吉川祐子氏監修『白幡ミヨシの遠野がたり』(CD-ROM版)
評者・橋本章彦 掲載誌・宗教民俗研究10(2000.9)

 遠野の語り部である白幡ミヨシさんに関わる本としては、すでに二冊が刊行ざれている。『白幡ミヨシの遠野がたり』(同名)と『遠野物語は生きている』がそれで、いずれも今回と同じく吉川祐子氏の編集にかかり、岩田書院から出版されているものである。ここに取り上げるCD-ROM版の『白幡ミヨシの遠野がたり』は、これらの二著より選ばれた幾つかの話を、実際に白幡ミヨシさん自身の"語り"として録音記録したものである。したがって、前二著を手にしつつ聞くことができれば、遠野語りの世界をより充実した形で体験できて効果的である。
 収緑話は、次の通り。おしら様、鬼の子小次郎、馬放しに行かされた童子の話、猿と蟹、一寸法師、*鼠の相撲取り、瓜こ姫こ、極楽見てきた婆様、耳帽子、笠売り爺様、蛇にだまされた娘、*鼠の嫁入り、ねずみの千匹、サムトの婆様、下女を流した話、座敷童子、河童の恩返し、山男の話、鉄砲撃ちとオリワ、まよいが、*あく太郎、置き針置きの話、*早瀬河原の親子石、シラッハタケにカブ撒いた馬。
 文中*のあるものは前二著にはなく、今回新しく収録されたものである。この全二四話が昔話篇と世間話篇に分けられて二枚のCD-ROMに収められている。時間にしてゆうに一四○分を越える。録音は、平成十年十二月に白幡家で行われており、録音状態は極めて良好である。
 吉川氏の解説によれば、白播ミヨシさんは遠野市土淵字野崎出身で、明治四三年六月二十日生まれである。収録時八八歳であったことになる。柳田国男が『遠野物語』によって遠野を世に知らしめたのが明治四三年六月のことであり、また佐々木喜善もミヨシさんと同じ土淵村出身であることを思えば、今また現代の方法によって遠野が記録され人々に知られるところとなるのは感慨深い。
 ミヨシ媼の話は、すべて明治六年生まれの父万徳から山仕事のついでに聞かされたもので、その数は百を超えるという。ミヨシ媼は、柳田国男が簡潔な文体で記した遠野の物語を、「当時の香をただよわせながら語ることができる、遠野の民俗的な語り手の最後の一人」と言ってもよい人である。その点からすれば、勿論、今回のCD-ROM出版の文化的意義はとても大きいと言わなければならない。だが、この出版の意義はそれだけにとどまってはいない。
 ミヨシさんの語りは、極めて美しいのである。それは音楽的であると言ってもよい。有能な語り部の"語り"は美しいものであることをこのCD-ROMは教えてくれる。そして、それは現代日本人の多くが失ってしまった、いやなくしたことさえ忘れている何かと確実にリンクし、それを思い起こさせてくれることになる。"語り"が如何に大きな力を持っているかにあらためて気づかされるのである。
 過去、数多の人間精神の努力によって、膨大な民間伝承が記録・蓄積されている。しかしそれらは、語りの場から詞書のみを切り取ったものであり、いわば"語り"におけるコンテキストを全くと言ってよいほど捨象してしまっている。民俗学者の責務の一つに、民俗誌を作成することがあるとするならば、"語り"のすべてをでき得る限り正確に写し取ることが、理想としては想定されねばならないであろう。さいわい今日のエレクトロニクスの水準は、我々をしてその理想に接近させることをすでに容易にしつつある。その成果の一つがこのCD-ROM版『白幡ミヨシの遠野がたり』であろうが、今後も映像技術なども含めて現代エレクトロニクスを十二分に駆使した民俗誌の作成が、より一般化されていくことになるに違いない。そうして、我々は、従来容易ではなかった"フォークロアの力"をも、決して完全とは言えないが、伝達・記録することが可能となるのである。フォークロアの記録・伝達は、エレクトロニクスの発達によって確実に地平を広げていると言えよう。
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