国文学研究資料館編『藩政アーカイブズの研究−近世における文書管理と保存−』 | |||||
評者:定兼 学 |
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「アーカイブズ学研究」9(2008.11) | |||||
序 章 藩政文書管理史研究の現状と収録論文の概要 (執筆者・高橋 実) 序章では、1980年代以降に展開した藩政文書管理史研究を概観し、本書収録論文の概要と位置づけをしている。諸藩で文書管理システムが導入されるようになった理由として、@藩機構の整備と吏僚化、A藩政の拡大にともなう文書量の増加、B領民の直接的間接的政治参加の3点を指摘する。文書管理方法は、留帳・類緊などの内容別記録書写編集方式から原本綴り込みないし一括保管などの方法へと変遷し、その検索・目録化が計られるようになった。維新後の国政レベルでも留帳・類聚作成方式は残っていた。廃藩置県以後の伝来過程に留意すべきであるという。また、本書収録論文は、いずれも藩文書記録の管理、保存、編纂、伝来に焦点をあてていること、本書は藩政アーカイブズの管理保存史研究を対象とした初めての論文集であるといい、この章末に関係研究文献一覧を列記してその意義を高めている。 第1章では、現在国文学研究資料館と真田宝物館とに所蔵されている松代藩主真田家文書群の伝来経緯を江戸時代真田家の文書管理との関連であきらかにしている。真田家文書は、徴古史料としての「吉文書」と藩政資料があり、前者が真田宝物館蔵、後者は真田宝物館と国文学研究資料館蔵に二分された。吉文書は、真田家が将軍等から受けた書状などを整理したもので、宝暦13年(1763)に「吉光御長持并御腰物箪笥」に入れられ、御広間の床の間に飾ることになった。その後天保4年(1833)の整理で最終的な吉文書の姿となり、家臣らが所蔵する真田家関係文書を明治以降まで収集追加している。一方、藩政資料の日記は松代城内の「日記蔵」で保管していた。大正時代に道具などとともに整理したとき、二番倉の書類は未調査のまま残った。この未調査部分の資料が国文学研究資料館に入り、それ以外が吉文書とともに真田宝物館に入ったと述べる。伝来経緯はよくわかった。 第2章は、萩藩の藩庁文書の研究である。萩藩の文書は、毛利博物館に藩侯文書が、山口県文書館に藩庁文書の毛利家文庫と県庁伝来旧藩記録が所蔵されている。萩藩の国元中枢役所である当職所の文書は、業務上の必要性、参考性、重要性に応じて萩城下御用所か当職の屋敷、萩城櫓、萩城本丸御宝蔵に分散管理され、明和4年(1767)には当職所に記録方という文書管理専門役人が設置された。奉行役所や上勘所、目付所、代官所などでも文書を保存・管理するシステムが整備されているが、文書の廃棄・反古化の権限は当職所が握っていた。各役所では、保存資料を再整備して現在業務の手引き書の編纂事業も行なっている。 第3章では、対馬藩宗家の御内書と老中奉書の文書管理の変遷を検討している。宗家文書は九州国立博物館など7ケ所に分散所蔵され、総計約12万点にも及ぶ。宗家は、朝鮮と外交する日本側の窓口であったから、外交機密などの重要書類などとともに御内書と老中奉書を年寄中・表書札方が長持ちに入れて管理した。享保12年(1727)以来数度の整理でほ、内書はすべて、老中奉書は一部を成巻した。文書目録である「年寄中預御書物長持入日記」は、明和2年(1765)に作成され、追加文書は貼紙などに記載して数十年その目録が機能した。天明4年(1784)長持ちの底に腐損が発見された。寛政期には寛政重修諸家譜編纂調査に利用し、老中奉書のすべてを成巻化した。文化10年(1813)には今後の資料増加を考慮して利用しやすい方式に整理して目録を新帳にし、これは明治期まで利用されたという。 第4章は、熊本藩の郡方の民政に関する行政処理過程を「覚帳」の丹念な分析から解き明かしたものである。藩制初期から作成している郡方系統の覚帳は、事案の行政処理が完了してから記録していたが、宝暦改革以降は農村からの上申文書とその処理過程も記録するようになり、寛政末年以降は、上申文書の原物そのものを起案の原本として、事案の処理過程を記録化している。これを執筆者は稟議別の成熟化・高度化という。さらに、覚帳も郡別編成され概ね月日順綴じ込みとなり、事案検索に配慮して整備され、継続性の高い特定事業も帳簿化が進む。これは、農村社会の行政ニーズが、藩庁部局まで上申されなくても郡代・惣庄屋段階で処理できるような農村社会の自律的運営能力に立脚して成り立った。藩庁で稟議にかかる文書は、農村社会で生成される要望・願書のほんの一部であり、受理に至らない文書量は増大したという。 第5章は、題名通り熊本藩の文書管理の特質を分析したものである。同じ熊本藩のアーカイブズ研究であっても、第4章が文書行政について研究した史料解析であるのに対して、本章は文書管理そのものの研究である。熊本藩では職制に応じた各部局ごとに必要な簿冊管理を行なっていたとし、天保4年(1833)刑法方の諸帳目録を分析することによって、文書の評価選別、移管、現用文書、半現用、永年保存、廃棄など、現代に通じる文書のライフサイクル概念や管理システムが整えられていたことを証明している。文久2年(1862)の寺社方・町方の諸帳目録を分析することによって、記録シリーズ毎の整理方法、出所原則にもとづく管理・保管を実証する。また文書記録管理を専門にする諸帳方の存在と役割を明らかにした。諸帳方は、各部局の権限で移管された文書を長期保存文書として御蔵で保管し、そこからさらに選別され永年保存文書として坤櫓で保管した。 第6章は、鹿児島藩記録所の設立過程とその業務内容を通覧している。鹿児島藩では近世前期から記録奉行あるいは文書奉行という機関があった。はじめは島津家の家譜編纂と古文書管理をする一家政機関であったが、島津氏のみならず、家臣諸家の由緒も調査する鹿児島藩の公的機関に転換した。18世紀初頭に記録奉行の3人体制や江戸詰奉行の設置などの制度整備が行なわれ、系図・系譜編纂と古文書の保管、諸家の系図由緒調査などに加えて、諸役座の文書を保管する機関として確立した。享保5年(1720)に白木箱が用意され、逐次収納された。収納文書には箱番号や記録所が文書を受け取った経緯や日時を付箋や包紙・袋に記している。諸役座から記録所へ移管された文書は、文書発給年月順ではなく、移管年月順に順次保管された。また、18世紀末以降は、家譜編纂・由緒調査機関としてだけではなく、「島津国史」や地誌編纂、絵図作成なども業務としている。 第7章は、関連研究として村方文書管理史の研究史整理をした論文である。本書には異色なものであるが、藩政アーカイブズ研究を、近世社会の他のアーカイブズ研究と対比する意味での収録と理解した。それは、幕政アーカイブズでも商家でも寺社でもよかったかもしれないが、日本近世の文書管理史研究は最初に村方文書の研究が先行した。そのトレンドの一翼を担っている執筆者が今後の課題として、@現用文書相互の関係性、A幕藩領主と村方との文書管理面での関係性・規定性、B近世文書社会の質を問うこと、C発見型の研究から地域間比較・地域類型化へ、という4点を指摘している。 以上のように、各章から多くを学んだ。それにより全体として、次の疑問が生じた。諸藩の文書管理の近似性と独自性である。将軍や老中の書状を重要書類扱いすることや、整理目録などの第2次資料を作成して元の資料を管理すること、一括管理して永年保存する発想が生じることなどの近似性が認められる。一方、諸藩の文書保存意識や政治文化に大きなギャップと独自性があった。萩藩の記録方、対馬藩の表書札方、熊本藩の諸帳方、鹿児島藩の記録奉行など、文書管理担当の部署が存在することが近似性で、その守備範囲、権限、管理方法の違いの大きさが独自性である。なぜ諸藩で似たようなことが起こったのであろうか。また諸藩の独自性はどのような政治形態、地域性から生じたのであろうか。興味が尽きなかった。 ところで、本書収録の諸論文の多くは、自分の所属する機関の所蔵する史料を、−般閲覧室ではなく、収蔵庫や研究室内で手に取り縦横にくまなく観察することによってはじめてできた研究であった。−般の利用者ではわかり得ない情報が満載である。これは「アーキビストが所属機関の所蔵資料を用いて個人研究や著作発表を行なう場合、その資料を利用できる条件や範囲は、一般利用者と同じでなければならない。」というアーキビストの倫理綱領とどのように折り合えばいいのであろうか。自館の資料を利用する際に、利用者と同じように利用申請を書いて利用しても自己満足の行為にすぎず、陳腐な偽善である。この倫理綱領に文字通り従えば、アーキビストは、目録作成過程等を通じて、一般利用者とは違う情報を知っている以上、−般利用者とは同じ条件にはなりえず、本質的に−般利用はできない。 |
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