平野明夫著『徳川権力の形成と発展』

評者:矢田 俊文
「日本史研究」549(2008.5)


 本書は、松平・徳川氏を素材に、戦国・織豊期における権力の様相を明らかにしようとした論文集である。

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 本書の構成と内容は、以下の通りである。
 序論は、近世・近現代における松平・徳川氏研究史が書かれている。

 第一章「戦国期の松平・徳川氏」は、四節からなる。
 第一節「松平宗家と今川氏」は、今川・松平両氏の関係を明らかにすることにより天文六年(一五三七)から永禄三年(一五六〇)における松平権力について考察したもので、松平氏は家康元服以前に領主としての正当性と権力機構を保持しており、戦国期権力ヘの道を歩み始めていたとする。
 第二節「徳川氏と足利将軍」は、徳川氏と将軍義輝・義昭との交渉の事実を確認することにより当該期の徳川氏の政治的立場を考察したもので、永禄四年(一五六一)が徳川氏の足利将軍家との交渉の初めであり、徳川氏は天正元年(一五七三)に義昭が京都から追放されると義昭の要請に応じなくなったとする。
 第三節「三河統一期の支配体制」は、三河統一期における徳川氏の支配体制について究明したもので、東三河を酒井忠次、西三河を家康が支配するという体制であったとする。
 第四節「徳川氏の起請文」は、起請文の分析により戦国・織豊期徳川権力の究明をめざしたものである。起請文様式は誓約の内容が確かであることをより強く伝達するための様式であり、宛所は書札礼を反映していること、家康起請文の発給の契機は、主従関係確認、大名間の盟約確認、織豊政権への臣従・忠誠、剣法相伝など個人的な起請文という四つに大別できること、また、家康の起請文は酒井・石川連署起請文、「証人」あるいは使者の起請文、家康知行安堵状が、組み合わさって機能したとする。

 第二章「織豊大名徳川氏」は、四節からなる。
 第一節「徳川氏と織田氏」は、徳川氏と織田氏の関係を論じたもので、織田氏と徳川氏は永禄三年(一五六〇)桶狭間の戦い直後に領土協定を行い同盟を成立させたこと、書札礼については、織田氏は徳川氏に対して永禄十二年(一五六九)から天正元年(一五七三)まで対等の書札礼を用い、天正五年以降、下様に対する書札礼をとったこと、軍事については、天正三年以降の織田氏は、徳川氏を臣下と位置づけていたとしている。
 第二節「豊臣政権下の徳川氏」は、豊臣政権と徳川氏の諸関係を明らかにすることにより、この時期の徳川氏の歴史的性格を考えようとしたものである。徳川氏の五カ国総検地・天正検地は、豊臣政権の命令に基づくものであり、方式においても太閤検地との差異はないに等しく自立性を示すものではないこと、家康が豊臣政権の中枢に立ち、政策に関与するのは文禄四年(一五九五)八月以降であるとする。
 第三節「徳川氏の年中行事」は徳川氏が開催した年中行事を検討したもので、年中行事には、徳川支配領域全体に関するものと、本城(浜松城・駿府城)・岡崎城それぞれ個別に行われるものとがあったこと、また、深溝松平家のように家臣それぞれ家ごとの年中行事があったとする。
 第四節「松平庶家とその家中」は、深溝松平家の年中行事を検証し、さらに深溝松平家忠・大給松平真乗とそれぞれの家中との関係を考察したものである。

 第三章「統一権力徳川氏」は二節からなる。
 第一節「江戸幕府の謡初」は、主催者の視点から謡初を検討することによって統一権力となった徳川氏の権力構造を明らかにしようとしたもので、謡初は番方によって遂行された行事であり当初は外様大名の列席は限定されていたが、元禄から宝暦までの間に外様大名の多くも列席するようになり披露役が酒井家の役から老中の役へと変化したとする。
 第二節「徳川将軍家代替わりの起請文」は代替誓詞について検討したもので、近世の主従関係は誓約と土地によって成り立っており、そうした主従関係は秀忠から家光への代替わりの時に成立していたとする。

 結論「中近世移行期の権力」は、一章から三章で論じたことを基にして、中近世移行期権力の歴史的性格を明らかにしようとしている。
                                        
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 平野氏の論文のうち特に評価すべき点は、以下のようなものである。
 一つは、書札礼によって権力間の変化を明確にしようとした点である。氏は、徳川氏と織田氏の関係を書札礼の変化に注目し、永禄十二年から天正元年まで対等の書札礼を用い、天正五年以降、下様に対する書札礼をとったとしている。書札礼の研究が権力研究に有効であることを示した。
 二つ目は、戦国期権力を起請文という一つの文書様式から明らかにしようとした点である。戦国・織豊期権力研究は、文書・日記等の確実な史料にもとづき行われるべきである。文書によって分析を行う場合、文書に書かれる内容を抜き出すのではなく、その文書がどのような様式で何が明らかにできるのかを検討しなければならない。戦国・織豊期は起請文という様式をもつ文書が数多く残っている。氏は、起請文を蒐集し、古文書学的検討を行った上で、戦国期権力の解明を行っている。戦国期権力研究のための分析方法として評価できる。

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 平野氏に明確にしていただきたいことについて、次の二点について述べる。
 一つ目は、書札礼による権力分析の限界について論じていただきたかった。書札礼の変化の検討は確かにある権力とある権力の上下関係の時期を理解するには有効であると思う。しかし、書札礼から当該期の権力の本質、権力の有り様がわかるわけではなかろう。書札礼からは権力の実態まで明らかにはできない。
 二つ目は、五カ国総検地についての理解である。氏は、徳川氏の五カ国総検地・天正検地は、豊臣政権の命令に基づくものであり、方式においても太閤検地との差異はないに等しく自立性を示すものではないとする。本当に、徳川氏の五カ国総検地は徳川氏の自立性を示していないのであろうか。
 池上裕子氏は、越後の上杉氏は慶長期に独自の支配領域の検地を行っているとする(同「検地と石高制」『日本史講座』第五巻、二〇〇四年)。私も上杉氏は独自の検地を行っていると理解している。もちろん池上氏は徳川氏も独自の検地を行っていると理解されている。上杉氏・徳川氏が独自の検地を行っていることは間違いない。たぶん、平野氏も独自の検地を徳川氏が行っていると考えておられると思う。しかし、平野氏は、独自の検地を行った権力であっても、それは自立性を示すものではないという。これはなんだろうか。
 本多隆成氏は、五カ国総検地は豊臣政権に臣従した徳川氏によって施行されたものではあるが、当時の徳川氏はなお相対的に自立性を有しており、その独自性を評価すべきであるとする(同『初期徳川氏の農村支配』二〇〇六年)。徳川氏の五カ国総検地は徳川氏の自立性を示していないと言い切ることは無理があるのではないか。

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 本書は戦国・織豊期を中心に松平・徳川権力を論じた研究である。本書で平野氏は、起請文・書札礼・年中行事から権力を分析できることを明確にした。さらに、後世の記録を排除して、文書と確実な史料のみで権力を明らかにできることを示した。本書は今後の戦国・織豊期の松平・徳川権力研究を飛躍させる基礎を築いた論文集である。



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