胡桃沢勘司編著『牛方・ボッカと海産物移入』 | |||||
評者:青木 隆幸 |
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「信濃」61-3(2009.3) | |||||
第一編 越後経由の移入路 一見して明らかなように、対象地域にアプローチする著者の視野は広く、それは歴史学はもとより、地理学、民俗学にまで及んでいる。これら三つの学問が、それぞれ異なった方法論を持つことは周知のことであり、慎重さを欠いた〈越境〉がもたらした〈悲劇〉の数々も、また私たちがよく知るところなのだが、本書では、学問領域を隔てるこうした壁を越える際に生まれる〈きしみ〉のようなものがどこにも感じられない。筆者は実にしなやかに境界を往来し、街道を生きた者たちの実相に迫ってゆく。おそらくは筆者の資質に由来するのであろうが、その手慣れた手法は、文献史学の世界に胡座をかくことをよしとしない筆者の毅然とした姿勢からきている。恩師宮本馨太郎とともに、幾度も現地を歩く経験の中で獲得された、類まれな能力ということもできよう。 「諸編のなかには初出から三十年以上過ぎたものも有って、「研究成果を問う」との意味合いは最早薄くなっている。そのようなものを集成して一冊としたのは、各編に盛り込んだ資料には、今なお学術的価値が認められるのを、再認識したからにほかならない。資料の中核は古文書と伝承だが、古文書のなかには他では活字化されていないものも含まれている。伝承は、語ってくれた古老の他界により、再録不可能となったものも多い。古文書の閲覧・伝承の記録を快くお許しいただいた方々のご厚意に応えるには、これらが、より広範に活用されるよう、形を整えていかなければならないのである。」(はしがき) 千国街道にせよ、野麦街道にせよ、ボッカや牛方の役割は国道や鉄道などの新交通機関の発達とともに、明治期以降急速に消滅していった。現在、その姿を見ることはない。そもそもボッカや牛方自身もある時期の交通機関の革新によって発生したものである以上、それは避けられないことなのだが、その消滅過程があまりにも早かったために、そして社会全体が「進歩」に目を奪われ、絶えていくものに暖かい眼差しを向けなかったために、ボッカや牛方の記録は十分な形では残されることがなかった。筆者が街道に入った一九七〇年代ですら、「体験者はもちろん実見した人でさえも現在では数少ない」状態であった(八九頁)。ボッカにまつわる思い出話を聞かせてくれたのは「古老達」だった(一〇二頁)。 「(ボッカのような人担輸送機関は)系譜的にはかなり古いものだと言えよう。柳田国男がボッカの出立ちと高野聖のそれには相通ずるものがあると説くことに学びつつ、ボッカ伝承そのものの古さを改めて考え直してみなければなるまい。果たして伝承のどの部分が、かくも遠い時代まで遡りうるのだろうか。」(一四五頁) 「筆者が「生ブリの実態」にこだわるのは、いくら冬季だとはいえ、これが文字どおり刺身にでもできるような無塩であったとは考え難いからである。「生ブリ」とは言うものの、塩は加えられていたのであろう。……近世、年取用として信州に搬入されたブリは「生鰤と表現される甘塩の塩鰤」であったと考える。……近世、人々は年取魚に生物を望んだものと思われる。年間でもっとも重要な儀礼に際し、「生」ということに特別の意義を感じていたからであろう。甘塩のものであるにもかかわらず、あえて「生」と表現した所以ではなかろうか。とすると、それを「塩」と表現するようになったのは、人々の特別な意義に対する認識が薄れたからだということになる。この特別な意義とは果してどのようなことであったのか、またそれに対する人々の意識は何故薄れてしまったのか、その時期は何時頃のことだったのか、考慮すべき事柄は多い」(三二六頁)。 柳田国男の名著『明治大正史世相編』を彷彿とさせる。文化人類学の領域までをも視野に入れた広い問題意識であり、かかる内容を有する本書を論評する力はもとより私にはない。しかし、筆者が本書刊行にあたって、「『研究成果を問う』との意味合いは最早薄くなっている」と述べるのは謙遜であろう。私が知る限り、筆者の業績や問題意識を乗り越える斬新な研究が近年世に問われているとは、到底思えない。本書はけして「歴史的遺物」ではないと考える。近世日本の交通史を学ぶ研究者にとってはもちろん、歴史学・地理学・民俗学の境界を自由に〈越境〉する〈知〉を模索する者たちにとって、それは今も新しい。歴史学を筆頭に、人文系の〈知〉の多くがこぞって、自らを限りなく自己限定し、学界が急速に「蛸壺化」しつつあるこの時代、本書刊行の意義は大きい。 |
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