遠藤ゆり子・蔵持重裕・田村憲美編『再考 中世荘園制』 | |||||
評者:海老澤 衷 |
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「日本歴史」730(2009.3) | |||||
第一章「荘園制の形成と民衆の地域社会」(田村憲美)では、地域社会の骨格としての「郷−村」に注目し、そこに築かれる荘園制をみる。考察対象地域は山城国綴喜郡多賀郷で、文永九年(一二七二)山城国高神社造営流記を中心に分析・考証する。田村氏の考えでは、平安時代以来、住民の平常の生活の中でできあがるテリトリーを土台とした「郷−村」制が存在し、臨時雑役の賦課を免除するなどの問題が生じたときに荘園四至が設定されるのであり、地域住民一般の日常の中で荘園はかなり遠い問題であるという。氏の考えを突き詰めれば、平安期から随近在地のネットワークが張り巡らされた「郷−村」が通底的に存在し、その上に何らかの要因があったときに荘園制の帽子が載せられることになる。多賀郷において荘園の号が見えるのは応永三二年(一四二五)に至ってのことであるという。周到かつ慎重な氏の議論の組み立てによってあまり表面化していないが、「領域型荘園」のパラダイムを崩す可能性を秘めた論考であるといえよう。 第二章「荘園制下の開発と国判−新たな荘園制論によせてー」(鈴木哲男)では、中世東国における開発の事例として注目されてきた香取文書の「二俣村荒野開墾免許状断簡」を取り上げ、改めて史料的価値を確認するとともに開発申請と国判との関係を再考する。氏は中世の(領主的)開発は散田請作関係の創出であるとし、この開発が荘園制成立の前提であると考えている。その開発の認定にあたってはすでに社領となっているところでも国司・国衙の関与が一般的であったとし、開発における荘園領主権を限定している。 第三章「中世の水害と荘園制」(水野章二)では、近年の環境史への関心の高まりを受けて水害と荘園制との関連を追及する。氏は荘園史料と近年の発掘調査との突き合わせを広範に行っているが、本書で扱われてきた問題として荘園と国衙との関係を考えることができる。 第四章「村落領主制論再考」(小林一岳)は、主に鎌倉時代の在地社会の動向を村落の沙汰人集団の「共和的」な活動にみるものである。田村氏の論点を中世後期まで見通して補強したものと見ることができるであろう。 第二部の最初には第五章「十二世紀末の戦争を通してみる寄進の一考察」(遠藤ゆり子)が載せられている。現存の文書数の分析の結果として源平内乱期に寄進件数の増加することから、戦争と寄進との関係をみる。戦乱に伴う収奪に対して寄進者側の意図を最大限にくみ上げ、さらに八条院などの被寄進者側の女房の活動を明らかにするものである。確かに本家が期待される役割の中にはこのようなものも含まれるのであろう。 第六章「中世後期の京上夫の活動」(徳永裕之)では、東寺領備中国新見荘における寛正年間の直務期の京上夫について考察したもので、「百姓狂言」にみられる安定した荘園制は中世後期の社会全体の希望であったとする。確かに東寺領荘園にあっては農民による都鄙間交通がみられることは事実で、そのレベルで文化的交流も存在したと考えられる。 第七章「九条政基にみる荘園領主の機能」(黒田基樹)は、文亀年間に和泉国日根荘へ下向した九条政基の荘園領主としての機能を分析する。奉行・家僕総勢二〇名で、守護勢力の大海に浮かぶ小島ともいえる入山田村と日根野村東方を維持する姿には、幕府とも関係が深い九条政基のしたたかな所領維持の姿勢が認められるが、相伝の由緒が尊ばれる荘園制の特質もよく示している。 第八章「荘園制・中世社会について一所有論の視点から−」(蔵持重裕)では、中世の特質を分節社会に見て、次のように結論する。 近年の中世史研究の深化にともなって提起された社会システムとして極限的に総体化された「荘園制」論であるが、本書の個々の論考とどのように連関するものであるのか説明が欲しいところである。とりわけ、田村氏が提起した「郷−村」社会論とは対極的な位置にあると感じられ、今後の議論の深まりを期待したい。
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