遠藤ゆり子・蔵持重裕・田村憲美編『再考 中世荘園制』

評者:海老澤 衷
「日本歴史」730(2009.3)


  本書は、二〇〇五年十二月十七日、歴史学研究会中世史部会が立教大学で行ったシンポジウム「中世社会論−人々にとって荘園制とはー」の成果をまとめ、さらにそこでの議論を発展させて論考を収録したものである。シンポジウムのワーキンググループ(遠藤ゆり子・川戸貴史・徳永裕之・長谷川裕子・増山智宏・守田逸人の諸氏)によって次の三点が課題設定された。
@荘園制研究が在地社会から見る議論と体系・枠組み・壮園領主の変遷を追う国家レベルの議論に分離している状況を打開する。
A中世前期における荘園制の社会的機能の究明とそれに基づく荘園制成立論を展開する。B荘園制の追究を通じて中世前期社会を解明する。
 この設定に基づいて当日ワーキンググループによる「荘園制論にみる中世社会論の課題」、田村憲美氏の「荘園制の形成と民衆の地域社会」、蔵持重裕氏の「荘園制・中世社会について−所有論の視点からー」の三報告が行われ、水野章二氏のコメント「荘園制と災害に関する若干のコメント」が付されて、討論が交わされた。
 このような経緯を経て、本書の構成は、序章「荘園制研究にみる中世社会論の課題」において主に中世前期の課題設定がなされた後、第一部「荘園制と在地世界」、第二部「荘園制の社会構造」に分かれて第一章から第八章までの論考が掲載され、第二部では中世後期に踏み込んでの論述がなされている。

 第一章「荘園制の形成と民衆の地域社会」(田村憲美)では、地域社会の骨格としての「郷−村」に注目し、そこに築かれる荘園制をみる。考察対象地域は山城国綴喜郡多賀郷で、文永九年(一二七二)山城国高神社造営流記を中心に分析・考証する。田村氏の考えでは、平安時代以来、住民の平常の生活の中でできあがるテリトリーを土台とした「郷−村」制が存在し、臨時雑役の賦課を免除するなどの問題が生じたときに荘園四至が設定されるのであり、地域住民一般の日常の中で荘園はかなり遠い問題であるという。氏の考えを突き詰めれば、平安期から随近在地のネットワークが張り巡らされた「郷−村」が通底的に存在し、その上に何らかの要因があったときに荘園制の帽子が載せられることになる。多賀郷において荘園の号が見えるのは応永三二年(一四二五)に至ってのことであるという。周到かつ慎重な氏の議論の組み立てによってあまり表面化していないが、「領域型荘園」のパラダイムを崩す可能性を秘めた論考であるといえよう。 

 第二章「荘園制下の開発と国判−新たな荘園制論によせてー」(鈴木哲男)では、中世東国における開発の事例として注目されてきた香取文書の「二俣村荒野開墾免許状断簡」を取り上げ、改めて史料的価値を確認するとともに開発申請と国判との関係を再考する。氏は中世の(領主的)開発は散田請作関係の創出であるとし、この開発が荘園制成立の前提であると考えている。その開発の認定にあたってはすでに社領となっているところでも国司・国衙の関与が一般的であったとし、開発における荘園領主権を限定している。

 第三章「中世の水害と荘園制」(水野章二)では、近年の環境史への関心の高まりを受けて水害と荘園制との関連を追及する。氏は荘園史料と近年の発掘調査との突き合わせを広範に行っているが、本書で扱われてきた問題として荘園と国衙との関係を考えることができる。
 ここで特に興味深い史料が提示されているのは、東大寺領美濃国大井荘の例である。揖斐川の水系に属し、現在の大垣市の東部に存在したこの荘園は、華厳会・法華会の料足に宛てられ、東大寺領の中でも重要な位置を占めていた。正治元年(一一九九)の八月から九月にかけて襲った豪雨により、大井荘周辺では大きな被害が出て美濃国衙は堤の修固を国内の荘園公領に命じ、東大寺は笠縫堤を割り当てられ、築堤工事を若干行ったものの、後鳥羽上皇の院宣を得て結局は免除されたというものである。ここに狭義の荘園制の性格が非常に明瞭に現れているといえよう。国家的法会の経費捻出だけが、東大寺領大井荘に課せられた任務であり、それを円滑に進めるための環境的な保全活動に関しての義務は負っていないのである。しかし、であるならば総面積四一〇町の六〇パーセントを占めるといわれる水田の水利システムはどのように担保されるのであろうか。国衙による維持機能が荘内にまで及んでいると考えるのがもっとも合理的であろう。ここに田村氏の「郷−村」、鈴木氏による国衙の開発認定システムを受け入れざるを得ない「荘園制」の社会システムから見た弱点が明瞭に窺える。

 第四章「村落領主制論再考」(小林一岳)は、主に鎌倉時代の在地社会の動向を村落の沙汰人集団の「共和的」な活動にみるものである。田村氏の論点を中世後期まで見通して補強したものと見ることができるであろう。

 第二部の最初には第五章「十二世紀末の戦争を通してみる寄進の一考察」(遠藤ゆり子)が載せられている。現存の文書数の分析の結果として源平内乱期に寄進件数の増加することから、戦争と寄進との関係をみる。戦乱に伴う収奪に対して寄進者側の意図を最大限にくみ上げ、さらに八条院などの被寄進者側の女房の活動を明らかにするものである。確かに本家が期待される役割の中にはこのようなものも含まれるのであろう。

 第六章「中世後期の京上夫の活動」(徳永裕之)では、東寺領備中国新見荘における寛正年間の直務期の京上夫について考察したもので、「百姓狂言」にみられる安定した荘園制は中世後期の社会全体の希望であったとする。確かに東寺領荘園にあっては農民による都鄙間交通がみられることは事実で、そのレベルで文化的交流も存在したと考えられる。

 第七章「九条政基にみる荘園領主の機能」(黒田基樹)は、文亀年間に和泉国日根荘へ下向した九条政基の荘園領主としての機能を分析する。奉行・家僕総勢二〇名で、守護勢力の大海に浮かぶ小島ともいえる入山田村と日根野村東方を維持する姿には、幕府とも関係が深い九条政基のしたたかな所領維持の姿勢が認められるが、相伝の由緒が尊ばれる荘園制の特質もよく示している。

 第八章「荘園制・中世社会について一所有論の視点から−」(蔵持重裕)では、中世の特質を分節社会に見て、次のように結論する。
「荘園制とは、土地の社会的総体的所有体制を前提に、自然的社会的環境に対応した中世社会集団の自立と安全保障を企図した体制で、そのために富と情報の脈管を国家の官僚である京都公武共同体に集中させた統治形態である。」

 近年の中世史研究の深化にともなって提起された社会システムとして極限的に総体化された「荘園制」論であるが、本書の個々の論考とどのように連関するものであるのか説明が欲しいところである。とりわけ、田村氏が提起した「郷−村」社会論とは対極的な位置にあると感じられ、今後の議論の深まりを期待したい。
(えびさわ・ただし 早稲田大学文学学術院教授)





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