垣内和孝著『郡と集落の古代地域史』

評者:古谷紋子
「地方史研究」340(2009.8)

 本書は、著者が居住する福島県郡山市を中心に、福島県域の古代地域史像の復元を目指した書物である。

 第T部「郡と古代豪族」は、古代の行政区画の一つである郡に関わる諸問題と、地域の豪族を描き出したものである。
 第一章「古代安積郡の成立」では、阿尺国造の実在を肯定したうえで阿尺国造のクニ=安積郡とし、安積郡衙と古墳の位置関係から、郡(評)の建設が有力豪族の本拠地ではないゆえの中央集権的性格を読み取る。付論1「陸奥国安積郡と阿倍安積臣」では、同時期に国造系と傍系の豪族勢力が併存した様相を論証し、付論2「石城・石背両国の成立と廃止」では、両国の廃置について神亀元(七二四)年説に賛同し、初期陸奥国の国府が安積郡に存在した可能性を指摘する。
 第二章「陸奥国磐瀬郡の古代豪族」では、陸奥磐瀬臣賜与の吉弥侯部豊野を石背国造の後裔と推断し、同族と捉えられてきた磐瀬朝臣とは別系統の豪族であり、複数勢力が併存したことを述べる。
 第三章「陸奥国磐瀬郡司の系譜」では、郡内に於保磐城臣、丈部、阿倍磐城臣といった系統の豪族が存在し、複数の有力豪族が輪番で郡司職を勤めた可能性を指摘する。
 第四章「会津四郡の成立」では、会津藩が決めた「会津四郡」といった広域呼称は、通常では会津郡という具体的名称を含まないことに注目し、古代の会津四郡は承徳元(一〇九七)年までに大沼・河沼・耶麻郡と蜷川荘に分割され、名称も会津から河沼郡に変更された。その理由は、蜷川荘分出の時点で会津郡の実質が備わっていなかったからとする。

 第U部「集落の政治性」は、古代の集落遺跡について検討を加えたものである。
 第五章「古代集落の消長と構造」では、福島県郡山市域の古代集落の移動について、「ムラの移動」として把握される集落の消長が政治的な変動を反映した可能性が高いとし、掘立柱建物の出現(七世紀後半〜八世紀前半)で地方における律令制の成立を想定できるとする。付論3「竪穴内「貯蔵穴」の再検討」では、「貯蔵穴」の固定化によって厨房空間の確立を示すとし、付論4「古代人利腕考」では、竪穴住居の竈の燃焼部、支脚の位置を検討し、古代人にも右利きが多かったとする。
 第六章「陸奥国安積郡小川郷と東山田遺跡」では、福島県郡山市田村町所在の東山田遺跡が安積郡小川郷を構成する集落の中核的な存在と認めたうえで、「官衙風建物群」、富豪層の古代集落との位置づけを否定し、『類聚三代格』収載の太政官符規定の郷倉とする。 第七章「古代集落としての山田C遺跡」では、規模の大きな掘立柱建物を有する妙音寺遺跡を集落の拠点とした集団と山田C遺跡と周辺の集落遺跡を残したそれぞれの集団は、ある程度の分業を行い互いに孤立した集落を営んではいなかったとする。
 第八章「奈良・平安時代集落の諸段階」では、陸奥国安積郡域の奈良・平安時代の集落遺跡について、七世紀末から八世紀に掘立柱建物が集落に出現したことで古墳時代後期の集落の中から奈良・平安時代集落の出現を読み取ったもので、八世紀末から九世紀半ばの掘立柱建物の普及をその盛期とし、九世紀後半から十世紀前半は転換期、十世紀半ばから十一世紀半ばを終焉期とみる。

 福島県古代地域史に関する文献史料・考古資料双方の豊富な知見を備えた著者の仕事である本書は、従来の古代地域史像に再考を迫る好著である。


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