榎森 進・小口雅史・澤登寛聡編
 『アイヌ文化の成立と変容−交易と交流を中心として 上 エミシ・エゾ・アイヌ』

評者:吉田 歓
「弘前大学 国史研究」126(2009.3)

   一 本書の構成と概要

 北方史研究の歴史はすでに多くの積み重ねがなされてきている。しかし、近年の動向は、新たな視点として北から見た北方史といった視角が提示されている。そうした中で、北方世界に視座を置いた本書は、現段階での北方史研究の到達点を示すものとして高く評価されるとともに、今後の北方史研究を進めていく上で大変有益な一書となろう。
 本書の母体となったのは、法政大学国際日本学研究所から刊行された『アイヌ文化の成立と変容−交易と交流を中心として−』(二〇〇七年刊行)という報告書である。この報告書は一〇〇〇頁に近い大部なものであり、今回、上下二巻に分冊して刊行された。上巻が本書評で取り上げる『エミシ・エゾ・アイヌ』、下巻が『北東アジアのなかのアイヌ世界』である。母体となった報告書に改訂増補と新稿が加えられている。これら二冊の刊行によって、より多くの読者を得ることができるようになったことはとても喜ばしいことである。
 ここで取り上げる『エミシ・エゾ・アイヌ』(以下、本書と呼ぶ)には全体を三部に分けて、一八の論考が収められている。第一部エミシ・エゾ・擦文文化をめぐって、第二部オホーツク文化の世界、第三部アイヌ文化の成立−北海道の中世−、という三部構成となっている。このように本書では中世以前の北方世界に焦点が当てられ、エミシ・エゾ・アイヌ文化の成立を擦文文化・オホーツク文化・トビニタイ文化なども合わせて検討がなされている。
 収録されている論考が多数に及ぶため、一つ一つを詳しくは紹介できないが、ここではそれぞれについて評者なりに簡単に紹介し、次章で本書全体について評者が感じた点などを述べることとする。

 第一部 エミシ・エゾ・擦文文化をめぐって
 天野哲也「考古学からみたアイヌ民族史」では擦文文化期とアイヌ文化期の相違点について、前者は集落全休で生産をするというように共同性が基本的に強く、後者では集落が河川沿いや海岸線沿いにどんどん広がっていくことから個別的な生産が展開していったと指摘する。
 伊藤博幸「東北北部におけるエミシからエゾへの考古学的検討−天野哲也『考古学からみたアイヌ民族史』へのコメント(1)−」では前エミシ段階からエゾに到る変遷を考古学的に検討され、古墳時代にはエミシ観念は未成立で、七世紀中頃に東北南部の人々を含めたエミシ観念が成立し、八世紀に東北南部がほぼ内国化して、それより北の人々がエミシと称されるようになり、一〇世紀から一一世紀にエミシからエゾと呼ばれるようになったとされる。
 小口雅史「文献史料からみた『エゾ』の成立−天野哲也「考古学からみたアイヌ民族史」へのコメント(2)−」では、天野・伊藤両氏が考古学的見地から立論されたのに対して文献史学の立場から検討している。
 「エゾ」という音の最古例として応徳三年(一〇八六)の「前陸奥守源頼俊款状」をあげ、通説的なアイヌ文化成立時期、あるいは伊藤コメントの時期とも合致しないが三浦圭介説に親近性があると指摘され、その解明には課題が残っているとされる。
 八木光則「渡島蝦夷と津軽蝦夷」は、石狩低地帯を「渡島」と位置付けた上で、七世紀末から八世紀初めに擦文文化が成立し、津軽・秋田とも交流があったのに対して、九世紀前葉以降に各地域で独自性があらわれ分断の時代となると指摘する。その背景に中央国家が反乱を警戒して石狩低地帯と津軽とを分断しようとしたとされる。
 小野裕子「擦文文化の終末年代をどう考えるか」は、アイヌ文化の確立期を一五世紀前葉頃とされ、その指標として鉄鍋に注目し、鉄鍋の出土例が道東以南でも増加するのが一四世紀中葉から一六世紀中葉で、銛頭の機能強化もその動きに連動しているとされる。以上のような変化からアイヌ文化の確立期は、中世日本海交易の盛行期から松前藩の商場知行制成立期の間と指摘される。
 永田一「夷俘と俘囚」は、「俘囚」と「夷俘」について当初は厳密な区別はなかったが、延暦後半から弘仁二年(八一一)頃に区別する動きがあらわれ、弘仁期の諸政策により両者の支配を一本化するようになって、最終的に「俘囚」が残っていったと指摘する。

 第二部 オホーツク文化の世界
 小野裕子・天野哲也「オホーツク文化の形成と展開に関わる集団の文化的系統について」では、オホーツク文化の形成について「刺突文系」土器群と「鈴谷式土器」のいずれを嚆矢とするかが問題であるが、「刺突文系」土器群とこれに伴う文化を出発点とする。さらに「刻文系」土器群や貼付文土器などの分析を通じてオホーツク文化の形成過程をたどっている。
 大西秀之「北海道東部における『中世アイヌ』社会形成前夜の動向−列島史のなかのトビニタイ文化の位置−」では、トビニタイ文化の展開を読み解こうとする。トビニタイ文化は律令国家の直接的な支配の及ばない周辺社会の自立性を示し、北海道と東北北端部に成立した生産−物流体制によって成立・展開・終焉することを指摘し、本州の「和人社会」の需要に対応した生産・生業活動に従事するなかで「中世アイヌ期」以後の歴史的動向に連続していくとする。
 深井玄「一一〜一二世紀の擦文人は何をめざしたか−擦文文化の分布域拡大の要因について−」では、擦文文化の竪穴住居跡の分布と立地に注目して、前期(七世紀〜九世紀前半)には道央部で農耕とサケ漁を主とし、中期(九世紀後半〜一一世紀前葉)には日本海北部沿岸から内陸部にも分布域が拡大し農耕とサケ漁を柱とし、後期(一一世紀前半〜一三世紀初頭前後)にはオホーツク海沿岸から道東部へ遺跡が広がるとする。そのうち道東部についてはサケ漁と各種資源の獲得をめざし、オホーツク海沿岸については鷲羽などの交易品獲得をめざしていたと指摘する。
 涌坂周一「アイヌ文化の前史としてのオホーツク文化−松法川北岸遺跡を事例として−」では、羅臼町松法川北岸遺跡のオホーツク文化後期の二棟の竪穴住居に着目する。この二棟は火災に遭っていて多量の炭化木製品が出土し、なかでもヒグマとシャチの彫刻はアイヌ文化につながると指摘する。また、オタフク岩洞窟で見つかったヒグマ頭骨の集積もアイヌ文化との関連を示すとされ、以上からアイヌ文化の源流をオホーツク文化に見出される。
 竹内孝・中村和之「EPMA分析画像の解析によるオホーツク海沿岸出土の土器研究−土器に含まれる砂粒の成分分析と産地同定−」では、新しい土器胎土分析法が提案される。古代の土器では粘土中の砂粒が溶融せず胎土と物質化しないため、逆に土器を製作した時代と地域の地質的特徴が粘土成分や砂粒成分として内包されるとされる。そこでEPMA装置により土器に含まれる砂粒を混合状態で分析し砂粒の種類・量・混合比率を数理的に解析して土器生産地を推定するという手法である。この手法によって土器を破壊せずにその生産地を明らかにできるとされる。
 手塚薫「千島列島への移住と適応−島嶼生物地理学という視点−」では、近年千島列島で行われた学術調査の成果を踏まえて、千島列島という外界との接点が限られた特殊な環境下での人の適応について検討する。続縄文文化期には本格的な千島列島への拡大が見られ、オホーツク文化期には拡大収縮がめまぐるしいが基本的には居住痕跡があり、アイヌ文化期では大きな定住集落はほとんど確認できなくなり、「広く浅く」「遊動性が高い」様相が指摘される。

 第三部 アイヌ文化の成立−北海道の中世−
 小口雅史「『日の本』世界の誕生と『日の本将軍』」は、「日の本」の意味を斉藤利男説を参照しつつ古代から検討され、「日本」「日の本」にはやはり東辺、東の果てというニュアンスがあり、中央から見て境界地域であった北奥あたりから北海道までも包み込む異域全体の総称であったと指摘する。
 松崎水穂「和人地・上之国館跡 勝山館跡出土品に見るアイヌ文化」では、上之国館跡、勝山館跡とその周辺の遺跡の発掘調査の成果を整理した上で、和人地における和人とアイヌとの関わりの様相を明らかにされ、勝山館跡の中にアイヌがいたことなどを指摘するとともに、和人地形成に土着文化が関わっていたと推測する。
 越田賢一郎「北海道南部における中世墓」は、発掘調査の成果を受けて道南部と道央部の中世の墓の様相を分析し、蝦夷人と和人とは近接して居住していてもそれぞれの集団が独自の葬制を維持しており、両集団の接触は相互に集団の独自性を維持しながら行われたと指摘する。
 石井淳平「北海道における中世陶磁器の出土状況とその変遷」は、北海道における陶磁器分布の変遷をまとめた上で、それを「和人文化」の動向としてではなく、在地社会における陶磁器受容形態の変遷と解読して、道央から道南における「アイヌ文化」圏の成立と、「近世的和人地」の成立に伴う「和人文化」圏の成立過程を示すものとする。
 上野秀一「札幌市K三九遺跡大木地点の中世遺跡をめぐって」は、札幌市K三九遺跡大木地点の発掘調査によって検出された、日用生活用具などを送った「送り場」、「イワクテ」が行われた場所について検討し、その時期が一四世紀前半まで遡ると考えられることから擦文文化と中世をつなぐ状況を明らかにする貴重な資料と位置付ける。
 久保泰「松前家の家宝『銅雀台瓦硯』について」は、松前家に伝来した家宝である銅雀台瓦硯について、長らく所在が不明であったが近年松前城資料館で入手したことを受けて、その伝来について検討する。その結果、伝承通り文明年間に蝦夷から伝来したか、あるいは松前家への公家息女の輿入れ道具として伝来したという可能性を提示する。

   二 本書全体について

 本書は先掲報告書のうち中世以前の論考一八本をまとめたものであり、アイヌ文化の成立にいたるプロセスに関わるさまざまなテーマについて取り上げられている。前章では各論文の内容について不十分ではあるが要約を試みた。その上でここでは本書全体を通して評者が感じた点を述べて書評の責めを塞ぐこととしたい。

 まず本書全体を通覧して感じたのは、北方史研究のキーワードの一つは多様性と交流であるということをあらためて再確認したということである。複数の文化が変遷しつつ交流をしながら、しかしそれぞれの文化としての独自性は維持していたことが、本書を通読することによってとてもよく理解できるであろう。北方史が決して単線的に展開していったわけではないことが読み取れよう。その意味で北方史研究はそれぞれの分野の研究状況をお互いに提示し合い、互いの位置を相互に確認することが必要となる。その点で本書のような共同研究の成果がまとめられた意義は大変大きいものと考える。今後、北方史研究を進めていく上で一つの基盤作りがなされたと言えよう。
 次にエミシからエゾヘ、アイヌヘ変化していくことをどのようにとらえることができるのか、という点に着目してみたい。この点は本書全体のテーマとも重なるのであるが、第一部の天野・伊藤・小口三氏の論文に明らかなように、その視点によってとらえ方は大きく異なっている。もちろんある文化がある日突如として成立するということは考えにくいわけで、ある程度の時間の経過を経る必要があろう。その意味では三氏の見解にズレがあることにそれほど違和感はない。しかし、本書によってそれぞれの見地からする見方が提示されたことで、その問題点が浮き彫りになった点はこれからの研究にとってとても有益である。同じ考古学の立場から見た場合でも、北海道に視点をおいた天野氏と東北地方に視点をおいた伊藤氏では見解が異なっているし、文献史学からする小口氏の見解もまた違ったものとなっている。
 文化という複雑な問題をとらえる場合、当然一筋縄ではいかないのであるが、研究を進めていく上では、それぞれの見解を提示し合って課題の共有化が求められる。その意味で本書はそれぞれの立場からの見解が提示され、今後の課題が示唆されている。この点でも北方史研究の新たなスタート地点を示すものと評価されよう。
 さらに第二部・第三部の諸論文を中心として、北方世界においては交流、さらに言えば交易活動というものがいかに重要なファクターであったかということが描き出されている点も評価されよう。北方交易についてはすでに注目されてきているわけであるが、交易の在り方が居住地の立地や集落の様相を規定、あるいは密接な関係を持っている点も重要な視点として提示されている。交易だけが行われていたわけではなく、その背景に生活があったのであるからその点でも北方世界を総合的にとらえる上で本書は重要な位置を占めていると言えよう。

 以上、本書は中世までの北方史研究におけるさまざまな論点が提示されており、今後の課題や研究を進めていく上でのヒントが多く示されている。その意味でも本書は研究史上大きな意義を持っていると考えられる。本書において提示されたさまざまな論点を今後どのように受け止め、さらに展開させていくかがこれからの北方史研究の課題の一つとなろう。その点で本書はこれからの北方史研究を進める上で必読の書として長く読まれることであろう。
 ここまで本書の概要を整理して評者が感じた点などを述べてきた。各論文の概要についてはここで紹介した以外にも多くの論点が含まれており、そのすべてを取り上げきれなかった。この点をお詫びするとともに、本書全体についてもあるいは的外れなコメントもあろうかと思う。誤読や理解のいたらなかった点もあったのではないかと恐れている。こうした点は評者の責任として執筆者諸氏と読者にご海容をお願いしたい。しかし、本書によって北方史研究の新しい扉が開かれたことを最後に述べて拙い書評を閉じることとする。

(よしだ・かん 山形県立米沢女子短期大学准教授)


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