承している。

 そして見落としてはならない重要なことであるが、彼らの共同研究は、そのような前論文集に対する外部からの評価・コメントに応えるというスタンスをとったことである(渡辺氏執筆の終章を参照)。おそらく、核心的テーマを設定して藩研究を進めていくという個性的な研究スタイルを継続していくうえで欠かせない、必然的な作業であったと推察できる。それはまた、柔軟なこの共同研究スタイルの最大の強みともなっており、わずか三年たらずで新たな成果を世に問うことを可能にした一番の要因ともいえよう。藩政の基礎史料が豊富な中規模外様藩という研究するうえでの好条件もさることながら、スピーディな持続型藩研究の一つのスタイルを築いたといえる。この点は尾張藩を題材とする「藩社会」研究にも一部通じるところであるが、大規模外様藩の藩研究ではなしえがたいフットワークのよさである。

 なお、前論文集へのコメントに応えるといっても、その一部は渡辺氏の私見という形をとって、著書『近世の村落と地域社会』(塙書房、二〇〇七年)において回答されているので、あわせて読み進める必要がある。その所為もあってか、今回の論文集では編者渡辺氏が論文執筆者として名を連ねていない。

 藩地域論の戦略(見通し)であるとか方法論的枠組みなど、共同研究者間で共有ないしは議論が尽くされているのであれば、やはり本論文集で提示してほしかったと感じる読者も多いと思う。しかし、そうした戦略の明確化が、かえって「参入障壁を高くして、新たな分野への積極的挑戦意欲を殺ぐ危険性」を孕んでいる点も事実であろう。それがフットワークのよさと相容れない要素であることも了解できる。あえてたとえれば、大黒柱のピッチャーに試合のすべてを託し、そのために万全を期すという試合理念に対して、ランナーが塁に出た段階で場面に応じた作戦を立て、かつイニング・チェンジごとに試合の流れに即応した策を実行に移す、といった臨機応変な試合運びであろうか。

 さて、今回の論文集で設定された核心的テーマは「政策主体と藩政」である(小関氏執筆の序章を参照)。それは、近年の藩研究の研究動向を検討した結果、発展的に導き出されたテーマと位置づけられている。すなわち、岡山藩研究会編『藩世界の意識と関係』(岩田書院、二〇〇〇年)を引き合いに出して、藩内外の多様な集団、国許以外の諸地域を含めて藩を捉えるという方法論のもとに、藩権力と家臣団・領民との関係性の解明が目指され、「藩世界」に生きるさまざまな人びとの意識・認識のありようなど豊富な論点を導き出したと評価する。その上で、国許の藩権力自体については分析がやや手薄になっているのではないか、藩権力内部の分析については不十分な点を残しているのではないだろうかと課題点を指摘し、藩権力それ自身を把握するための方法を鍛えていかなければならない、とあらたな分析視角の必要性を説く。

 そして、藩権力と地域社会との関係性を一層豊かに描き出すために、諸政策の立案から実施までを担った人びとを「政策主体」と捉えて、その集中的・総合的究明をテーマとして設定したという。この場合の「政策主体」とは、藩主はもちろんのこと、藩政を中核的に担う家老層、地方支配行政を総括する郡奉行グラス、そしてより在地に密着して政策実施を担う諸役人層を指している。彼らの意識・思想を諸政策への取り組み過程から考察することで、藩権力側の認識や政策意図・構想などを、その内部に分け入ってクリアに描き出そうというわけである。

 「藩地域」論としては、前論文集がより在地社会への密着度が高いテーマ設定であったのに対して、今回は藩権力自体に分析の主眼を置いているというように、異なる視角からの取り組みであることが強調されている。ただし、藩権力といっても今回対象とするのは「上方(領主・国家)」が中心であり、「政治的中間層」や「下方(小前層や百姓以外の諸身分など)」への目配りは、今後の課題として俎上にはのせていない。

 本書は、「政策主体と藩政」について集中的に検討した第一編四章だての論文と、「藩地域の多彩な展開」と題された第二編四章の論文、計八本から構成されている。それぞれの内容を紹介していこう。

 第一章「真田家の系譜・事蹟編纂と鎌原桐山の思想」(小関悠一郎)は、近年の由緒論の進展を受けて執筆されている。寛政・文政期の真田家系譜編纂事業は、『寛政重修諸家諸』など幕府による編纂事業絡みの他律的なものであったが、天保期の真田家先祖事蹟編纂事業は、のち幕府老中にもなる藩主真田幸貫が命じ家老鎌原桐山が推進したもので、士風の振起・民政指針の獲得という問題意識のもとに実施された独自性の強い政策だという。軍事改革・藩祖顕彰などに代表される幸貫の藩政改革中にあって、一緒くたに扱われていた系譜編纂政策を、思想的裏付けによって政策展開があったと動的に位置づけ直した。

 第二章「松代藩家中と天保七年飢饉−寺内多宮を中心に−」(小田真裕)では、飢饉対策への松代藩家中(役人層)の主体的で多様な関わり方を指摘し、さらに松代藩郡奉行寺内多宮の「天保歉歳秘録」を取り上げ、藩の財政難と領民の経営成り立ちとの狭間で農政の舵取りがなされた点を解明した。社倉等の飢饉対策を、藩主幸貫の個性・改革政治に直結させて理解してきたこれまでの成果に疑義を呈している。また、前論文集に対する批判のなかで、真田家文書として残されている膨大な日記類の活用や、松代藩領内の里方・山中といった地域差の考慮が指摘されていたが、そうした批判に応えた成果といえる。

 第三章「松代藩士佐久間象山の殖産開発事業−松代藩地域研究の視点から−」(矢森小映子)は、「勘定所元〆日記」などをもとに、象山の担当した地方政策失敗の要因を再検討した。これまで、海防掛老中となった藩主幸貫に見出された「開明的」な家臣象山の行った殖産開発事業は、藩内の家臣団抗争や貧農層の反発によって農民騒動まで引き起こし、成果が見られなかったと解釈されてきた。ところが、天下国家をも論ずる象山が私物化した開発計画は、藩上層部には「藩利」を、領民には「藩の恩恵」や「子孫の利益」を振りかざすもので、盟友であった役人たちや窮乏する領民との間に相容れない決定的な意識のズレがあったことを、丹念に解き明かした。佐久間象山の人物像に、新たな一側面を加えることになったといえよう。

 第四章「苦悩する大名−第九代藩主真田幸教の政治構想−」(佐藤宏之)は、いわゆる仮養子一件という内部抗争を招いた幕末の藩主真田幸教について、その訓戒・著作等を通して政治的心得や藩政構想を探り、それらが御家の存続という課題意識にもとづいていたと指摘する。病弱な幸教は、一貫して持っていたそうした思想にもとづき、直接藩政を指揮できる人物を求めて、養子幸民(伊予宇和島藩主伊達宗城長男)に藩主の座を譲ったという。前論文集中の論文「大名家を継ぐ−松代藩の家中騒動と養子相続−」に引き続いて、藩主の「機関化(シンボル化)」を論じる領主研究である。

 これら第一編の諸論文に共通する成果は、松代藩主であり、家老・家中役人であり、彼ら「政策主体」個々の思想・信条や認識・考え方について、膨大な記録・日記を綿密に読み込んで、掘り下げて分析・考察を加えたことである。そして、それら思想・認識等が具体的な松代藩の政策および藩政の場面場面でどのような作用をおよぼしたのか検討し、改革政治の機微を描き出した点であろう。これは第二編の諸論文も同じく具備している点であるが、これまで一辺倒であった松代藩の後期藩政改革に対する評価や人物像について、改めて見直している点を評価したい。

 第五章「近世後期における松代八田家と松代藩財政」(望月良親)では、城下町商人である八田嘉右衛門家の藩財政への関与と、それを支えた御用商人独特の意識を分析している。八田家は幕末松代藩の専売制で糸売買の取りまとめ役を勤めたことから、すでに先行研究で取り上げられている御用商人である。専売制に先だって、同家が文政期、幸貫の改革政治の中で神社再興策に深く関わってから、藩財政の立て直しを任されることになった点を明らかにした。飯山藩の無尽への参加や岩村田藩への貸し付け金回収は計画通りに進まなかったが、それでも藩との結びつきを堅持する姿勢が顕著であった。藩と城下町資本との持ちつ持たれつの間柄が、商人の思想にも明確に表れているという。

 同様に松代藩財政を扱ったのが、第六章「松代真田家の大坂交易と御用場」(荒武賢一朗)である。研究史上、藩専売のモデルケースとして扱われてきた松代藩の国産専売制を見直し、あわせて大坂に蔵屋敷を持たない松代藩が設けた御用場の歴史的性格を問うている。大坂の金融資本との提携および拠点づくりを目指した松代藩の動向が克明に描き出された。また、安政期における藩側の積極的な売り込みは失敗に帰したが、結果的にその積極性が大坂資本との信頼関係構築に寄与したという。国許と江戸屋敷のみならず、大坂の金融世界との関わりに目を向けるという手法は、近年の藩研究で重視されている視角の一つである。大名・旗本の財政に関係する金融・物流回路の議論を敷衍化する上で、今後も事例研究を増やしていかなければならない課題であろう。

 以下の二章は、訴訟沙汰をめぐる領民間や藩側との関係を扱っており、設定課題は前論文集のテーマの延長線上にある。

 第七章「中条唯七郎と森村『無尽一件』−村中一和はいかに実現されるか−」(柄木田文明)は、藩主導の難渋人救済システム(無尽)をめぐる村方騒動を題材にして、村内に多様に、かつ重層的に存在する集団・グループを克明に描き出した。それら多種・多様な対立関係を収め、村の平和を導き出したのは、一つには藩の原則=武威であり、もう一つは産土神の神威であったという。藩が任命した頭立や村役人といった村の有力者の調停(内済)が十分に機能しないほど、村の政治的世界は変質していたと理解する。

 第八章「近世後期、土堤普請争論にみる藩・藩関係と法意識」(野尻泰弘)では、千曲川の土堤普請をめぐる松代藩領村と須坂藩領村との間の水論を題材に、藩−藩関係を論じるとともに、内済をめぐる藩−領民関係を分析した。幕府を間に挟んだ隣合う藩権力の力関係の事例分析は、北信という国許レベル、すなわち地域社会の個性を明らかにしようとしている点で、この共同研究内では新しい分析視角である。消極的ながら内済の早期実現を図ろうとする幕藩権力に対して、民衆は内済の拒否や逃散・直訴といった自己主張を展開した。ただし、そうした藩−藩、藩−領民間の緊張関係だけでなく、「暗黙的協同関係」の枠組みは社会的基底部分に存在したと位置づけている。

 さて、同じく「藩世界」論を意識して相模小田原藩について研究を試みた経験から、「政策主体と藩政」をテーマとして掲げた本論文集についてコメントしてみたい。

 まず、松代藩の財政策の個性と、その個性を生み出す背景は何なのだろうか。それは、藩主や家中・役人の思想・考え方だけに由来するものではないはずである。前・中期における松代藩財政策をもう一度見直し、窮乏する財政のあり様や対策の失敗要因を客観的に分析してみてはどうだろうか。その要因は幕藩体制の構造矛盾であるのか、松代藩・北信地域独自の経済・社会問題・甚大災害によるものなのか、あるいは改革担当家中・役人の資質に帰せるものなのか。どのように改善がはかられ、はたまた手を付けられずに、後期・幕末の諸改革につながっていくのか。その過程こそが個性を浮き彫りにしてくれるに違いないと思う。

 そして窮乏財政への対策として、なぜ安易に頼母子・無尽等の資金調達に頼るのか。幕藩領主による濡れ手で粟の殿様講は本来禁止されていたはずである。それなのに、どの大名も旗本も、商人・金融資本に癒着した資金調達法をやめようとしない。そして大多数が焦げ付き失敗する。そうした幕藩領主の体質をどうみるのか。現代の自治体にも通じる、莫大な借金があっても潰れない幕藩領主権力の本質を松代藩の財政策から解き明かしてほしいところである。

 たとえば今回、担保たる上方領地を持たない松代藩が、城下町御用商人を踏み台に、専売商品を餌にして大坂の巨大商人資本にすり寄る姿が判明した。大坂に拠点(蔵屋敷)を持つことが藩財政に果たすプラス側面は、商品作物生産をはじめ生産力豊かな領地からの年貢収入そのものにあるのではない。上方領の年貢米を担保に、大坂の巨大両替商資本と結びつくことであろう。小田原藩も、藩主大久保忠真が大坂城代・京都所司代を歴任する過程で、上方に役知領を拝領したことをきっかけに彼らと結びついていく(馬場弘臣氏の研究を参照)。上方領地を持たない松代藩が担保としたのは専売商品であり、その大坂商人資本との関係構築にむけての模索過程に松代藩の個性を読み取ることできる。

 もう一点、松代藩真田家は外様大名であるのか、譜代大名なのか、その追究へのこだわりを強くもってほしい。単なる大名領主の類別ではなく、近世の権力論を展開するうえで欠かせない点である。

 すでに高野信治氏が問題提起している点であるが、そもそも大名領・藩とは何かを考える際に、二つの基本となる性格に則して個別藩の歴史的展開過程を解析するべきであろう。すなわち個別領有権を表現する「藩国」と幕府を輔翼する「藩輔」の二側面である。これまでの外様大藩を事例とする藩研究で、前者を意味する藩の権力システムや領国統治構造が明らかにされてきた。しかし、基本的に首脳陣として幕府政治に参加しない外様大名の分析では、後者の側面への追究は当然少ない。譜代大名や家門大名の研究でこそ明らかにできる部分である。そうした視点から松代藩真田家を見た場合、その微妙な政治的立場こそが幕藩領主権力の本質を照らし出してくれるはずである。

 たとえば、今回明らかにされた松代藩の「政策主体」の思想・意識は、どれもきわめて外様大名的である。いかに良好に治国できるか、家中・領民に向かってあるべき「政策主体」像が提示されている。家老の人員配置を見ても国許の方に重点が置かれている。藩主の「機関化」にしても同様である。譜代・家門大名や旗本領主、およびその家中には、もとより「機関化」に抗う性格があったような気がしてならない。

 一〇万石を越える幕閣大名(小田原藩稲葉氏・大久保氏)の場合、資質ある藩主は入閣し、連帯・連携して幕府政治の舵取りに専念する。そのため彼らは将軍の「御為」が第一であり、公儀権力を下支えする意識が強く、それを自負している。家老をはじめ役方家臣は比較的江戸詰めが多く、逆に藩主が留守がちな国許の行政は担当家中でつつがなく執り行うことが目指され、時としてその治国・藩政は他藩の見本・手本となることが意識された。であるからこそ、家中には忠臣であることよりも、内部対立・分裂が一番忌避された。そうした要素は、平時における幕閣大名の軍役にも現れてくるのであり、ペリー再来航以前の海防にしても然りである。

 はたして、海防掛老中となり国政参加していく真田幸貫、および家中にそうした意識があったのだろうか。続く真田幸教・幸民には見られるのだろうか。時期が異なるので一概には比較できないが、安政六年(一八五九)、跡取りのないまま藩主が死去した小田原藩大久保家では、高松藩松平家より養子忠礼を迎える。大久保家の血筋は忠礼の妻となる女性によって保たれる予定であったが、当時の高松藩松平家は水戸藩分家でありながら、井伊家と閨閥をなす保守(南紀派)陣営にあった。それまで高松藩松平家と何の縁故もない譜代大名大久保家は、徹頭徹尾泥臭く幕府を支える側を選んだのである。戊辰戦争に際しても、箱根戦争で大久保家は、勤王に決定していた藩論を佐幕に戻し、遊撃隊に加勢してしまうのである。そうした藩主・家中の逡巡がまた譜代大名らしい。してみると真田幸教の勤王思想はどこから出てきたのであろうか、その点が知りたい。

 以上、藩財政策と領主論に関する二点を私見として付け加え、書評と紹介に代えさせていただき、次の論文集を待望することにしたい。


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