長谷川成一監修 浪川健治・河西英通編
『地域ネットワークと社会変容−創造される歴史像−』

評者:小石川 透
「弘前大学 国史研究」126(2009.3)

 本書は、十五本の論文と、一本の研究ノートからなる論文集で、監修者である長谷川氏の「まえがき」によれば、「境界、ネットワーク、変容、生命」をキーワードに、「新たな地域史像の構築を図」ることを目指したものである。
 構成は、I「近世の枠組みと「境界」」、U「ネットワークが生む多様な近世地域像」、V「変容のなかに形成される近代の地域像」の三部構成とし、それぞれ執筆者各自の研究テーマに基づきながらも、先にあげたキーワードに沿う形で、多角的に検討した論考によって編まれている。
 なお本書は、T〜Vの各部の最初に「位置づけと紹介」として、所収された論文の内容を編者が端的に解説しているが、以下、本稿の「書評と紹介」という性格から、「位置づけと紹介」との重複を恐れず、各論考を紹介し、本書について若干の私見を述べたいと思う。

 I「近世の枠組みと「境界」」は、五本の論文で構成されるが、編者である浪川氏の「位置づけと紹介」によれば、所収された各論文は「国家あるいは社会の枠組みの変化のなかで、人間個人あるいは集団がどのように位置づけられ、そのアイデンティティを主張したかを境界性という視点から考察」したものとしている。
 浪川健治氏の「境界を越える者−境界としての「くんぬい」と牢人−」は、寛文九年のシャクシャイン蜂起における、「くんぬい」の戦略的な位置付けと、その「境界」としての性格付けを行い、蜂起を契機として蝦夷地に入り込んだ「由緒無之浪人」の諸相を分析する。「由緒無之浪人」とは、松前藩との関係において、松前藩を唯一の権威・権力と認めない存在であり、それ故松前藩とは別個に「境界」において権威化する可能性のある存在として排除される。蝦夷地の支配権力体系破綻後の新たな権力体系構築のため、松前藩はそうした「境界人」のみならず「境界」自体を、除去することを目指したと論述する。
 吉村雅美氏の「近世前期の平戸藩と浦方の家臣−先祖書の記述を中心に−」は、平戸藩が編纂した「家中先祖書」「先祖書類」などの先祖書の分析を行い、浦に基盤を有する在郷の「浦方」家臣の解体と再編を、先祖書に記述のある知行の召し上げや召し返しなどの事例から考察する。平戸藩では、知行を召し上げた家臣に対し、扶持や合力米を与えたり、御目見を行うという形で関係を保持し続ける。それは浦の家臣を把握し、統治のために再編成することを藩が意図していたからである。また唐船など対外問題への対処に際し、浦方の家臣の役割や藩の編成方針が、時代状況とともに変容していったことを指摘している。
 阿部綾子氏の「商人司の存続と伝来文書−証文・折紙・裁許状−」は、会津の商人司・簗田家に伝来した諸文書を検討し、新規の木綿仲間設立を、従来からの「商売人支配」の権利を主張して退けた「寛永二年一件」、商人司として市における優位性を保証された「延宝三年一件」等、「商人司」としての危機を乗り切った自家の記憶を書類として整備し、自衛のための証拠として証文類や覚書等を作成・整理したとする。
 本田伸氏の「近世北奥の藩領域−近世中期における八戸藩・盛岡藩の藩境交渉−」は、八戸藩と盛岡藩との、寛延二年からはじまり、安永四年に決着を見た藩境交渉の過程を検討した上で、正確な絵図の作成や、担当者間での情報交換、現地調査などから、「証拠主義の思想が、両藩の担当者の間に確実に浸透していた」ということが導き出される。地理的にも経済的にも、また人的交流の面でも、非常に密接な関係を有していたと考えられる八戸藩と盛岡藩ではあるが、交渉の再開に至るまで二十年以上経過したことや、交渉における事前の摺り合わせの慎重さから、藩の領域を定めることが領主権力側のみの問題なのではなく、「本来的には、鮭留・知行所・船渡場がどうなるかこそ第一の関心事」という、地域住民の生活に即した問題でもあったことが考えられ、複合的な検討の必要性が課題として提示される。
 市毛幹幸氏の「後期幕領期の蝦夷地・アイヌ統治政策」は、安改元年から六年までの、第二次蝦夷地直轄期を対象とし、当該期のアイヌに対する教諭である「申渡」を分析し、この教諭がアイヌ社会秩序の保持のみで完結することなく、アイヌの「近世国家秩序」への編成を実質化するため、善行を積んだアイヌを顕彰する書物の発行等と共に、体系的・組織的に行われていることを明らかにする。ここから後期幕領期におけるアイヌ統治政策は、和人社会と共有される道徳規範の教諭が、身体的な改俗とともに重要視されていたことが導き出されている。

 U「ネットワークが生む多様な近世地域像」は、六本の論文から構成される。T同様編者の浪川氏による「位置づけと紹介」によれば、「人と人をめぐる社会的な繋がりが、政治や社会・文化をどのようなネットワークを結ぶことで変容させ、新たに構成したのかに着目して、その解明という視点から近世の地域像とその特質を明らかにする」ことが、Uの共通課題とされる。
 長谷川成一氏の「足羽次郎三郎考−その虚像と実像−」は、弘前藩の宝暦改革における経済政策の実務を担った人物として、その子長十郎と共に知られた足羽次郎三郎の、従来明らかにされてこなかった「事蹟や活動の全容」を明らかにしようとしたものである。次郎三郎について関連史料を分析し、その人物像から、銅鉛の売却を一手に担う大坂支配人としての活躍、尾太銅山の経営に関与し、住友泉屋等の強大な商人資本との関係を深めることに成功したこと等を明らかにする。そしてそこから次郎三郎が、「弘前藩の大坂支配人の領域を超える働きとビジネス感覚を持った、新たなタイプの町人ないし商人」であることを明示する。
 金森正也氏の「北羽地域社会と殖産論−那波祐生の織絹殖産構想−」は、文化末年から行われた秋田藩の絹織による殖産政策を担った那波祐生に着目し、関連した史料の分析によって、秋田領内における絹織及び織師の状況や、先進地からの技術の導入等について明らかにし、さらに、他者に対して「的確な情報を入手し、自己の活動に取り入れていこうとする」、「当該段階の知識人の特質」を、那波に見出している。進取の気性に富み、自ら領内を巡って人材育成に意を砕くなどの那波の姿からは、「藩経済の建直しなどとはまったく質の異なる」、「知」の姿が鮮明に浮かび上がってくる。
 瀧本壽史氏の「義民・民次郎一揆再考」は、弘前藩最大の百姓一揆として語られてきた「民次郎一揆」の首謀者とされる「民次郎」について資史料の整理を行う。そこから百姓側の「一統」の論理と、藩側の個別把握の論理との対立が、当該期の近世北奥の時代的・地域的な特質を示すもので、一揆の要因であるとする。また「義民」としての民次郎の顕彰活動が近現代に至ってから行われたことについては、各時代の要望にこたえる形で「民次郎一揆」が登場・伝承されてきたことに、地域的特質が見出せるとしている。
 坂本寿夫氏の「近世後期津軽領における漁業史の一考察」は、弘前藩における、鮭や鱈等の献上魚の文化年間の諸相や、漁村の生活の困窮、漁村同士による漁場の争い等について分析し、近世後期の漁師は不安定な経営による生活困窮に陥っていたが、藩による財政的な配慮も、漁業を振興する政策もなかったことを指摘する。また当該期漁業の特徴である、干飽・煎海鼠などの俵物集荷について、長崎惣問屋支配竹野屋の経営等を検討し、国産品献上や長崎俵物集荷という政治的な問題でありながら、公定買取価格の低さ等が要因となって、密売が頻発する状況や、俵物集荷そのものが漁民生活の向上に寄与しなかったこと等を明らかにする。一方で、明治二年三月の青森商社設立のような、藩主導による漁業育成につながる事業が、旧藩時代に何故存在しなかったのか課題を提示している。
 白石睦弥氏の「近世後期津軽領の災害像−明和津軽地震の被害と救済を中心に−」は、近世後期に津軽領を襲った災害を分析し、なかでも明和・寛政の、津軽領を襲った二つの大規模な地震から、災害と藩財政との関わりや、災害時においても「貫徹されるべきものだった」という階層性について考察する。そして明和期の弘前藩が財政的な要因から「御救」を貫徹できなかったことにより、民衆の領主権力への批判が高まり、幕末に至る領主権力と対峙する民衆の論理につながっていく可能性のあることを示す。
 土谷紘子氏の「天保飢饉時の弘前藩における山林利用−天保五年四月「兼平村栗木盗伐詫証文」を手がかりとして−」は、天保飢饉時における弘前藩領内の兼平村で起きた栗木の盗伐における詫証文をもとに、凶作時の藩の対策及び林業政策について考察する。天保四年八月に、藩は救民対策として「御救山」を解放するが、指定場所以外での伐採や、給人や小者といった在方以外の者たちによる伐採、そして藩が制定していた「停止木」の盗伐も行われるなど、凶作の困窮を理由とした盗伐の横行状態にあり、兼平村の栗木盗伐はこうした状況下で行われたことを明らかにする。

 V「変容のなかに形成される近代の地域像」は、五本の論文・研究ノートからなる。編者河西氏の「位置づけと紹介」によれば、「東北と北海道という北方社会を舞台に、近世から近代への社会的変容過程のなかで、いかに地域と個人がメタモルフォーゼに苦慮・抵抗したか、あるいは同調・馴化したかを考察」した各論考によって構成されている。
 河西英通氏の「地域の意識−〈津軽対南部〉をめぐって−」は、「地域間の関係性から同時代の歴史像を立ち上げる」という視点から、津軽と南部という対立する矛盾的な関係性をもつ青森県の明治初期の姿を、南部出身の警察官・赤塚治時が記録した事象を細かく追うことで分析する。赤塚は、津軽の風俗に対する違和感や、津軽人の南部人嫌いについて生々しく描写する。一方でそれを、「臣民意識」や「公僕意識」によって乗り越えていこうとするものの、対立意識の解消・超越自体が、近代化に伴う実利主義・経済主義の横行の前では無意味なことであるとされ、結果、地域間の対立意識は解消されぬまま存続されていくことになったと論述する。
 福井敏隆氏の「幕末期弘前藩における洋式兵学の導入と展開−炮術師範篠崎進を中心に−」は、幕末期に弘前藩の洋式兵学導入の中心人物として活躍した篠崎進の遊学の状況を中心に、弘前藩における高島流炮術の普及について分析する。篠崎は、自己負担によって江戸に遊学し、やがて藩主・順承の命で高島流炮術を学ぶことになり、免許皆伝となった。さらに炮術師範として、国許での後継者育成と遊学とを繰り返しながら、平舘台場などの台場を、高島流による洋式台場とするなど、藩内における高島流炮術の普及と展開に大きく寄与したことが明らかにされる。こうした遊学は、順承時代に顕著になったものであり、近代までも続く遊学への積極的な姿勢の源泉がこの時代にあるとしている。
 山下須美礼氏の「北海道における教導職の活動と意識−少講義石橋寿備の記録から−」は、明治五年に開始された教導職制について、北海道で教導職を務めた八戸の商人出身の石橋寿備の記録から、過渡期に始まった全国制度が、地方の状況に応じてどのように変化していくか考察する。当時の北海道の教導職は、開拓の過酷な状況や、ハリストス正教会の伸展により、どのようにして開拓民に精神的な支柱を与えることができるかが問題となっており、生業に密着した精神的な拠りどころを求めるという形で、在地の問題に柔軟に対処していくことを志向したとする。
 岩森譲氏「秋田県における国民教化政策の展開」は、山下論文同様に国民教化政策について、秋田県を対象に考察する。明治初期の秋田県は、神官の多くが旧修験であり、民衆との関わり方が近世期と同様のものであったがために、信仰形態が旧来と変わらなかったことが指摘される。さらに神職内部でも、教導職として教化を担う能力を有しない者が多い等の問題があり、国民教化政策は効果をあげなかったとする。また教部省から派遣されて東北・北海道を巡回した石丸八郎の秋田巡回時の史料を分析し、石丸の巡回によって秋田県の教導職検査、教院体制が確立したものの、真宗による教院からの分離運動や、人材不足等の教院内部の問題を解決できず、全国的な動向と同様に、最後まで教化は進まなかったことを明らかにする。
 川内淳史氏の「戦時期地域医療の“経験”−「健康青森県」の成立と転回−」は、一九三〇年代〜四〇年代の青森県における医療・保健衛生問題への取り組みを分析する。一九三〇年代の青森県では、結核、乳幼児死亡率の高さ、トラホームの蔓延が、保健衛生問題として関心を高め、とくにトラホームは、全県的な課題として取り組まれていった。一九四〇年代になると、「健康青森県の建設」が大政翼賛会青森県支部において目標とされる。その具体的な活動は、青森県衛生振興委員会設立に際しての、弘前市の医師・鳴海康仲の素案による事業活動を基盤として進められた。それは青森県衛生報国会設立による医療・保健衛生行政の再編、戦争の進展に伴う医師不足への対応から行われた衛生指導者の養成、「青森県文化運動」等の活動による県民の衛生思想向上への取り組みというように推進されていく。しかし戦争が伸展していくと、「健康青森県の建設」は、「保健衛生問題への認識の深化、さらにその延長線上に存在する厚生文化問題としての認識、それと結合する地域アイデンティティから切断され、戦争遂行の一手段という次元に押し止められることになった」とするが、一方で戦時期の経験が戦後地域医療の基盤となったと論じる。

 以上、簡略ながら各論考の紹介をしたが、次に、本書の目的とする「新たな地域史像の構築」について、筆者の個人的関心にひきつけて、若干の私見を述べたい。
 近年、「地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律」の制定や「文化財総合的把握モデル事業」など、地域における歴史や、それによって培われてきた文化財を核にして、「まちづくり」や「地域づくり」を図ろうとする施策が国を中心として進められており、「地域史像」を巡っての議論は、より深く推し進められていくことが求められている。とはいえ、地域独自の歴史的な風致などといったことは定義が非常に難しく、ともすれば事務的な経験値のみで計画を進め、表面的で安易な自己認識に終始し、結果的に他地域と差異のない、ありがちな歴史的風景をそれらしく設置して終わってしまう危険性も考えられる。それは、安易に流されることなく、「地域史像」を形成する上での細部に対する視点をどう保ち得るかということと、歴史的な事象を今日的な問題にリンクさせることの難しさである。「地域」という概念ひとつとっても、その「地域」を形作る人々の営みすら、どこに視点を置くかによって多様な姿が現れて一定することはないし、今日的な問題感覚のみで「地域史像」を求めていけば、現在生活する人々の営みを第一義にせざるを得ず、その地域の持つ本来的な歴史像から大きく乖離する可能性がある。
 そこで、回り道に見えても拙速に陥ることなく、地域を構成する複合的な要素を多角的に掘り下げていく基礎的な作業を不断に続けていくことが必要になるのであり、その結果得られた多様な「地域史像」の積み重ねが、その地域の特性を代替性のないものとし、最終的に豊かな実りをもたらすのだと考える。
 一行政職員たる筆者にとって、多様で魅力的な「地域史像」を提示してくれた本書には、右の理由から大いに励まされたと同時に、今後、本書の成果が、地域自らによる「地域史像の構築」に大きく寄与することを期待したい。
 周知のとおり、監修者・編者はじめ、寄稿者の多くが、『津軽藩の基礎的研究』以来、現在も進められている『青森県史』の刊行事業に至るまで、「新たな地域史像の構築」に大きく寄与してこられた。そうした研究者たちに、「限りない可能性を有した若手の研究者たち」が加わって編まれた本書は、「地域史像」に新たな視点を生み出すことに成功した、まさに「新鮮なインパクト」を受けるものとなっている。本書で示された、堅実な分析とそこから導き出された多くの視点は、『津軽藩の基礎的研究』や『北奥地域史の研究』等によって示された地域史像と共に、同様の問題意織を持って研究に取り組む後進に、多くの学問的な示唆と、研究活動における励ましを与えるであろう。
 そして本書は、長谷川氏の還暦を記念したものでもある。昭和五十三年の弘前大学への赴任以来、長年にわたって長谷川氏が身を以て示されてきた史料に対する真摯さと情熱は、本書において、その学風に触れた知己や後輩、教え子によって、見事に結実したと考えられる。
 最後に、筆者の知識が浅薄なこともあり、本書の浩瀚な内容を、どこまで正確に紹介できたか不安である。論旨を読み誤った部分も多々あるかと思われるが、御寛恕いただければ幸いである。

(こいしかわ・とおる 弘前市教育委員会文化財保護課主事)


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