田沼 睦著『中世後期社会と公田体制』

評者:榎原 雅治
「史境」58(2009.3)


   一

 本書は宮内庁書陵部および筑波大学において長年研究・教育に携わってこられた田沼睦氏の諸論文を集成したものである。まず掲載順にしたがってその内容を紹介しよう。

 第一部第一章「寺社一円領における守護領国の展開−東寺領丹波国大山荘を中心にして−」は、一五世紀以後の大山荘における有力農民による村落自治の成立と、そこに徐々に守護勢力の支配が及んでいく様子を検討したものである。特に守護による段銭徴収に注目し、南北朝期より幕府段銭の徴収譴責の権限が守護に委ねられたことが、守護の勢力が寺社本所領荘園にも浸潤していく契機となり、さらにはこの幕府段銭の徴収を梃子に、一五世紀半ばになると、丹波守護細川氏は独自に守護段銭を管国内に賦課するようになったことが明らかにされている。また多種の守護人夫役が頻繁に課された結果、大山荘が守護の経済的基盤と化していったことが主張されている。

 第二章「国衙領の領有形態と守護領国」は、室町期における国衙領、特に非東国地域の国衙領と守護の関係を検討したもの。東国諸国と異なり、畿内・西国においては国衙職は寺社・公家などの王朝側勢力に安堵されていたが、本章では醍醐寺三宝院が国衙職を有していた尾張の例が詳細に検討される。守護斯波氏は尾張国衙領の総代官としてその年貢を請け負い(国衙領年貢の守護請)、自らの被官人を、国衙領を構成する各郷保の代官に任じる、あるいは各郷保に既存の地頭層を代官に任じることによって給人化していくという形で、国衙領を事実上守護領化していったとされる。

 第三章「公田段銭と守護領国」は、室町期の段銭が大田文に記載された公田数を基準に賦課されていたこと、また一五世紀半ば以後、守護段銭が成立することを明らかにしたうえで、山名、大内氏らが守護を勤める中国地方の諸国では、守護は恒常化した段銭の取得権を管国内の領主に認めることによって領主たちを給人化し、「部分的知行制」を実現していたことが指摘されている。さらに守護と領主の力関係によって公田数の増減(再編)が行われていたこと、山名氏は播磨東部三郡の守護職を獲得した際、荘園の田数、年貢高、国人の当知行地や闕所地の状況などの把握に努めていたことを明らかにしている。

 第四章「中世的公田体制の成立と展開」では、鎌倉期までは荘園と対置される公領という意味で使われていた「公田」の語が、南北朝期、一国平均役の課徴主体が幕府に移ったのちは、大田文記載田数を表すこととなったとされる。一方、この「国家的公田」とは別に、それぞれの荘園領主や国人領主が把握している荘園の田数である定田をさして「公田」の語が使われる場合があることが指摘され、これを「領主的公田」と呼んでいる。そして一五世紀末には、国人領主がみずからの「領主的公田」に段銭を課している例が見られることに注目している。特に安芸国毛利氏の所領における文安三年(一四四六)の役夫工米(段別五〇文)の賦課方式を検討し、「国家的公田」三〇町であった毛利氏が、領内にあっては「領主的公田」六七〇町に段別三文を課し、五貫余の剰余を得ていたことを明らかにしている。つまり、国人領主たちは公田の重層性をよりどころに、本来「国家的公田」のみにかけられるべき国家的な賦課を「領主的公田」に転嫁することによって領主段銭を成立させ、事実上の収奪の強化を果たしていたことを明らかにしている。

 以上の各章は一九五九〜七〇年に個別に発表された論文であるが、第五章「室町幕府と守護領国」は『講座日本史三 封建社会の展開』(一九七〇年、東京大学出版会)、第六章「室町幕府・守護支配と公田体制」は『岩波講座日本歴史七 中世三』(一九七六年、岩波書店)に発表された講座論文である。

 第五章では、六〇年代の「守護領国制」研究が回顧され、地域的封建権力としての未熟さと、将軍の直属軍事力・経済的基盤についての解明が進んだと指摘される。さらに荘園制研究においても、荘園制的所職と守護が共存関係にあることが明らかになり、結果として「守護領国制」の語にかわって「室町幕府−守護体制」という語が多く使用されるようになってきたことが指摘される。それを前提に、所領安堵権、奉公衆など室町将軍の権力基盤についての当時における研究の達成点が紹介されたのち、守護の管国支配の具体的様相として、前四章で明らかにされた公田段銭をめぐる諸問題、国衙機構と国衙領の掌握の問題などが再論されている。

 第六章は、収録された講座の中で室町期政治史の総論としての位置を与えられたもので、一 幕政の推移、二 室町幕府の権力構造、三 守護の領域支配の展開と国人、という構成となっている。一では専制と合議の間で揺れる義満から義教に至る幕府政治の過程、二では守護・奉公衆と公田支配を軸とした幕府の基本的な権力構造が述べられる。この時期の国家体制を室町幕府−守護体制ととらえる視点からまとめられているだけに、守護在京制、将軍による惣領職補任権など、守護の将軍に対する求心構造や、幕府財政の基幹としての守護出銭の意義が強調されている。三では守護の国衙領掌握や段銭賦課とともに、指出による国人所領の把握と軍役収取にも着目して守護の領域支配の展開が追究されている。

 第七章「室町幕府財政の一断面」では、甘露寺親長の残した「文正度大嘗会切符案」を主材料として、文正元年(一四六六)に行われた後土御門天皇の大嘗会の費用の調達と支出の構造が検討される。そして段銭と守護出銭による調達、朝廷からの支給要請から支出に至るまでの手続きと、その過程に関与する伝奏(公家)、幕府奉行人、公方御倉らの役割が詳細に解明されている。室町期の大嘗会について財政面から追究とした研究としては、おそらく現在でも最も詳細な論考であろう。幕府・朝廷・御倉の関係を知るうえでも興味深い点が多い。

 第八章「荘園領主段銭ノート」は、摂関家の一つ、九条家が諸国の自領荘園に課した領主段銭の賦課・徴収過程を検討したもので、室町中期には九条家の領主段銭が、幕府御教書によって賦課・徴収されていたことが明らかにされている。

 第二部「中世後期荘園制の諸相」には荘園関係の論文が収録されている。
 第一章「南北朝・室町期における荘園的収取機構−東寺領丹波国大山荘を中心にして−」では、おもに南北朝期から応仁の乱に至るまでの、大山荘の荘民の階層構造と東寺による収取方式の変遷を追ったものである。南北朝期、東寺は詳細な土地台帳を作成して荘民を把握し、安定的な年貢収取を実現していたが、一五世紀にはいると階層分化が進行して年貢の未進や損免要求が相次ぎ、年貢収取に支障をきたすようになった。そのため東寺は在地の武士を登用した代官請負制に切り替えざるをえなかったが、請負代官も荘民の支持を得た者でなければ年貢徴収を果たすことができるものではなく、結局この体制も東寺の意図したような結果をもたらすものではなかったことが指摘されている。

 第二章「公家領荘園の研究」は九条政基下向期の日根野荘についての研究である。今日では多くの研究が積み重ねられ、数多の研究者に言及されている日根野荘であるが、本章論文の初出時は『図書寮叢刊 九条家文書 政基公旅引付』の刊行前のことであり、同引付によって戦国初期の日根野荘の様相を紹介した最初の研究論文である。当時の日根野荘における番頭層の職務と村落との関係、年貢収取をめぐる九条政基と和泉守護細川氏や在地領主日根野氏とのかけひきや抗争などがコンパクトに紹介されている。

 第三章「荘園体制の解体過程」は鎌倉初期から戦国中期に至る摂津国垂水西牧の成立と解体の過程を考察したものである。論点は多岐にわたり、鎌倉中期における春日社による本所権の掌握過程、南北朝期の収取体制の再編と村の成長との関係、室町・戦国初期における守護被官ら国人勢力の浸透による春日社支配の衰退過程などが詳述される。章題からすれば最後の点に主たる執筆意図が存するものと思われるが、複雑さから研究の混乱していた番頭制の解釈を鮮やかに解決している点、牧内の郷の中に成立してくる村と番の関係を明らかにしている点など、「解体過程」以外の部分についても注目すべき指摘が多い。

 第四章「室町期荘園研究の一、二の視点」は九条家領荘園を主な対象として、室町期の荘園の年貢収取のあり方を検討したもの。当該期の九条家領荘園では、守護被官の武士たちによる公用年貢方式(請切年貢)の代官請となっており、これは荘園領主の領主権の放棄を意味していたこと、一部の幕府料所や守護領においても同様のことが見られたことが指摘される。またこの時期の荘園関係史料に見える「本役」という語に注目し、これは在地の領主や給人から荘園領主に収められるわずかばかりの年貢のことであるが、この本役の取得をもって荘園領主が当知行を主張することもあったことが指摘されている。

   二

 以上、本書の章立てに従ってその内容を紹介してきたが、各章を初出の順に読み直すことによって、田沼氏の研究の軌跡を理解してみたい。並べ替えると次のようになる。

@第二部第一章「南北朝・室町期における荘園的収取機構」一九五八年
A第一部第一章「寺社一円領における守護領国の展開」一九五九年
B第二部第二章「公家領荘園の研究」一九六〇年
C第一部第二章「国衙領の領有形態と守護領国」一九六五年
D第一部第三章「公田段銭と守護領国」一九六五年
E第二部第三章「荘園体制の解体過程」一九六六年
F第一部第四章「中世的公田体制の成立と展開」一九七〇年
G第一部第五章「室町幕府と守護領国」一九七〇年
H第一部第六章「室町幕府・守護・国人」一九七六年
I第二部第四章「室町期荘園研究の一、二の視点」一九七六年
J第一部第七章「室町幕府財政の一断面」一九七七年
K第一部第八章「荘園領主段銭ノート」一九九二年

 このように見ると、田沼氏の研究の重点が年代とともに変化しているのが知られる。一九五〇年代に書かれた二つの論文は守護勢力の浸透によって荘園制が解体していく様子を描いたもの。六〇年代に書かれたものは公田体制研究を中心とし、七〇年以後は、幕府・将軍の役割や中世後期荘園の実態に着目した研究となっている。そこには中世史学界における研究動向との関連がみとめられる。

 本書の中心をなし、書名にも採用されている「公田体制」とは、いうまでもなく入間田宣夫氏によって提唱された、日本中世の国家体制をとらえるための概念である。公田とは、大田文に記載された田のことで、実際の耕地面積とは一致しないが、その記載田数は、平安末期より戦国初期に至るまで、朝廷や幕府が国家的な所役を公家領・武家領・寺社領・国衙領の区別なく課するときの基礎数字となっていた。つまり、公田とは国家と個別領主の間で政治的に合意された制度であり、これこそが自立性の強い領主たち(権門)がゆるやかに結束することによって成り立っている中世国家における統一的な土地支配制度である、というのが、公田体制論の眼目である。

 一九六〇年代半ばに提唱されたこの論は、現在でもなお有効な論であると評者は考えているが、当時、この論に最も鋭い反応を示した研究者が田沼氏であったろう。田沼氏はこの論を中世後期社会把握のために有効なものとするために、中世後期独自の視点を打ち出している。その実証的な成果が本書の第一部の諸章、特に第一、第三、第四章である。これら諸章において田沼氏は、公田体制論を単に室町期の社会に適用するだけでなく、公田に課された段銭の恒常化と守護段銭の成立、守護による段銭賦課・徴収権の被官への安堵、この二点の立証に力を傾注している。
 これらの諸点に加え、国衙領に対する守護支配とその国人層への給付について論じたCを合わせ見れば、田沼氏が展開した公田体制研究の当初の意図が、守護と国人層の間に成立していた給人知行別の立証にあったことは明らかである。ここに、著者の公田研究が守護領国制論の大きな影響を受けてなされていたことを読みとることができよう。

 しかしながら著者自身も指摘するように、六〇年代の守護や将軍権力についての研究の進展は、守護領国制概念がそのままでは成り立ちえないことを立証することとなった。そうした研究動向をふまえ、七〇年代以後の著者は中世後期の政治構造を「室町幕府−守護体制」と呼んで、守護権の幕府から授権された側面を重視するようになるとともに、公田体制研究自体も、DとFの間では微妙に変化している。すなわち、Dでは守護の公田再編、守護段銭の創出、国人への給付に力点が置かれているが、Fになると、「国家的公田」と「領主的公田」の重層性が着目され、そこからもたらされるところの国人領主の在地支配の強化が重要な論点として浮上している。その間の変化には、中世後期の封建制の担い手として守護よりもむしろ国人に注目すべきであるとする国人領主制論の展開が影響しているだろう。またこの時期の研究においては、中世後期の荘園の独自のあり方や幕府財政にも目が向けられるようになっている。

   三

 以上のように、学界の動向にしたがって、田沼氏が主張の重点を少しずつ移動させながら研究を展開していたことは明らかであると思う。それだけに、八〇年代以後の中世後期の権力論の進展の中で氏自身の発言が聞かれなかったことは残念である、という思いは禁じえないが、八〇年代以後の展開を越えてなお反芻され継承されるべき著者の研究の研究史上の意義についてまとめておきたい。

 第一にあげるべきは、平安末期に始まる一国平均役に系譜をひく段銭によって果たされる朝廷・幕府の公事の遂行が、室町期においてもなお幕府の重要な国事であったことが明らかにされた点であろう。これによって、室町期の国家の性格について、封建制国家成立過程のどの段階か、という武家政権発展史的な観点からではない観点から評価する道が切り開かれたのではないだろうか。またこの成果によって、平安末期より室町期に至るまで継続する中世国家を具体的に論じていく方法が見えてきたように思われる。現在、室町期の国家を論じるとき、幕府だけでなく朝廷をも視野に入れて論じることは常識となっているが、そうした常識の基礎は田沼氏の段銭に関する一連の研究や大嘗会経費についての研究によって築かれたといってよいだろうか。

 第二には、守護と国人との間の給付関係についての実証研究があげられる。公田を媒介とした守護による国人の給人編成や、公田の重層性に注目して国人領主の領域支配の進展を史料的に明らかにした点は、室町期領主制に関する実証研究として特筆されるべきものであろう。また守護領研究は、守護領国制論の衰退により、現在ではまとまった形では行われなくなった研究である。確かに守護領国制論はもはや成り立つものではないが、守護の経済的基盤の検証や国人との間の給付関係の実態解明が放置されてよいわけではないだろう。近年は守護出銭が室町期の幕府財政ばかりか朝廷財政をも支えていたことに注目する研究も現れている。そうであればなおさら、守護の財源は何であったのか、それぞれの管国内における守護領(国衙領、請負荘園、また守護代や守護被官による請負も含む)の抽出やその支配の実態についての考証は必要となってきているように思う。田沼氏の研究は再度参照にされるべきであろう。

 第三には、中世史研究者の間に「室町幕府−守護体制」概念を定着させたことがあげられる。この用語自体は田沼氏の造語ではないようであるが、いわゆる講座論文において室町期の国家体制をとらえる語として、この呼称を標榜したことの影響は大きく、この概念は田沼氏によって定着したといっていいだろう。現在、戦国期の権力構造をもこの概念の適用によって理解しようという潮流があるが、田沼氏の公田研究もまた、「戦国大名の領国支配の基礎−特に収取の基幹部分となる段銭・棟別銭課徴の歴史的前提」の解明という意図を含んだものであった。現在行なわれている守護権を重視した議論は課徴だけの問題にとどまるものではないが、室町期と戦国期の政治構造を継起的にとらえようとする意図をもったものとして「室町幕府−守護体制」概念が定着されたことは、田沼氏の功績として記憶されるべきものであろう。また氏の一連の研究を、戦国期を理解するうえで守護公権に注目する研究潮流の嚆矢として位置づけることが可能であろう。

 第四には、中世後期荘園への着目があげられる。「政基公旅引付」を用いて戦国初期の日根野荘の様相を描いたBは、それまでは守護や国人による「侵略」によって解体していくものとしてしか描かれていなかった後期の荘園をとりあげ、その内部の荘民の主体的な動向や荘園領主の直務の具体相に脚光を浴びせた早期の研究であるといえよう。Kも幕府の保護政策のもとで戦国期まで存続している摂関家領荘園について考察している。いずれも個別研究の範囲にあるものではあるが、現在、中世後期社会を理解するための切り口として荘園制に着目しようという「室町期荘園制研究」が提唱されているが、田沼氏の研究はその先駆けとなるものであろう。

 次に田沼氏の研究に対する評者の立ち位置を述べておきたい。すでに触れたように著者の公田体制研究からは、平安末・鎌倉期と室町期のみならず、戦国期をも公権を軸に継続的にとらえる歴史理解が生まれると思う。それは田沼氏の研究の大きな意義であるし、また日本中世にそうした面があったのは事実であろう。しかし国家あるいは権力のもつ「公」としての側面は絶えず社会とのせめぎ合いによって再定義されるものとして理解すべきであると評者は考えている。そうした意図のもとに、評者は室町期の地方社会を理解するに際し、守護権を重視する一方で、在地の宗教秩序に示される地域社会の自律性との応答によって、中世後期の守護権が再定義されていくことを論じたことがある。守護権の重要性は認識しつつ、その「公」としての性格を不変にして先験的なものと見なす歴史理解に陥らない工夫を施したつもりである。したがって自分自身では田沼氏の批判的継承者だと認識している。

 最後に本書の編集方針について触れさせていただきたい。本書は初出時の論文をそのまま収録する方針とされたようである。一つの見識だと思うが、何らかの形で各論文の初出当時の意図や中世史学界の動向についてのコメントが付されていれば、著者の研究の全体はより理解しやすかったのではないかと思う。また各章の注に記された論文、史料の典拠も初出時のままのようであるが、その後の各研究者の著書や史料集の刊行によって、より参照しやすい収録形態になっているものが少なくない。また引用されている論文の発表年代の有無も統一されていないが、この点にも配慮していただければ、著者の主張を検証し、また研究史を理解するための便となったかと思う。

 以上、非礼を省みず雑駁な感想を述べてきたが、本書に収録された公田関係の諸論文は、評者にとっては研究を始めたころに多大な刺激を受け、格闘しなければならなかったものである。そうした諸論文が一冊にまとめられ、若い研究者に読まれやすい形となつたことを喜びたい。また書評の機会を与えていただいたことを、編集委員会に感謝申し上げたい。

(東京大学史料編纂所)



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