井上 攻著『近世社会の成熟と宿場世界』 | |||||
評者:和田 実 |
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「交通史研究」68(2009.4) | |||||
宿場町の喧騒が伝わってくる、そんな一書である。本書は、宿場町を宿駅として考察の対象としてきた交通史研究とは一線を画し、宿場町を宿駅と相対化し、都市史や文化史・社会史の視点から論究するものである。 二 まずは、目次を掲げるとともに本書の内容を紹介しよう。 序 章 序章では、本書の問題関心と分析素材が提示され、宿場町の都市史研究の重要性を指摘する。また、本書の考察の対象を神奈川宿本陣石井家文書に収められる日記史料を用いることを述べる。対象時期は、文化期より天保前期とする。これは史料の残存期間に起因するものである。宿場で起こった様々な出来事は公文書のみでは抽出できにくく、記主の主観を考慮しなくてはならないが、日記史料の持つ可能性を指摘する。 第一編は、四章からなり飢饉や火災などの災害が宿場町に与えた影響ならびに宿場側からの対応を述べる。また、従来注目されてこなかった除災祈願や入寺慣行といった習俗的な側面を検討している。 第一章は、天保飢饉時の神奈川宿の様相を検討する。まず、飢僅の被害と宿場側からの嘆願状況を見る。次に米価の高騰状況を見る。神奈川宿は、農村的要素と町場的要素、漁村的要素を合わせ持ち、町場・漁村的側面では米の消費地と位置づけられ、米価高騰が生活上の最大の問題であったという。また、宿場は物資の集散地であり流通の拠点であったため、米価高騰は周辺地域へ広がりを持つ問題であったとする。神奈川宿は湊がある青木町と湊がない神奈川町からなるが、米の津留をめぐって経済効果への波及に相違があり地域において構造的な矛盾を抱えていたことを指摘する。 第二章は、村社会や地域社会の構造や集合心性の問題などを念頭において除災祈願について考察する。まず、虫送りについて、その実施には百姓代などが町役人に願い、町役人が許可して廻状で実施が触れられた。町役人による行事の掌握を確認し、町役人の果たした役割の重要性を指摘する。次に、雨乞の実態を検討する。雨乞は、村の構成員全員が参加する行事であり、村民全員が入用を負担するのが原則であり、虫送りでも村共同体負担と同様の面割と高割によっていたことを明らかにする。また、雨乞や虫送りに関する入用帳が文化年間より作成されることを確認し、この背景には雨乞の成立と村の遊び日が相関しているとする。 第三章は、天保二年(一八三一)正月に神奈川宿で起きた大火を事例に、災害に対する危機管理と対応を検討する。第一節では「宿場と防火対策」として、宿役人が率先して防火対策を採っていた実態が明らかとなった。この背景には連続する家屋という宿場町特有の町割りによる類焼被害の多さ、また火災により幕府より宿場に付与されていた宿場の本来的機能である人馬継立機能などの宿駅機能の低下など事後の影響により防火対策は必至であった。天保二年の大火の際には神奈川宿周辺の村から人馬の提供や見舞いなどの援助活動が行われていたことも確認された。大火により宿駅機能が低下し、本陣や問屋場・旅籠屋の復興が遅れ、混乱を来たした状況や、自力救済能力の限界から幕府からの拝借金や大名などからの合力を求め奔走した様子がわかる。宿場の復興には、土木・建築などの労働市場の需要が増し、職人の賃金の高騰など経済効果をもたらしたことが解明された。 第四章では、近年議論が活発化する入寺慣行について、神奈川宿における火元入寺の実態を明らかにする。まず、火元入寺が制度化され、出火届などの文書書式や手続きが定式化することが確認された。次に、本陣日記より火元入寺の手続きが検討され、運用する宿役人の裁量の重要性を指摘する。火災を内分に済まそうとする宿役人の動態を日記より抽出している。 第二編は、神奈川宿を事例に宿場での文化的側面を考察する。著者がここで留意しているのは、神奈川宿が江戸近郊に位置するとともに、本陣日記の記主である石井順孝が江戸生まれで江戸を身近に感じていたであろうとする点である。神奈川宿を考える際「江戸近郊」であるという点は、重要である。 第五章は、本陣日記より「外出」と「来訪」の記事を抽出し、データ化することにより神奈川宿像を検討している。外出と来訪により外部世界との接触・交流を検討することを目的としている。神奈川宿の上層民は、年頭挨拶や年貢などの上納、訴願・訴訟といったいわば公的な江戸行きや自分たちの生活文化圏の延長としての江戸へ行楽に赴くなど頻繁な「外出」があった。これらにより江戸が身近なものとして位置づけられ神奈川宿の文化を江戸化していったという。「外出」は江戸ばかりではなく、伊勢神宮や秋葉山といった遠方への旅から、大山詣でなど近郊の旅もあり、旅をすることが自身の居住する神奈川を相対化する価値基準を形成することになったとする。 第六章は、神奈川宿の歳事の具体像を抽出することを課題としている。具体的には、本陣日記より歳事を検出し、「繁栄」をキーワードに三点を指摘する。第一点目は祭や法事など社寺の仏事・神事に対する興味である。日記記主にとって、人の集まる歳事の時空間への興味は大きかったとする。第二に節句や祝儀などで行われる礼の遣り取り、贈答・振舞・共同飲食などへの興味である。これらの歳事は神奈川宿の社会関係を確認する機会であったとする。第三には、神奈川宿を通過する参詣者への興味である。他者を認識することは、自らの地域神奈川を確認する地域認識の機会であったという。 第七章では、文政三年(一八二〇)九月に神奈川宿で行われた開帳と相撲興行を検討し、神奈川宿における文化基盤整備を考察する。観福寺で行われた浦島観音入仏開帳では、神奈川宿側が観福寺や付随する浦島観音(浦島伝説のシンボル)・浦島伝説(具体的には縁起)を宿場の文化基盤(観光資源=名所資源)として取り込み、時の旅行ブームに乗じて、神奈川宿の名所として創出・整備していったとする。一方、相撲興行は、飯盛旅籠屋が願主となり開催されたもので、宿場の文化基盤の形成には宿場の上層民のみならず飯盛旅籠屋の財力が一方であり、宿場全体の振興に寄与していたとする。 第八章は、川崎山王社の秋の祭礼の実態や祭を支える氏子組織の動向を考察する。祭礼では神楽の奉納が行われていたが、近世のある時期には奉納相撲も行われた時期があり、入用帳より多額の収支が確認できるという。しかし、天保の飢饉により中止になると後に復活されることはなく、以降は神楽興行が行われたが興行規模は小さく経費も少ない。祭礼の費用をみると、収入は主に氏子町村の負担金や寄付金によっており、相撲興行時には渡船場会所や旅籠屋中からの寄付金もあり、川崎宿を挙げての行事という性格が強かったが、神楽は山王社氏子のみの祭事であったと指摘する。 付論は、近世初期に存在した神奈川御殿に関する史料を整理し、御殿の成立時期と廃絶時期、御殿の利用形態、位置、規模と構造を検討する。 終章では、本書のまとめと本書の書名にもある「宿場世界」について言及する。「宿場世界」とは、現時点で固定化された概念ではないが、序章にて述べられた宿駅を相対化する宿場の実態とし、範囲も宿場内に限らず周辺地域をも包括すると規定する。 三 以下では、思いつくままを記して責をふさぎたい。 著者も各所で述べられるように、本書はあくまでも「江戸近郊」の神奈川であるという地域の特性を読者は十分に理解しなければならない。また、第一章で述べられるように宿場町は農村でもあり、漁村でもあり、場所によっては城下町であったところもある。多面的な構成要素をもつ「マチ」=宿場は、多角的な分析によって論じられなければならない。例えば城下町であるならば、地方都市でも少なからず武士が居住しており、武士が記した日記や藩政史料などにも目を配らなくてはならないであろう。 最後に、本書の書名にもある「近世社会の成熟」に関して、著者なりに本書が「成熟論」において如何なる位置づけたりうるのかといったことに言及がほしかった。 |
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