渡辺尚志著『惣百姓と近世村落−房総地域史研究−』

評者:渡辺 哲郎
「歴史科学と教育」27(2009.1)


 本書はサブタイトルの通り、渡辺氏が著した数ある論考のうち、房総をフィールドとしたものを集め、一冊にまとめたものである。
 氏の村落共同体論や土地所有論はすでに高く評価されており、本書では、主に上総国長柄郡本小轡村(現茂原市)藤乗家を素材に、氏の主張を実証的に補強し、深化を図っている。
 そこでまずは本書の構成から述べる。( )内の数字は初出年である。

 序章(新稿)
第一編 上総国長柄郡本小轡村と藤乗家
 第一章 明暦〜延宝期における「惣百姓」(一九九九)
 補論一 天和〜元禄期における「惣百姓」(新稿)
 第二章 庄屋と身分的周縁(二〇〇〇)
 第三章 十七世紀後半における上層百姓の軌跡(二〇〇二)
 第四章 藤乗家の文書整理・目録作成と村落社会(一九九六)
 補論二 藤乗家の文書目録(一九九四)
 補論三 長柄郡北塚村の村方騒動(新稿)
第二編 房総の村々の具体像
 第五章 十八世紀前半の上総の村−上総国山辺郡堀之内村を事例として−(二〇〇二)
 第六章 近世後期の年貢関係史料−下総国相馬郡川原代村を事例として−(一九九四)
 第七章 相給知行と豪農経営−上総国山辺郡台方村を事例として−(一九八九)
 補論四 細草村新田名主役一件と高橋家(二〇〇二)
 第八章 壱人百姓の村−上総国長柄郡小萱場村を事例として−(一九九三)

 簡単にではあるが各章の内容に触れたい。
 序章では第一編で扱う藤乗家と本小轡村の概要を紹介しており、さらに各論文を著者自身の言葉で紹介している。この新刊紹介も、序章をすべて転記したほうが適切ではないかと私自身思うのだが、ご寛恕を請い、一読者の目線で以下各章の内容を紹介したい。

 第一章「明暦〜延宝期における『惣百姓』」、および補論一「天和〜元禄期における『惣百姓』」では、十七世紀後半の村落共同体を、史料中に現れる「惣百姓」という文言を手がかりに多面的に描いている。その面とは具体的には、相互扶助・土地・出奉公の許可・紛争解決・年貢勘定・惣百姓メンバーの決定・「家」の相続への関与などである。特に相互扶助機能の背後にある相互規制について、「村人の行動は、惣百姓・庄屋・領主の三者からそれぞれに性格の異なる規制を受けており、惣百姓による自主規制は、庄屋・領主の規制とは相対的に独自のもの」と論じている。この第一章および補論一は以下の二〜四章の総論ともいえる内容となっている。
 第二章「庄屋と身分的周縁」は、まずタイトルに驚かされる。庄屋が身分的周縁とどう関係があるのか。だが第一章を読んでおけば、このタイトルが意味するところも納得する。本小轡村庄屋藤乗家は、経済力で他を圧倒しているとは言えない規模の百姓だが、村内上層農民が家の存続の危機を常に孕んでいる中、領主から得ている特権により比較的安定した経営を実現していた。藤乗家は「民主的」な村政を敷いていたにも関わらず、そうした特権は「惣百姓」の攻撃対象ともなりうる。藤乗家に対抗する上層農民たちは「惣百姓」文言を利用して、訴訟の勝利を目指した。渡辺氏はこのような「惣百姓」文言の使われ方を、水本邦彦氏が提出した「村惣中」の使われ方と比較し、身分的周縁論を援用し、庄屋の性格を捉えなおした。
 第三章「十七世紀後半における上層百姓の軌跡」では、村内第二位の持高である組頭長左衛門を、藤乗家文書を用いて描いた。論旨は第一章を補強するものである。名主文書を用いて、名主以外の百姓を中心に描くことは大変困難な作業であろう。それを可能にしたのは藤乗家文書の質・量の豊富さや、史料を博捜する著者の力量、そして良質な文書目録の存在があってこそなのだろう。
 第四章「藤乗家の文書整理・目録作成と村落社会」は、前章までが近世前期を扱っていたのに対し、後期を対象としている。藤乗家は自家に残る文書目録を作成しているのだが、その目録は当時藤乗家に存在した文書をすべて網羅したわけではない。渡辺氏は、どのような文書が目録化されたのかという点から、彼の歴史認識をさぐり、さらに、文書管理が惣百姓との関係にも規定されている面を重要視している。なお補論二「藤乗家の文書目録」は、そのタイトル通り、第四章の主要な分析対象である藤乗家の文書目録を掲載している。
 補論三「長柄郡北塚村の村方騒動」は、村用書類が村方騒動の主要争点になる事例を取りあげ、本小轡村以外の事例から文書管理の問題に迫った論考である。確かに村用書類が重要視されたのだろうが、結論を若干強引に引き出している感じを受けた(他の諸論点を捨象したせいであろうが)。

 第五章からは第二編房総の村々の具体像と銘打って、一村ずつ、その村特有の論点を抽出し、既存の近世社会像に揺らぎを与えられる、ユニークな事例を並べている。各章のタイトルにその特徴が現われている。補論以外はサブタイトルに「・・・村を事例として」と付けているのは、それぞれの村落共同体固有の論理を重視しており、その村落共同体の論理は近世という時代の特徴を色濃く現わしているが、他村で完全に同じ論理は見出すのは難しいかもしれません、という意味合いなのだろうと私は勝手に解釈した。第七章と第八章はそう思わせるほどユニークな事例である。
 第五章「十八世紀前半の上総の村−上総国山辺郡堀之内村を事例として−」では、十七世紀後半に新田開発がありながらも、村民の経営は苦しく、上層農民でさえも村方騒動を引き起こし、名主を糾弾していく事例を取りあげている。圧倒的な持高を所持しているわけではないが、各種特権を多く持つ名主の姿は、本小轡村藤乗家によく似ている。上層農民といえど苦しい経営状態というところも類似した印象を読者に与える。しかし堀之内村の場合、十八世紀半ばには多くの土地が他村へ流出してしまっている。荒廃状況が深刻化していく姿が、堀之内村には見られるのだ。
 第六章「近世後期の年貢関係史料−下総国相馬郡川原代村を事例として−」では、年貢算用に関して、割付状と皆済状ばかりを検討するのではなく、その間の史料を勘案した上で年貢徴収の問題を考えていく必要性を啓蒙している。川原代村には、史料の残存状況のため弘化期以降しかわからないが、九種類の帳簿が作られている。それを時系列に並べ、それぞれの作成意図と各帳簿の関連性を見出し、ひいては村落共同体の機能を探っていこうとした。最後の注で、川原代村名主が割元として作成した帳簿を年貢帳簿と同様に丁寧に分析し、勝手賄がどのように遂行されたかも推測しており、その類似性が興味深い。
 第七章「相給知行と豪農経営−上総国山辺郡台方村を事例として−」は大変ユニークな事例である。四給の村落であり、六つの小集落にわかれており、近世後期に名主を務める前嶋家はそのそれぞれに所持地を抱え、小作人もある程度の集住を見せながらも各集落にいる。渡辺氏の分析によれば、そのように一見バラバラに見えても、前嶋家の知行主が支配する知行地からの土地集積が多く、その知行主支配の者を小作人として多く抱えていた。また前嶋家が居住する小集落での土地集積が多く、小作人も多い。渡辺氏が従前から主張する土地と村落共同体の関係において、台方村の場合、「入地」と呼ばれる小集落が村落共同体の機能の一部を担っていたと言える。
 補論四「細草村新田名主役一件と高橋家」は、これも相給村落を論点としたものであり、それが本村と新田の関係を複雑化させた一件を紹介している。
 第八章「壱人百姓の村−上総国長柄郡小萱場村を事例として−」はタイトルにまず惹きつけられる。小萱場村は壱人百姓の村なのだが、「中世的な土豪支配の単なる残存物ではなく」、十七世紀における本村からの自立や小農自立を前提とした、「極めて近世的な村内身分関係」と評価する。またその壱人百姓体制は十八世紀には存続しながらも弱体化ともとれる動きを見せ、十九世紀にはむしろ経営面では急速に転落をしており、抱百姓から借金をするのだが、それにも関わらず抱百姓との上下関係は継続している(ただし領主権力を利用している)。しかし明治維新を契機に壱人百姓体制は崩壊する。壱人百姓体制を近世の社会状況との関連付けて読み解いた力作である。

 続いて、本書の特徴を紹介したい。それは序章に述べられている文言を引用すると、「従来の十七世紀関東農村の定型的イメージ」の「相対化」である。渡辺氏は常に研究史と戦っている。その矛先の一つは、佐々木潤之助氏が提出した世直し状況論なのだろう。佐々木氏の理論は、村落共同体の位置づけが不鮮明である点について、幾人かの論者が批判を向けているが、それでも今なお克服し切れていないとの評価が一般的である。渡辺氏は、村落共同体のイメージを従来のままにしておくことに、もどかしさを感じ続けているのではないだろうか。ところが渡辺氏への批判は、従来の研究史が語る村落像を持ち出したものが多いように感じる。もし渡辺氏へ批判を向けるのであれば、その方法は、史料から取り出した事例で本当にその結論が出せるのか否かであろう。従来の研究史に対して相対化を図ろうとする研究に対して、「あれが足りない」「こちらを重視すべきだ」という批判では、渡辺理論を崩すにはなかなか至らないし、意味が無い。
 その理論について少し触れておく。確かに渡辺氏は本書で従来の定型的イメージを突き崩す偉業を成し遂げている。ただ、その渡辺理論は本書で大きく進展したわけではない。本書各論文を通して、ある理論的枠組みを新しく提示したわけではない。それゆえ本紹介文の冒頭で、氏の主張の補強と述べた。
 もっとも、理論的進展が見られないといっても、それは、従前からの渡辺氏の理論の堅さの現れなのだろう。様々な論者が近世と何かを追及しているが、理論を組み立てる際、本書の事例を取り入れること無しに、近世社会論を組み立てようとしても、研究史上、意味あるものにはならない。その意味でも本書は必読の書となるだろう。といってもそれは研究者レベルの話になってしまう。
 本書を初めとする房総の事例を、もっと要約した形で知りたければ、『千葉県の歴史 通史編近世一』の第四編第一章を読むといい。そこには本書収録の論文を元にした事例がコンパクトにまとめられている。しかし渡辺論文の魅力のひとつは、史料から事実を発掘し、それを元に通説を破壊していく、実証的な叙述方法であり、それは『県史』では味わえない、本書の魅力のひとつである。

 粗略な紹介となってしまい、本書の魅力を十二分に伝えられないことが大変遺憾だが、それはひとえに紹介者の力量不足に由来するものである。前述の通り研究者は当然本書に注目し手にとるであろうが、小・中・高等学校をはじめ、房総に地縁のある歴史教育関係者すべてにも本書をお勧めしたい。近世社会の一端を理解でき、なおかつ実証の方法論も体感することができ、地域学習を考える上での大きなヒントになると思われるからだ。
(わたなべ てつろう・日本大学習志野高等学校教諭)



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