落合 功著『近世の地域経済と商品流通 江戸地廻り経済の展開』

評者:中山 富広
「日本歴史」730(2009.3)


 本書には「江戸地廻り経済の展開」という副題が付けられている。本書の書評を依頼されたとき、江戸地廻り経済論にまったくといっていいほど暗い評者に、まっとうな書評と紹介ができるのかと逡巡したが、著者と同じ広島に住む者として引き受けさせていただいた。稚拙な紹介になると思うが、どうか御容赦願いたい。ここ数年、著者は毎年のように御著書を出されており、本書の前年には『地域形成と近世社会』(岩田書院)を世に問い、論文の執筆も含めてその精力的な研究活動には畏敬の念を禁じえない。
 本書の内容は大きく分けると、西上総地方を素材とした物資・商品流通論(第一章)、池上幸豊が実践した砂糖業と新田開発にみる国益思想論(第二章・第三章)、醤油醸造業と幕末期の商品流通を扱った江戸・関東市場論(第四章・第五章)、中京地域の商品流通論(第六章)の四つの主題からなっている。それに研究史を整理した序論、それぞれの主題に関する展望を述べた終章、そして五つの補論が収録されている。

 第一章「『領主的流通』の展開と木更津湊」は、西上総地方の年貢米輸送について、年貢米の集荷を村役人に代わって木更津湊などの船持ちが担っていったこと、年貢米輸送は木更津湊船持ちの特権であったが、近世後期には周辺湊の船持ちによっても年貢米輸送が担われたことを明らかにしたものである。とくに前者の指摘は興味深い事実である。従来の村請制のイメージとは違っており、そのあたりの事情を今少し説明してほしいと思った。本章の著者のねらいは章名に用いられているように「領主的流通」論を提示することにあろう。領主的商品流通か農民的商品流通かという二者択一論による市場構造論ではなく、「産地−船持ち−消費地が封建的な関係で担われている点」(六六頁)、すなわち市場原理がすべてではない商品流通も近世を通じて実現されていたのであり、そうした事情を勘案した商品流通論を展開すべきではないかと主張されているようである。

 第二章「幕府国産化政策の特質と池上幸豊」と第三章「池上幸豊の国益思想と海中新田開発」は、池上幸豊に焦点を当てつつ、幕府が砂糖製法の伝播に努めたことに公的権力としての国産化政策の特質があったことを指摘する。また幸豊の国益思想については「殖産に根差した国富思想」(一五五頁)であり、新田開発もその一環であり、それは国益のみならず地域益の側面もあったとする(そのほか興味深い論点は多岐にわたるが、評者には手短にまとめられそうにもないので省略する)。
 この二つの章をもとに、終章で国益思想論を展開されており、評者にとって勉強になった。国富めば民富むという国富思想に基づいた国益思想と、民富めば国富むという民富思想に基づいた国益思想を提示されているが、たとえばある事業を分析する場合、どの国益思想に基づくかを考察するのは必ずしも容易ではないと思うが、いずれ御教示願いたい。また幕末期に関東の地域益が国益として志向されていく、各藩で国益が主張されていくその背景に著者が何をみようとしているのか知りたいところである。

 第四章「江戸近郊農村における醤油醸造業の展開と人的関係」は江古田村(現、中野区)の山崎喜兵衛家を分析対象として、江戸市場との関係を分析したものである。一九世紀初頭の醤油酢問屋仲間の結成によって同家が江戸市場から後退を余儀なくされたこと、またその代替としての地方売りも順調に進まなかったことを明らかにされている。この章の面白さは、圧倒的な量の史料分析もさることながら、経営分析に「商人世界」という人的関係を持ち込んでいることにあると思う。

 第五章「幕末期商品流通の展開と江戸・関東」は、「御府内」である江戸市場は消費市場としての性格を強め、集散市場としての性格が一層弱まったこと、そして周辺には在郷町を中心とした地方市場が成立したこと、また幕府の対応についても言及され、たとえば「国」の対象に「御府内」、関東、全国という三層に使い分けられていることを指摘されている。

 第六章「中京地域における商品流通の展開」は、陸上交通(宿場)と海上交通(湊)の結節点であった四日市町の成長過程を明らかにしたものである。一〇〇頁にも及ぶ章のため論点は多岐にわたるが、周辺地域との相互依存的な共生的発展をめざした商人の活動、内海船との取引、大和郡山藩などとの密接な結びつきなどが四日市の発展をもたらしたことが指摘されている。それは化粧地の性格が強い江戸地廻り経済圏とは異なるのである。

 五つの補論は省略するが、質屋を安易に高利貸しなどと規定するのを批判し、地域に密着した営業を行っていたことを実証している補論3「質屋渡世の展開」などはとくに興味深く、著者の研究姿勢がよくうかがえるであろう。

 本書をすべて読み終えて、著者がその膨大な史料を先入観にとらわれることなく、かつ丹念に読み込んで、そこから議論を組み立てていくという手法に圧倒されたというべきか。著者は決して最新の流行に走らない。著者は前著『地域形成と近世社会』と本書について、「二冊の副題は、『兵農分離制』『江戸地廻り経済』と、いずれも一九六〇年代に一世を風靡したテーマを盛り込んだ。踏み絵のようにその言葉を使用さえすれば評価される時代でないからこそ、逆に『そんなの古い』と、ただ邪険に敬遠する人が多いからこそ、本書の副題にこれらのテーマを選んだ。たとえ地域が自立していたとしても、権力の視点は欠くことができないし、都市や町との関係を無視することはできないからだ。復古的に議論するのではなく、もう一度議論を喚起してほしいという気持ちを込めている。批判するのと、無視するのとでは研究の姿勢は違うだろう」(『社会経済史学会中国四国部会会報』第三四号、二〇〇八年)と心情を吐露されている。これは江戸地廻り経済圏だけではなく、いわゆる幕藩制的市場論にもあてはまるであろう。この書を機に江戸地廻り経済圏の議論が盛り上がることを願うものである。
(なかやま・とみひろ 広島大学大学院文学研究科教授)



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