川勝守生著『近世日本石灰史料研究T』

評者:福澤 徹三
「関東近世史研究」66(2009.7)

 本書(以下、史料集とする)は、著者が『近世日本における石灰の生産流通構造』(山川出版社、二〇〇七年。以下、論文集とする)を執筆するにあたって、「論文の出発点」となった故木崎義平氏所蔵文書の一部を翻刻したものである。著者は、二〇〇六年五月一七日に急逝されている。この史料集は、「先祖から伝えてきた貴重な地域文書を歴史史料として学界に提供したい」との父・守氏の志によって、世に送り出されたものである。解題によると、編集作業は守氏によって進められたが、守生氏の遺された史料カードや各種メモが中心となっているとのことである。

 木崎義平家は、武州多摩郡北小曾木村(1)正沢(現東京都青梅市)にある。八王子石灰(2)竈主の一人として、天正年間以来の由緒を誇っている。石灰とは、石灰岩を原料とした水酸化カルシウムと炭酸カルシウムの混合物であり、漆喰材料・媒染剤・肥料等として消費された。石灰岩を砕いて採取し、木で組み上げた竈に入れ、水掛、五日間の焼、煉の生産工程を経て完成となる。製品となった石灰は「小屋」に運ばれ、俵詰めが行われた。石灰生産は基本的に運上・御用石灰の生産を目的として行われ、慶長一一年(一六〇六)の江戸城普請に御用石灰を供給したのが、史料上確認できる最初である。江戸の市中流通部分は「御用下灰」として幕府需要の余剰分のみが許されるとの原則であった。近世当初は、江戸市中販売はほぼ八王子石灰の独占状態にあったが、享保年間には牡蠣や蛤といった貝類を原料とする蛎殻灰、延享年間には野州石灰など、諸産地の売込みと江戸市場への参入が行われる。このような競争の結果、八王子石灰の竈数は、享保一二年(一七二七)二一竈、延享三年(一七四六)一四竃、寛政五年(一七九三)八竈、慶応四年(一八六八)一〇竃と大局的には減少していく、というのが見取り図である。

 木崎義平家文書は、かつて目録作成が行われ、A 冊子文書類、B 単独文書類、C 経営帳簿類の三種に大別された。この史料集ではそのうち、A 冊子文書類を全文翻刻、訓読し、史料価値の策定などを行ったものである。これらは全部で二八冊分ある。内容は、翻刻釈文、読み下し、語句説明、史料研究から構成されている。また、各冊子は個別文書に分解区別され、鑑札焼印や問屋株鑑札雛形まで図示されている。近世史研究者が流通や村落に関する論文を書く場合、その量の多さから、その論拠すべてを活字史料の形で他の研究者と共有することは、極めて稀である。この史料集によって、後に続く研究者は、@守生氏の論拠を確認し、論文集では捨象されざるを得なかった、さらに豊かな史料的根拠を味読することができ、A守生氏の展開した議論とは異なる論拠を発見し、批判的検討を行うことができる。

 では、史料集を一読して気づいた点と、論文集の内容を関わらせて、川勝氏(以下、すべて守生氏を表す)の所論について言及したい。

 まず、【1】(享保一二年)の「萩原源八郎御代官所」との文言であるが、これは、『寛政重修諸家譜』では「荻原」となっている(荻原源八郎重秀)(3)。荻原源八郎については、これまで発行されている他の史料集でも「萩原」としている例が見られるので、ここで指摘しておきたい。

 次に【17の2】(寛政六年)の請証文の宛先は、「大貫治(次)右衛門様御役所」で、同年同月作成の【17の3】では、差出人が「八王子石灰竃主伊奈友之助御代官処(所)武州多摩郡上成木村文右衛門(以下略)」となっている。論文集では「(石灰)問屋年番がまず問屋仲間の寄合により決定された後、勘定奉行・代官・作事方等の関係する役所へ報告」するとして、「八王子石灰ならば三ヵ村は代官支配地であるから、代官大貫次右衛門宛であることに不思議は無い」が他の支配領主の産地も「代官大貫を通していることが注目される」としている(論文集一六六頁、以下同じ)。この典拠史料は文化四年(一八〇七)作成であるが、依然として三ヵ村は伊奈友之助代官所支配であることから【25の1】、大貫代官は石灰関係のみを担当し、伊奈代官は「一般の」村方支配を担当しているのであろう。この点について、語句解釈が欲しかった。文政一一年(一八二八)に上成木村は二一〇〇石知行の旗本中山大助に支配替えとなり、これ以降御用金に苦しめられることになる。この時、石灰関係は、引き続き幕府代官所の所管となり、つつがなく執り行われた。大貫代官と伊奈代官との関係は、旗本への領知替えの前提として重要であった。そして、支配替えによって上成木村は他の産地と変わらない立場となったのである。

 【11】(安永三年〈一七七四〉)では、「石灰俵拵之義、多摩郡・高麗郡之義ハ、山中ニ而田畑一向無御座、畑計故、古来より石灰麦藁俵ニ入来候」とある。一方論文集では、『新編武蔵風土記稿』の文化・文政期の記述をもとに、三ヵ村は里方と山方の中継機能を有する飯能村・青梅村に近く、石灰生産に必要な俵・縄は田が無い三ヵ村では自給不可能なので、或いはこの飯能村の縄市で調達されていたかもしれない、としている(5)(二七四頁)。安永期の麦藁俵が約五〇年を経て米藁俵に変わったのか、それとも文化・文政期においても実際は麦藁俵を用いていたのか、興味深いところである。なお、ここで北小曾木村・上成木村に田はないとしているが、上成木村下分には、七町一反余の田が大蔵野組と八子谷組(著者のいう小字)に広がっている(6)。この地域で米がとれなかったという記述は、正しくない。

 【24】(享和三年〈一八〇三〉)の証拠地一札は、北小曾木村名主曽兵衛が江戸の蛎殻灰竃持=金主へ、自身の所持地を石灰仕入金の借用に際して書き上げたものである。滞金の場合は「右証拠地面を以、貴殿方江質地ニ相渡候与も、又ハ外々江質地ニ差入、金子ニ而返済い多し候与も、貴殿方勝手次第取計」としたものである。語句説明と解題では、猪鹿が多く霧深いため「家居廻リ之外ハ作仕付不相成、畑名請八分通リハ山林木立」という部分を、実質は山林であると字句通りに解釈し、担保価値はほとんどないとしているようであるが、この点はどうであろうか。確かに、江戸の金主がこの証拠地を実際に所持することや転売することは難しく、金銭的価値はほとんどなかっただろう。しかし、明治二一年(一八八八)の史料では、北小曾木村では大麦一五七余石、小麦三六余石などを一九町七反余の畑地から生産している(7)。それに、これらの地域では猪・鹿の打ち払いのため村から拝借鉄炮の願書が出されている。享和三年時点でも北木曾木村の百姓たちは、決して良好とはいえない条件のもとでも一所懸命に畑を耕していたのではないだろうか。耕作地としての価値は、村人にとってはあったはずである。

 著者の仕事は、石灰の生産流通構造を、その生産過程と消費過程まで組み込んで明らかにした点で大変魅力的である。だが、村の状況やその景観、組ごとの性格の相違など、村の内部構造について明らかにすべき点が多く残されている。本稿は論文集の書評ではないので、この点は指摘だけに留めるが、あえてこのように述べるのは、村の構造を正確に押さえることで、農村と都市を流通構造という軸の両端として分析し、生産から需要・消費までを解明する可能性を、氏の仕事は見せてくれていると思ったからである。「都市における新たな流通構造の確立が直接在方に転写されるという構図」(二二八頁)という部分に端的に示されるように、都市から農村を見る視点が貫かれている(もしくは基本的である)が、石灰の生産構造は村の組に強く規定され、「元治元年段階の八王子石灰にとって、江戸市場ではなく在方市場こそが問題であった」(四一四頁)とあるように、一九世紀は在方市場の形成期でもあった。このように、都市から農村を見る視点だけでは、解けない問題が多く存在している。川勝氏と同様に林玲子氏を批判対象としたものに、渡辺尚志氏の「関東における豪農層の江戸進出」(8)の仕事がある。農村と都市の両方に軸足を置きながら経営活動を行うという点からいえば、石灰竃主もそのような側面を色濃く持っている。豪農が都市に進出するのか、都市の社会構造が在地社会にコピーされるのか、という大きな問題を考えるためには、生産構造を支える村の状況・構造を組み込んで分析を進めていく必要がある。関東近世史研究に即して言えば、豪農・村落共同体と商品の生産流通構造・都市での需要構造について分析を積み重ね、「江戸地廻り経済圏」の実態を豊かにしていくという大きな課題を、川勝氏の仕事は投げかけていて、その重要な先駆けをなしているのではないだろうか。

 以上、一つの体系を待った論文集の根拠となる史料群の、現時点では一部分を翻刻した史料集の書評という性格から、細かい指摘に留まってしまった感もあるが、論文集についても若干私見を述べた。このような魅力的な労作を贈ってくれた、川勝守生氏に深い感謝と心からのご冥福をお祈りしたい。また、大きな悲しみのなかで、史料集の刊行にご尽力くださった、川勝守氏と関係者の方々にも、同じ感謝を表させていただきたい。

(1)「小曾木」は、管見の限り小曽木が用いられていることが多いが、現在青梅市では「小曾木」を用いることに統一しているので、こちらを用いることにする。
(2)北小曾木村、同郡上成木村、同州高麗郡上直竹村で生産された石灰の意。
(3)『新訂 寛政重修諸家譜』第一〇(続群書類従完成会、一九六五年)一四三頁。
(4)例えば、青梅市史史料集第二十二号『皇国地誌・西多摩郡村誌(三)』(青梅市教育委員会、一九七七年)の北小曾木村誌でも釈文の「荻原源八郎」の「荻」に「ママ」とルビがある。同第五四号『谷合氏見聞録』(二〇〇八年)では「萩原」となっている。
(5)青梅村との間の吹上峠に隧道が開通するまで、どちらかといえば飯能村との関係が北小曾木村、上成木村は強かった。拙稿「吹上隧道開通運動と川口昌蔵−積極主義下の地域状況と名望家の要件−」(渡辺尚志編著『近代移行期の名望家と地域・国家』名著出版、二〇〇六年)。
(6)前註(4)『皇国地誌・西多摩郡村誌(三)』の上成木村下分村誌。
(7)青梅市史史料集第四十八号『都下村落行政の成立と展開』(青梅市教育委員会刊、一九九八年)六五頁。
(8)『近世の豪農と村落共同体』(東京大学出版会、一九九四年)第二〜四章。


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