垣内和孝著『室町期 南奥の政治秩序と抗争』 | |||||
評者:今泉 徹 |
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「国史学」(國學院大學)197(2009.2) | |||||
序 章 南奥中世史の構想 まず序章では、現在の宮城県南部と福島県域を中世の南奥とし、これを一つの地域として考え、その歴史的構造を提起した議論を展開する。十四世紀末に鎌倉府が稲村公方、その後に篠川公方を派遣し、南奥の中央部である郡山周辺に出先機関を置いた。また南北朝期にも室町幕府から畠山氏、石橋氏、二階堂氏らが中奥、南奥支配を補完するために派遣されていた。そのため南奥は幕府と鎌倉府の対立の影響を強く受け、奥州探題大崎氏を中心とした秩序からも分離された、境界地域として特有の政治秩序が形成された。しかし鎌倉府が倒れ、永享十二年に篠川公方が滅亡すると権力の空白が生まれ、これが南奥中世史の大きな画期になっていると指摘する。これにより室町期の政治秩序が崩れ、戦国大名が各地に発生、郡山周辺をめぐって抗争を繰り広げたという全体の見通しを述べている。 そして第T部では、室町期に南奥支配を遂行する権力として幕府や鎌倉府から中通り地方中央部に派遣された諸権力の基本動向を明らかにする。 第一章では、稲村公方足利満貞と篠川公方足利満直の発給文書を分析し、両公方の権力基盤を検討している。その結果、白川結城氏や石川氏宛の発給文書が多く、二氏に依拠した権力と言え、南奥北部の伊達氏や海道の岩城氏ほかの国人、会津の蘆名氏までは十分に掌握できなかった。その白川氏も、応永九年までは鎌倉府に属したが、応永二十三年の上杉禅秀の乱では篠川公方や南奥諸氏とともに反鎌倉府に転じ、稲村公方が南奥から姿を消す。その後に篠川公方が力を持ったが、篠川公方が鎌倉公方の座を狙うようになると両者の関係が疎遠になり、直接室町幕府と結ぶようになった白川氏ら南奥諸氏によって永享十二年の結城合戦の際に攻め殺された。以後南奥諸氏が室町期の政治秩序から解放されて、独自の地域権力に成長していったことを明らかにした。 併せて付論1では篠川公方館の復元を行い、東西一町、南北一町半の規模であるとした。付論2では福島県域の室町・戦国期における城館の分布状況や縄張の分析から、南奥の城郭には拠点と境目の二つの性格が見られ、室町期の秩序が居館の規模や庭園の有無に反映されたこと、十六世紀になって伊達氏側と佐竹氏側という二大勢力の境目となったことが城館の形式や分布状況にも現れていることを指摘している。 第二章では、幕府により南奥に派遣された二本松畠山氏、塩松石橋氏の系譜と存在形態を扱っている。貞和元年に奥州管領として派遣された畠山氏は吉良氏との抗争に敗れて没落、二本松に本拠を移して二本松殿となった。また奥州管領補完のために貞治六年頃に陸奥国大将として派遣された石橋氏も南奥諸氏に所領安堵をするなどしたが、次第に力を失い、正長年間には塩松に拠点を移した。二本松畠山氏、塩松石橋氏は力を失いながらも、奥州管領に準じた存在で、国人より上位で羽州探題最上氏並の扱いを受けていた。その理由は稲村公方、篠川公方が滅亡して南奥に上位権力がなくなったためにその属性が注目され、戦国期まで地域権力として生き残ることにつながったためだと結論付けている。 第三章・付論3は、須賀川二階堂氏の基礎研究である。 第U部 南奥戦国大名の成立では、岩城、蘆名氏、白川結城氏が室町期の政治秩序の崩壊後に戦国大名化を遂げる過程を分析する。 第四章では岩城氏を扱う。応永十七年頃に親幕府側の岩城氏が国人岩崎氏を倒して一族に継承させたが、嘉吉三年〜文安四年の岩城氏惣領家清隆と岩崎氏の抗争が起こる。清隆を支援した岩城氏庶流白土岩城隆忠が白川氏の支援を受けて台頭し、寛正二年〜文明六年の抗争で隆忠の子親隆が岩崎氏・白川氏を破って大名権力を確立したとする。そして発給文書の分析から、領国が拡大した重隆の代と、佐竹氏の後ろ盾を受けるようになった常隆の代に権力の画期がみられると指摘する。 第五章では戦国大名蘆名氏の誕生過程を扱う。先行研究が『会津旧事雑考』『異本塔寺長町』を充分な史料批判なく多用することを批判し、宝徳から長享の内部抗争を詳細に検討した。その結果、宝徳から享徳年間の抗争で、蘆名本宗家と敵対した典厩は、通説に言われる宿老松本氏ではなく、左馬助を称する蘆名一門で、抗争の性格は蘆名盛詮との家督継承争いと考えられること、この際蘆名氏は白川直朝の介入によって抗争に勝ったことを指摘した。一方長禄年間の蘆名盛詮と、白川氏、蘆名配下の国人山内氏との抗争では、蘆名氏が白川氏の影響下から独立する戦で、この抗争を制して蘆名氏は戦国大名となったことを明かにした。 第六章では、南北朝の動乱で広域的行政権を分与され、南奥で最大勢力となった白川結城氏を取り上げ、本宗家と、これに匹敵する権力を持つ一門の小峰家との間で戦国期に起きた、数度の内訌について検討する。まず永正七年九月、白川家を一門の小峰氏が簒奪した永正の変について、結城錦一氏(『結城宗広』、結城宗公事跡顕彰会刊、一九四一年。以下、結城錦一説は同書による)の、白川政朝が勢威を恐れて小峰朝脩を自害させたために、小峰氏が政朝嫡子顕頼と結んで、政朝と顕頼弟顕朝を追放、顕頼が家督を継いだという説を再検討する。朝脩の関係文書が永正十年代までみられ、顕頼は当時既に壮年になっているので、永正の変で白川氏の家督を継いだのは顕頼ではなく、小峰朝脩の子義綱であるとした。内訌の背景には古河公方足利政氏・高基父子の抗争があり、政氏方の小峰氏に対して、白川氏は消極的だった。この変で小峰氏が姿を消すのは、小峰氏が断絶したのではなく、小峰氏が白川氏を併合したからであることを明らかにした。 付論4では諸説ある天正の変を扱う。拙稿(「白川天正の変再考」『戦国史研究』四一号、二〇〇一年。)と『白河市史』通史編1(白河市、二〇〇四年)は、結城錦一氏の主張する天正三年ではなく天正二年正月に起きたもので、佐竹氏が白川善七郎義顕を白川義親に対抗して蜂起させて白川家中を分断した事件とする。また市村高男氏は、白川隆綱は義親より五年位年長と見られるために別人であり、隆綱の権力を永禄十年頃に義親が簒奪した(「戦国期白河結城氏代替わり考−白河結城文書の再検討−」矢田俊文編『戦国期の権力と文書』、高志書院、二〇〇四年)と主張する。これに対して垣内氏は、天文三、四年の伊達・蘆名・二階堂氏らと岩城・白川氏との抗争の和睦に際して、会津から帰還した顕朝の子を善七郎に比定した。さらに結城錦一説のように天正三年正月にも白川家中で抗争があり、佐竹の後ろ盾で白川氏家督となった白川善七郎を追って白川義親が家督を奪還したと主張する。しかし天正三年に勃発したのなら佐竹氏側にも関連史料があるはずだが、それもないのでどう考えたら良いだろうか。 第V部では仙道の戦国期地域権力、田村氏と安積伊東氏の動向を解明する。 第七章では田村氏の系譜と、熊野山新宮領の年貢徴収に預かった蒲倉大祥院関係文書の分析などから、田村氏の権力形成過程を分析した。先行研究では南北朝期の動乱と応永二、三年の田村荘司の乱で藤原姓荘司系田村氏が没落し、代わって平姓三春系田村氏が台頭して地域権力となったとされる。しかし検討の結果、応永の一揆でみられる田村氏一族は平姓で藤原姓ではなく、平姓荘司系田村氏が平姓三春田村氏に発展し、一族一揆的結合から戦国大名化を遂げたとする。 第八章では天正十五年の作成とされる『田母神氏旧記』と近世に作成された『田村家臣録』と『田村系譜』の分析から、戦国期田村氏の家臣団構成と権力構造を論じる。家臣団は居館を持つ田村名字の一門、一族や一族扱いの国衆からなる家門、宿老、執柄の大奉行らの重臣、外様家臣の旗下、下層家臣層からなる幕下、という構成で、三春城を中心にして、田村氏一門や家門のもとに東西南北に編制されたという。次に城館の縄張や分布状況を検討し、田村一門や家門の自立性の高さを指摘し、田村氏は戦国期も一族一揆の盟主としての立場を克服できず専制的権力を確立できなかったとする。 第九章では文献史料が少ないために十分に検討されてこなかった、安積郡の国人伊東氏の歴代と本拠を考証する。まず「伊東家系譜」の信憑性を検討し、嘉禎年間頃に史料上に現れて初めて安積を称した伊東祐長を安積伊東氏初代とする。その上で、祐時・氏祐以前までは惣領家の系譜であるが、蘆名氏に従属した宗祐以後については伊達氏に臣従した伊東氏の系譜であると指摘する。次に伊東氏の居城を考古学的・歴史地理学的に分析し、同氏が片平城を居城としたのは十五世紀でそれ以前の拠点は郡山市の堀之内館と推定した。 第十章では安積伊東氏一族大槻伊東氏とその重臣相楽氏の動向を整理し、大槻城と相楽氏の居館堂山館の構造を考古学・歴史地理学的手法から復原した。大槻伊東氏は伊東祐経の子で安積伊東氏の初代祐長の兄祐時から始まる。永正年間の伊東高久から動向が明確になり、蘆名氏に臣従していた。相楽氏は遠江相楽氏一族で、二階堂氏が相楽荘を領して臣従し、二階堂氏が南北朝期に岩瀬に入った際に移住し、後に伊東氏に臣従した。
まず第一に、垣内氏は一郡程度の領主から、伊達氏のような広域的な地域を支配した権力も一律に戦国大名とする。しかし同じく儀礼上館扱いを受けているといっても、実勢力と大きく乖離しているものである。独立して存立できる戦国初期の白川氏、および岩城氏、伊達氏、蘆名氏、戦国後半に南奥に進出した佐竹氏らは戦国大名といってもよいが、一、二郡程度の勢力圏しかない二階堂氏や二本松畠山氏、田村氏らは他氏の後ろ盾がないと単独では存立できないので、地域権力として区別した方が良いと思われる。 第二に、篠川公方から白川や石川氏への発給文書が多いので両者が密接な関係にあったことはうかがえるが、どの程度白川氏や石川氏が稲村・篠川公方を支えていたのか不明である。伊達氏などは従わないのに両氏だけが公方権力を支えたのは、両氏にとって大きなメリットがあったためであろう。両者の関係をさらに追究する必要があるのではないか。 第三に、篠川公方足利満直が南奥の国人らに攻め殺されると、中通り地方に権力の空白が生じたと主張するが、足利成氏が鎌倉公方として復帰すると、両者の関係は復活し、古河公方が成立しても続く。特に白川氏や岩城氏らは、永正年間に始まった足利政氏・高基父子の内訌にも出兵するなど密接な関係がある。また天文年間以降に佐竹氏が南奥に進出を始めるが、白川氏は古河公方に度々仲裁を求めている。さらに南奥諸氏は室町幕府との交渉も活溌で、自ら上洛したり、馬などを贈答するなどの事例がみられる。つまり室町から戦国への転換期に南奥の出先機関を通した関係から、古河公方・室町幕府との直接的関係に変化したわけで、室町幕府と関東足利氏との政治的権威をめぐる綱引きが戦国期にもまだ残されており、篠川公方滅亡後で何がどう変質したのか、さらに検討する必要があるだろう。 第四に、室町期南奥の政治秩序が崩壊して権力の空白が生じ、有力大名は中通り地方の周辺地域で蘆名氏や岩城氏などが戦国大名となり、街道上には田村氏、二本松畠山氏、塩松石橋氏、須賀川二階堂氏など中小の地域権力が群生した。そして戦国後期に常陸佐竹氏が南奥中通り地方進出を目指し、伊達氏も中通り地方を南下していき、両者が二大勢力を形成して南奥で激突する。このような権力の分布はこの地域の地政学的特性が大きく影響したのではないか。 以上、何点か述べてきたが、中世後期における南奥の政治権力の実態を丹念に追求した、本書の価値はいささかも揺るがない。残された課題も垣内氏の今後の研究でさらに解明されることであろう。また筆者の誤読、誤解によるところがあるかもしれない。ともかく本書が東国中世史研究の基本的かつ、必読の研究書であることは間違いない。ぜひ一読されることをお勧めしたい。 |
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