植木行宣監修 鹿谷勲・長谷川嘉和・樋口昭編
   『民俗文化財 保護行政の現場から』

評者:橋本 章
「京都民俗」26(2009.3)

   一、はじめに

 昨今、民俗文化財という現象に対して、様々な角度からの意見が寄せられている。平成四年に施行された通称「お祭り法」をめぐる議論や、そこに端を発した民俗文化財の「保存」と「活用」をめぐる議論などは、民俗学研究の分野でも主要な課題として位置付けられつつあり、それらに対する提言も近年は数多く為されている。それは、時代の招請にもよるのであろうが、それだけ「民俗」というものに対して、様々な立場の人々が思考を巡らせる機会が生まれているということなのであろう。いずれにしても、「民俗」という範疇に含まれる諸事象は、社会の中で少なからず注目を集めつつあるものと思われる。
 世に様々展開するその「民俗」という事態と向き合い、これを文化財として認識し、格闘する事を職務としてきた人々がいる。それが、都道府県あるいは市町村の現場で民俗文化財の担当者として、その職責を担ってきた方々である。

 本書『民俗文化財 保護行政の現場から』は、滋賀県教育委員会文化財保護課の民俗文化財担当者として長くその職にあった長谷川嘉和氏が、平成十九年三月をもって定年を迎えられたことを期して編纂されたものである。定年や退官などを契機とした記念論集では、その人物にゆかりの研究者達が各個で論文を執筆して、それを寄せるといった形式のものが比較的よく見受けられるのであるが、本書は、こうした記念論集にありがちな体裁をあえて取らず、むしろ、ある明確な意図をもって主体的かつ野心的に編まれた一冊であることが、最大の特徴となっている。その明確な意図とは、長谷川氏がその職務人生を賭けて取り組み続けてきた、民俗文化財行政そのものに対する提言をすることにある。

 本書の最後に掲載された樋口昭氏の「長谷川嘉和さんのふたつの顔−本書の刊行にさいして−」という文章には、「本書は、この期に長谷川さんの文化財担当者としての業績をたどりつつ、民俗文化財に関わる種々なテーマ・話題を取り上げて、文化財行政の展開を鳥瞰し、新たな展開を望むために企画された」(四二三頁)との一文が添えられ、また本書の冒頭に「編集者一同」からとして記載された「はじめに」の部分には、本書に収められた民俗文化財保護行政に携わる人々の論考から、「それぞれの事業や問題を、どう処理し、どう工夫をしたのか、どのような問題に行き当たったかなどを通じて、民俗文化財の調査・保存・公開などの現場の実態を広く知っていただき、そのうえでこの国民の生活にかかわる文化財を通して、どのような将来像を描けるか、広く議論の材料となることを期待している」(一〜二頁)と、本書の刊行された目的が高らかに宣言されている。

 本書に対しては、編集者の一人でもある長谷川氏自身が『民具マンスリー』四〇−一二(二〇〇八年三月)の中で「(民俗文化財担当者が)民俗調査や映像記録などを進めていくのに、少しでも参考になるものがあれば有効に働くのではないか、見本を示すことは出来ないか、そのようなことを以前から考えていた。これは、市町村や博物館の仕事にも共通することである。そこで、調査などを担当した人にその体験をまとめていただき、今後に役立てることが出来ないかというのが、一つの趣旨である。成功もあれば失敗に終わったこともある。同じ失敗を繰り返さないために、あとに続く人へ一読を勧めたい」との紹介記事を寄せている。本書には、長谷川氏をはじめとする民俗文化財行政に関わる人々のこれに対する情熱と、後進へ自分達の経験を伝えてゆきたいという想いとが、ふんだんに込められているのだ。

  二、野心的な構成

 本書は、「T.いまなぜ民俗文化財か」「U.民俗文化財の保護」「V.民俗文化財の記録」「W.民俗文化財保護のとりくみ」「X.世界無形文化遺産と民俗文化財」の五つの骨子のもと、三一名の執筆者によって論考が寄せられている。書評を書き進めるにあたって、まずその目次を示す。

はじめに  編集者一同
T いまなぜ民俗文化財か
 民俗文化財保護の基本理念について   大島 暁雄
   −特に、昭和50年文化財保護法改正を巡って−
 「文化立国」論の憂鬱−民俗学の視点から−   岩本 通弥
 文化財と民俗研究   植木 行宣
U 民俗文化財の保護
 重要無形民俗文化財(民俗芸能)の保護について   斉藤 裕嗣
   −「現状変更」との関わりから−
 民俗行事の伝承と変容   菊池 健策
 民俗行事の変容と伝承
           −「三上のずいき祭」の継承に向けて− 行俊 勉
 民俗芸能の調査と歴史資料−吉野水分神社の御田を事例として−
                                     池田   淳
 民具の収集と価値づけ   福岡 直子
 民具の保存と活用−触れて体験する展示の可能性−   藤井 裕之
 博物館・資料館における有形民俗文化財の位置   吉田 晶子
 第二次資料を導き出すための実測図と記録図化について  石野 律子
 民俗文化と回想法   岩崎 竹彦
V 民俗文化財の記録
 無形の民俗文化財の映像記録作成への提言   俵木 悟
 風流系踊りの記録保存について   長谷川嘉和
 民俗音楽の記録に関する諸問題   梁島 章子
 民謡の映像記録について   吉永 浩二
 民俗技術の映像による記録作成とその諸問題    伊藤 廣之
 文化行政における古写真の資料化の今後   村上 忠喜
 有形民俗文化財の映像記録作成−都道府県行政の関わり方−
                                     榎 美香
W 民俗文化財保護のとりくみ
 市区町村の民俗文化財と登録制度   関 孝夫
 民俗芸能緊急調査   福田 良彦
 祭り・行事調査−報告書の役割とは−   吉越 笑子
 調査データのその後
       −民謡緊急調査のデータを通じて考える−   樋口 昭
 民俗芸能大会について−奈良県の事例−   鹿谷 勲
 東京国立文化財研究所芸能部と民俗文化財行政   中村 茂子
 埼玉県立民俗文化財センターの事業について   飯塚 好
 自治体史編纂事業と民俗文化財
      −市史民俗編のあり方と自治体の役割−   鵜飼 均
 静岡県磐田市の見付天神裸祭と保存会   中山 正典
−国の重要無形民俗文化財に指定されて以後−
X 世界無形文化遺産と民俗文化財
 無形文化遺産に関するユネスコの取り組みを振り返って  佐藤 直子
 無形文化遺産の特性とその保護−日本の事例−   植木 行宣
 文化的景観と民俗学   原田 三壽
 パブリック・フォークロアと「地域伝統芸能」   八木 康幸
  *
 民俗文化財保護の仕事−ひとりぼっちの民俗担当−   長谷川嘉和
 長谷川嘉和さんのふたつの顔−本書の刊行にさいして−  樋口 昭
 長谷川嘉和さんの仕事(業績)

 本書に論考を寄せたのは、いずれも民俗文化財に関わる現場の第一線で働いてこられた方々ばかりである。巻末の執筆者一覧に示された肩書きを参照すると、執筆者三一名のうち、大学関係者が八名、国の組織およびその関係機関に所属されている方々が六名、都道府県の文化財担当者が六名、市区町村の文化財担当者などが四名、博物館関係者が六名、そして高校教諭が一名となっている。この陣容を見れば、おそらくは民俗文化財の保護行政に関係するあらゆる分野の方々が、本書の刊行に参画されたことがお分かりいただけるであろう。ここにもまた、監修の植木行宣氏ならびに長谷川氏ら編集者の明瞭なビジョンが見受けられる。

三、「意欲」へのアプローチ

 さて、本書を読み進める中で、まず気付かされるのは民俗文化財の保護行政をめぐる状況の困難さである。まず本書では、最初の項目として「いまなぜ民俗文化財か」という世に挑むような表題が掲げられ、大島暁雄氏による論考「民俗文化財保護の基本理念について−特に、昭和50年文化財保護法改正を巡って−」からその幕が上がる。

 大島氏は、その論の最初に「文化財の指定とは国による保護の対象を明示するための価値付けの作業にほかならないが、他方では当該文化財の保持者・伝承者が、当該文化財を保存・活用する上で必要とされる経費について、国が助成する根拠を与えるための必要な行為であり、文化財の保護の最も有効な手段を提供するための前提条件の整備である」(八頁)と述べて、文化財行政全般に対する国の立場を明快に示す。しかして、本論の主旨である民俗文化財の指定に関しては、「無形民俗文化財の指定とは、特定の伝承者集団による永続的保存を期待出来ると考えられる、民俗芸能及び風俗習慣のうちの一部のものについて限って行われる行為」(一二頁)と述べ、その一方で、「貴重な文化財の滅失を目のあたりにして、型だけの伝承にもそれなりの価値を認め、過去の実態を明らかにし得る可能性を少しでも担保しておきたいと思うのは、民俗文化財の保護に当たる関係者のみならず、民俗文化財の意義を理解するものにとっては等しく偽らざるところであり、筆者もまたその一員である。」(一三頁)と心境を吐露する。大島氏は「当面の保護すべき施策の対象とは文化財そのものではなく、伝承する地域の人々の意識であり、その根底は継続させようとする意欲の保護にあると考えるべきであろう。」(一六頁)として、無形の民俗文化財の保護の対象が人々の「意識」や「意欲」そのものにあると述べている。

 国と地方、そして条文と実際との間で戦い続けたであろう大島氏の言説には、言葉以上の重みを感じるのであるが、この冒頭の論考こそが、本書全体の性格を方向づけていると評者は読んだ。それは民俗文化財行政に関わる者全てが経験しているであろう苦悩に通じているものと思われる。

 本書の二段目である「民俗文化財の保護」では、実際に民俗文化財の保護行政に携わった方々からの、いわゆる現場の声が収録されている。まず、大島氏と立場を近しくするであろう斉藤裕嗣氏が、民俗文化財の「現状変更」に対して言をすすめ「民俗芸能の現状変更については、無形文化財と同様に、届け出や許可によることは適当ではなく、相応しくないと考えられる。つまり民俗芸能の現状自体が社会の変遷等に応じて変化するならば、そもそも現状を固定的にとらえることに無理があり、また現状固定が必ずしも本来の保存につながらないためである。」(五三〜五四頁)と述べ、その対応が極めて困難である事を指摘している。斉藤氏は、重要無形民俗文化財指定の妥当性に関する再認識は継続的に行われるべきであるとの考えを示しているが、最前線となる市区町村からの発言は、本書の中でも更に切実である。

 例えば行俊勉氏は、「三上のずいき祭」をめぐる保護行政に携わる中で「行政としては、指定であるから現状変更できないという理屈になろうが、これも昔の人が生み出した知恵や技術であり、ぜひとも従来どおり大切にし、続けてほしいとお願いした。」(六七頁)と、先に述べた大島氏の言説の如く、結局はその民俗文化財を伝承する地域の人々の意識に訴えかけるしかないことを生の声として記述している。これに関して池田淳氏は、吉野水分神社の御田を事例として論を展開し、「民俗芸能といえども、過去から現在に至るまでの幾多の時代の影響を受け、それぞれの地域の特性を反映した地域史の中で様々な変化・変遷を遂げて今日に至っている。その歴史性を無視しては、民俗芸能の本質を見誤ることになるとともに、その保護にあたっても指針を惑わせることになりかねない。」(八〇頁)として、民俗文化財保護行政の担当者には、保護の指針の確立のためには歴史資料を活用した精度の高い調査が必要である事を説いている。

 また関孝夫氏は、登録文化財制度の活用について言及し、「「優品」を選ぶのではなく、保存の必要性のある文化財すべてを登録し保護していく登録制度の活用は、ともするとそのまま埋もれたまま失われてしまう民俗文化財に光を当てることになるのではないだろうか。また、何よりのメリットは、市区町村の登録文化財として住民に認知されることである。登録文化財であることにより、周囲の見方は指定文化財と同じようにその重要性を意識していくことになる。」(二四五頁)と述べて、民俗文化財に携わる地元の人々の「意識」へのアプローチの方途を示している。これについては長谷川氏も、「祭りそのものに直接関わる経費の補助は、かえって保存会などの保護団体の足腰を弱体化する。」(四一七頁)として、高額な修理費に対する補助を無形についても対象とし、一方で祭礼そのものへの経費などは、祭りを支えている人の負担とするのが、地元の意識の高揚にはよいのではなかろうかとの見解を本書で述べている。

 こうした言説は、形なきものである無形民俗文化財の保護行政に携わる方々の、普段の並々ならぬ苦労の一端を垣間見させると共に、その作業の過程でそれぞれが編み出された、地元の人々の民俗等に対する「意識」や「意欲」にいかに訴えかけていくかという課題への、一定の示唆を与えてくれる内容となっている。

四、「保存」と「活用」のはざまで

 さて、本書のもう一つの特徴として、民俗文化財としての民具の保存に関する論考が多く掲載されていることが挙げられる。その発言者は主に博物館担当者と大学関係者からのものであるが、そこには、近年とみに注目を集めつつある民具へのアプローチの方法に対する、大変前向きな提言がなされている。

 民具資料の収集と保存、そして文化財としての意識づけについては、まず、複数存在する類似資料の峻別ということが問題点として挙がってくる。これは、収集した民具を保管するスペースの確保といった問題とも絡んでくるのであるが、これに対して福岡直子氏は、「同一資料の収集には積極的にはなれないという場合がある。しかし、同一種類の資料が多く収集されるということは、それだけその資料が地域内に多く所在しており、多くの人たちが生活のなかで使用してきたという意味を持つ。」(八六〜八九頁)として、「民具を、資料として見る視点を持つということは他の博物館資料に比べて薄い。他の資料や個々の民具を比較して優劣とか価値の有無を決めるということではなく、その民具のどこに価値を見出すことができるかということが重要なのではないかと思う。」(九三頁)と述べる。また、藤井裕之氏は、収集された民具の保管場所の問題にも触れつつ「収蔵庫不足が問題になる場合、必ず収集計画や処分の可能性が議論される。多くの民具を保存してゆく必要を理解させるためには、民具の文化財としての価値を説明するだけでなく、目に見える形での活用も必要となる。」(一〇二頁)として、民具資料をただ収蔵庫に保管するのではなく、積極的に活用することでその文化財としての評価を高め、人々に広く保存の価値を訴えるべきであるとの見解を述べている。

 これに関しては吉田晶子氏が、「民俗資料の活用は、資料と人、人と人との交流を生み、文化的な社会の形成へと発展することが期待できる。民俗資料担当の学芸員には、資料を選別する高い専門能力とともに、このような交流を補助するコミュニケーション能力も求められる。」(一一六頁)とし、また石野律子氏は実測図の作成と記録のデータ化を図ることで、より広範な民具資料の活用が促進されるものと、その将来性に期待を寄せている。

 民俗文化財の保存と活用という点においては、民具資料のそれは学校現場や福祉の現場などで比較的推進されている分野であろうと思われる。しかしながら、そうした事業の展開は、本書に論考を寄せた、博物館などの民俗資料担当者の知恵と行動力に依存する部分が多いのではないだろうか。藤井氏は、民具が学校現場などで活用される際の様相を例にとり「時代設定は曽祖父母・祖父母のころのくらしという漠然としたものである。民具の使用は地域差があるため使用年代も一律ではないと思うが、このようなあいまいな時代設定では、毎年確実に対象年は新しくなっていく。」(一〇一頁)として、教科書や教員のスタンスが一過性のものであることへの危惧を述べる。このことは本書の中で岩崎竹彦氏が触れる「回想法」についての場合にもあてはまるのであるが、こうした民具資料のより良い活用の実現に向けては、現場担当者のさらなる奮起が必要とされると共に、学識者によるこれらをめぐる補助的な言説などのバックアップと、民具資料に対する周辺の理解の深化が待望される。

 ところで、本書に寄せられた論考おいて、執筆者それぞれの立場の違いなどから、最も意見の分かれた言説が展開されているのが、この民俗文化財の「活用」をめぐる議論である。もちろん、本書はその性格上取り扱う対象が執筆者によって異なり、必ずしも一律には図れないのではあるが、本書はその差異をあえて併載することで、この問題への対応の難しさを示している。

 本書の中で大島氏は「文化財保護法にいう「保護」とは「保存」と「活用」である。」(一八頁)と述べるが、この「活用」という文言をめぐっては岩本通弥氏が「活用の方ばかりが強調された今次の「文化」政策は、地域の活性化を志向しながらも、都市住民の「観光」に共するだけで、観光でしか耐えられない地域を生み出してしまわないか。議論の根本には、いったい誰のための活用なのか、安易な施策の結び付けではなく、議を尽くした「文化」政策が望まれる。」(二八頁)と苦言を呈する。パブリック・フォークロアと地域伝統芸能の観点から本書の中で論を展開した八木康幸氏も「民俗芸能と地域の観光宣伝が極端なまでに一体化され、商工観光行政による民俗文化の操作がますます直接的なものとなっている」(三九九頁)と危惧を述べている。

 事実、まちづくりや観光振興などの名のもとに、祭礼行事や民俗芸能などが積極的に「活用」されようとしているのが現状ではある。しかし、民俗文化財行政の担当者が決してそれを推進してきた訳ではないと評者は考える。植木行宣氏は「どうやら伝統的な生活文化、各種の伝統的な芸能・技術をひっくるめて「地域の伝統文化」と呼びたいようです。そうして最後は、そうした伝統文化を活かした地域づくりの推進が強調されるのです。正直、これはどういうことかと思います。文化財保護法という法律があり、長期的展望のもとにその法ののぞましい在り方を検討するところで、自ら定義する文化財の名称がなぜ使われないのか。曖昧な用語をあえて使うのは何故か。私の印象では、民俗という用語の使用をどうも避けた気配があります。ひがみかも知れませんが、それは「活用」という文脈に呼応しているように感じるのです。」(三四頁)と述べ、民俗芸能を例にとって、これが新しい地域文化創成の母体となることは評価する必要があるとしつつも、「活用の名目で行われる安易な改変は、その変容をもたらし、破壊のきっかけとなる恐れを秘めていることをしっかり認識する必要があります。」(四四頁)との見解を示している。

 評者は、民俗文化財行政の担い手達こそが、安易な「活用」の流れに対抗し、真の意味での文化財保護を成し遂げようと努力してきたのであると考えている。本書に収められた数々の現場の経験知は、そのことを非常に奥ゆかしくではあるが我々に示してくれていると思う。

五、おわりに

 そして、本書には今後の民俗文化財行政推進の賛助となる知識と経験とが数多く織り込まれている。殊に民俗資料の映像記録作成に関する論考は大変具体的な内容となっている。俵木悟氏の「何のために記録を作成するのかという目的を明確にしておくこと」(一四八頁)「作成された記録がどのように、どれだけ活用されたかという実績が重要」(一五八頁)という言葉は、一見当たり前のようで、その実事業の完遂にばかり目を奪われがちな現場担当者に対する最良の戒めであるし、長谷川氏の「(映像記録の作成は)国庫補助を受けて事業を行っているため、原則的には、予算内示がないと事業に着手できず、国会が紛糾するなどして延長されると内示は5月の連休がすんでからということも少なくない。そうすると、祭りは内示前に終わってしまうことになるのである。」(一七五頁)という経験談は、その現場に直面した者にしか解り得ない苦労話である。また榎美香氏の「県行政は発案と、事務書類のチェックや取次ぎ、そして、オブザーバーとして時折口をはさむというような気楽な立場で関わらせていただいた。信頼できる人々の中では、都道府県行政は段取りするまでが仕事、でよろしいかと思う。」(二三三頁)という言説も、国と都道府県と市町村という関係性の中での各個のスタンスを考える上で興味深い。

 また、本書には、近年巷間を賑わす世界文化遺産への取り組みについても言及している。植木行宣氏は「いま無形の文化遺産の重要性が世界的関心を集め、その保護をはかる論議がたかまっているのは、発展途上国における猛烈な近代化の動きのなかで、かつて先進国が近代化とともに振り捨ててきたように、無形の文化遺産が克服すべき過去として廃絶においやられることへの危惧が無視できないからであろう。」(三七〇頁)と述べて、世界文化遺産をめぐる言説が、日本で展開されてきた文化財に対する議論とはその様相を異にするものであることを示している。また、佐藤直子氏は「世界遺産委員会が、文化財の価値評価や、保護システムについて、世界的に影響力のある基準を作り上げてしまったのも事実である。その輝かしい成功の影響の下に、日本の多くの人々は、日本の文化財が世界遺産に登録されていくことを願うようになった。ここにおいて、世界遺産条約の示す基準を軽視することは既に不可能になってしまい、日本における文化財保護のあり方もその基準と共存せざるをえなくなっている現状である。」(三五七頁)と、今後日本の文化財行政が世界基準の波により強く曝されるであろうことを予見している。こうした点も、我々はこれから見据えてゆかねばならない課題であろう。

 この他にも、数々の興味深い論考が本書には収められている。その全てには触れることができず、また評者の能力不足から十分な紹介ができなかったことをおわびしたい。
 本書には、執筆者による真摯な見解が随所に記されており、中には大変刺激的な言説も多い。例えば、編集者の一人である樋口昭氏は「文化・文化財という用語は、得体の知れないタームであるとつねづね思う。人の営みすべてが、文化とよばれる現象であるとすれば、文化財は、この人の営みをある時点で固定して、それに評価をあたえてしまったモノや行為をいうことになるのではないか。困ることは、「財」が付くと、そこに価値評価が加えられ、ランクづけがなされてしまうのである。この「財」は本来、文化と称される営みには不要であったに違いない(中略)失われるモノは、失われるべき要因があって消滅してきたのであり、変化するモノは、やはり変化する必然性を持っているのである。」(二七一頁)との見解を示す。この根源的な問いかけの言葉に対して、長谷川氏は、次のような言葉を重ねている。

 「民俗文化財は、有形も無形も変化消滅しても誰も文句をいわないし、遺跡保存のような運動も起こらない。声もなく、いつの間にか誰にも気づかれることなく消えていくだけである。行政がちょっと手をさしのべれば、うまく誘導すれば、いい形で保存できるものを無策から台無しにする。全国都道府県にたとえ1人ずつでも民俗学の専門家が文化財担当に就任すれば、我が国の民俗文化財行政は飛躍的に推進されるであろう。」(四二〇頁)

 本書の中では、鵜飼均も同様に「成否は「人」の力によるということである。」(三一〇頁)と述べているが、こうした言葉は、長谷川氏をはじめとする民俗文化財行政の担当者の方々が、艱難辛苦の中を戦い抜いてこられた証でもあるのだろう。後進に向けた最高のはなむけとして、本書は多くの民俗学徒に読んでいただきたい一冊である。


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