小山田義夫著『一国平均役と中世社会』

評者:丸山 仁
「日本歴史」733(2009.6)


 本書は、小山田義夫氏がこれまで取り組んでこられた一国平均役を中心とする中世社会史にかかわる研究をまとめられたものである。

 「造内裏役の成立」では、寛弘二年(一〇〇五)段階の造営形態は造国・所課国方式がとられ、造営費は国衙の官物を転用することが原則であったが、臨時加徴物を国内に賦課することが承認され「造営役」が成立したこと、延久三年(一〇七一)段階を以て、造内裏役は「一国平均の課役」として体制的に成立したことを指摘する。  「十一〜十二世紀における寺院の造営形態」では、藤原道長の建立した法成寺阿弥陀堂は正式な国家事業ではなかったため、所課国方式はとっていないこと、永承二年(一〇四七)の興福寺再建は、諸国所課・封戸・藤原一族の献納によって行われたこと、法勝寺・尊勝寺の造営では、受領個人の成功・賦課成功・国単位の成功といった成功が大きな役割を担っていたことを明らかにする。  「伊勢神宮役夫工米制度について−院政期を中心として−」では、伊勢神宮の式年遷宮において、「造営用物」は調庸物で準備される「官庫之物」で用立てられていたが、律令制度の崩壊にともない各国不動正税を転用するようになったこと、役夫(=一般労働力)は、伊勢以下特定五カ国から国司・郡司による引率によって動員されていたが、代米化形式をとりつつ、さらに全国的規模で賦課する役夫工米制度の施行へと変化したことを指摘する。さらに役夫工米徴収は、国司を弁済責任者とする請負であり、賦課対象が国衙領・輸租荘園から不輸荘園にも拡大されたことを指摘する。  「大嘗会役小考−平安期を中心として−」では、大嘗会挙行用途は、@悠紀・主基国が正税および卜食郡の調庸・中男作物、A中央諸官衙が大蔵省物を中心とする官衙の官物、B悠紀・主基行事所が諸国からの臨時的交易雑物などによって調達されたこと、悠紀・主基国からの「駈使丁」、諸国から行事所への雑物を運進する「徭夫」、供神雑器・由加物貢納国における「造作」「採備」にかかわる使役、京職管内からの「雇夫」等の労働力徴発の存在を指摘する。大嘗会用途調達は、十一・十二世紀になると全体として中央各官衙、行事所による直接徴収という形態をとり、行事所は各国への賦課内容を拡大するも、大嘗会用途の不足という事態は十二世紀後期の段階でも解消しないことを明らかにする。  「承久の大内裏再建事業について−造営費調達形態を中心として−」では、この承久の大内裏再建事業は」範囲は五畿七道に及び、対象は「諸国庄公一同勤」となるものであり、平安後期以来の方式に基づいた造営費調達形態、および諸国荘公への造営費賦課であったことを明らかにする。造宮役の個別免除の基本条件が「保元之免除証文」の有無であり、造宮役調達の統一政策から、後鳥羽上皇の事業完遂に対する強力な意志・意図を指摘する。  「鎌倉期役夫工米政策について−延文四年十月二十四日甘露寺藤長勅答案を中心として−」では、建永度は建久四年(一一九三)官宣旨の一律平均賦課原則に基づきながらも、後白河勅免地、および石清水八幡宮領・賀茂社領については免除を認め、弘安度においては三代御起請地・三社領、および建永以後の原免状を有する所領は免除され、それが延文度の式年遷宮における甘露寺藤長勅答案に「有免除蹤跡」とされたことを明らかにする。  「東寺領垂水荘の解体過程について」では、鎌倉期には出雲局系統が三職を譲渡し、下司請所(現実的な下地所務は在地の有力名主)であったが、東寺は幕府の弱体化・内乱を契機に、出雲局系統を排除し在地の有力名主を支配系列下に置き、雑掌を補任し番頭制を設定することで下地支配を掌握したとする。さらに十五世紀には榎木氏による所務代官制が確立し、荘内に私田をかまえ番頭百姓層と一定の妥協の上に在地化をはかるコース、あるいは一方的に寺家の代官の立場に立つコースという二つの道があったとする。  「鎌倉期の棟別銭について」では、棟別銭賦課の初見である弘安五年(一二八二)の場合をはじめとして、その課徴が朝廷から認可された場合の棟別銭は一国平均役であったこと、棟別銭の課徴目的は、その初期から寺社造営・修造費、寺院供養費調達のためのものが圧倒的に多く、臨時課役という性格のものであったことを明らかにする。  「倉付についての一考察」では、中世後期の算用状などにみられる倉付を分析し、「倉付分」とは年貢高からの除分として在地での留保分のこと、倉付とは年貢納入時に年貢納入農民に対し饗応するための費用であり、そうした饗応慣行は畿内を中心としてその周辺各地に早くは十三世紀中葉、十四世紀以降には広範にみられるようになったと指摘する。  「室町時代の毛利氏について」では、毛利氏の安芸定住に至る過程を、南北朝内乱期における時親・元春ライン(北朝方)と時親の子貞親・孫親衡ライン(南朝方)の分裂、安芸国吉田荘の支配をめぐる元春と親衡の対立を軸とする一族内部での対立とその連続的・重層的展開として描き出す。  「後期義稙政権下の酒屋政策についての一考察」では、足利義稙が大内義興の擁立により再度将軍職についた永正五年(一五〇八)から、京都を出奔し義晴に政権を奪われた大永元年(一五二一)までの十四年間における酒屋政策を政治との関わりで論じる。義稙幕政下における新たな酒屋政策として、@味噌役の課税対象としての設定、A本酒屋兼業の請酒酒税の設定、B専業請酒屋(下売)の検注と課税開始、C京都運入田舎酒への課税実施を明らかにし、統制機関創定の意図を指摘する。さらに、幕府法で権門勢家の被官に対する役銭免除の特権否定を定めながらも貫徹できなかった理由は、大内氏の存在であったと指摘する。

 以上、各論文の内容を紹介してきた。評者の力量不足で要を得ない紹介となっていないことを願うばかりである。  本書は、小山田氏が一九五九年から一九九七年までに発表された論文集であり、読み通すことで氏の研究の全体像がうかがわれる。小山田氏は「室町幕府末期の改治過程の諸側面を段階的に、忠実に追究する試みも歴史研究の上からあながち無意味とはいえないだろう」(三一二頁)と述べておられる。地に足をつけた歴史研究の姿勢について考えさせられた好著である。ぜひ御一読をお薦めしたい。 (まるやま・ひとし 宮城学院中学校・高等学校教諭)



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