井上 攻著『近世社会の成熟と宿場世界』

評者:池田真由美
「地方史研究」337(2009.2)


 近世の宿駅研究では、これまで制度面の解明が突出して進展してきた。その結果、宿役人等一部の特定身分の人間を除き、宿場を支えたはずの多くの宿場住民や周辺地域住民について、実際にどのようなシステムで行動していたのか、現在でも不明な点が多い。また、宿場における制度の研究は、各宿場毎とも言える程に個別的に行われてきた。しかし、幕府が制定した制度は建前上どの宿駅で施行される場合でも均質でなければならなかったはずである。それに対して、制度の担い手としての宿場住民や周辺住民の具体像こそ、地理的条件や規模もまちまちであった各宿場毎に明らかにされるべきだろう。本書は宿場研究におけるこのような従来の問題点について、さらに一歩進めた「生活の場としての宿場の諸システムや日常生活の具体像」という視点から、神奈川宿の事例を中心として検討したものである。本書の主な構成は以下の通りになっている。

 序 章 問題関心と分析素材、神奈川宿の概要
第一編 宿場の災害と宿民
 第一章 天保飢饉時の神奈川宿
 第二章 除災祈願と地域社会−雨乞儀礼を中心に−
 第三章 宿場と火災−天保二年神奈川宿の大火を事例として−
 第四章 宿場の火災と火元入寺−神奈川宿を事例に−
第二編 宿場の文化と歳事
 第五章 神奈川宿本陣日記に見る文化交流−外出と来訪をめぐって−
 第六章 宿場の歳時記−神奈川宿本陣日記の記述から−
 第七章 神奈川宿の開帳と相撲興行
 第八章 川崎山王社の秋の祭礼
       −文政十三年「山王社御祭礼相撲諸入用覚之帖」の分析を中心に−
 付 論 神奈川御殿について
 終 章

 第一編では、「宿場の生態」と宿外世界との関係構造を明らかにするため、敢えて飢饉や大火といった非常事態での実態を提示し、合わせてそれにまつわる除災祈願(雨乞)・火元入寺などの宿民の習俗的側面にも言及している。結果、宿駅制度を遂行する以外の場面でも宿役人がリーダーシップや裁量を発揮している様子が浮き彫りにされた。また、非常時には周辺地域との援助体制が機能していたことが明らかにされ、その後の復興期には周辺地域に経済効果をもたらしたという相互関係を見通している。
 第二編でも、「宿場の生態」と宿外世界との関係構造を明らかにするため、江戸と近郊宿場の文化・歳事にみる交流やネットワーク、形成の様子を提示している。この関係を受け、宿場内でも文芸サロン・講・興行の取り仕切りといった文化・宗教面で集団の結合がみられるようになり、宿駅は単なる交通制度の執行機関ではなく多様な社会的性格を持つ「宿場世界」として相対化されていったとする。一方、性格が拡散されてゆくほどに、住民が地域認識を重視し、ローカルアイディンティティーを主張して地誌編纂を行ったという結果は、制度の均質性に対する各宿場の意識をあらわしていて興味深い。
 「宿場の規定性をはずし」た結果、他の農村や町場との差異がなくなった部分と、捨象しようとしても生活の場に残された宿駅としての側面があったという率直な結論こそ宿場の実態であり、特に後者の側面の個別検証が制度維持の鍵とも言えるのではないだろうか。
 「生活の場」「日常生活の具体像」を明らかにするという意味では、次の段階として非常時・文化といった特殊な場面からさらに一歩踏み込んだ、通婚関係・親戚関係・買い物・金銭貸借など宿場住民個々の私生活の解明が、「宿外世界」との深層関係をより分かりやすく示す手段として有効になってくると思われる。公私日記では記述内容に制限があることに加え、プライバシーの要素を多分に含んでいることも予測され、活字としての表記は難しいだろうが、日記史料にはその関係解明の可能性が期待できる。
 本書が、宿場の町としての普遍性と特異性の両側面を提示したことと、宿場日記の資料的価値を提示した意義は大きい。
 なお、巻末に索引有り。




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