松浦利隆著『在来技術改良の支えた近代化−富岡製糸場のパラドックスを超えて』
評者:石井 寛治
「歴史評論」694(2008.2)

一九八〇年代以降、今日に至る近代日本経済史研究の特徴のひとつは、いわゆる「在来産業」を対象とした産業史研究が輩出したことであろう。近世社会に歴史的淵源をもち、近代に入ってからも中小規模経営を担い手としたままで産業として「成長」を遂げていった織物業、製糸業、醸造業、陶磁器業などの「在来産業」を重視するこの研究潮流は、大石嘉一郎編『日本産業革命の研究』(東京大学出版会、一九七五年)に結実するそれまでの研究を「上からの資本主義化」論として批判しつつ、やがて、谷本雅之『日本における在来的経済発展と織物業』(名古屋大学出版会、一九九八年)を生み出すまでになる。谷本氏によれば、「在来産業」の展開過程には、「近代産業」化の方向とは相対的に独自な「在来的経済発展」とも言うべき固有な産業発展のパターンが存在し、それを可能にした制度的基盤として、政府の支援とそれに対応した生産地の組織的取組みがあり、さらに、小農経営の存続・発展に向けて兼業機会を農家世帯内に取り込む動きがあったと言う。大石編前掲書の執筆に加わり、もともと「在来産業」たる製糸業の発展の意義を重視しつつ、それが近世−近代を通して連続的に「自生的発展」を遂げたという議論を批判してきた評者としては、単純な「上からの資本主義化」論者と決めつけられることには納得し難いが、「在来産業」をその発展基盤を含めて検討しようとする研究自体は大いに必要なことと考える。本書の著者は、そうした「在来的経済発展」論の立場に共鳴しつつ、その議論に欠けていた「在来技術」そのものの近代以降における発展の具体的様相を究明しようとしている。技術発展が全くなかったとすれば、在来産業が持続的に「成長」することは考えられないにも拘わらず、そうした技術面の分析が従来乏しかったことは研究史の大きな欠陥であり、本書の出現は、その意味で貴重な試みと言えよう。

 著者は、その課題を、主に幕末期から明治期にかけての群馬県地域の養蚕・製糸・織物業という絹業三部門に即して解明しようとしている。近世・近代の群馬県地域の絹業についての研究は戦前から蓄積されており、一九八〇年代には、評者も加わった編集委員会によって新しい『群馬県史』が編集・刊行された。そこでは、県内外の膨大な史料の探索と整理をもとに、従来の実証水準を大きく上回る分析を行ったと編集委員は自負していたが、刊行スケジュールを厳守するという制約のもとで、いくつかの欠陥が残されていた。そのひとつが、技術史に関する新しい分析をなしえなかったことであり、そのために、本書の序章において著者が指摘する「富岡製糸場のパラドックス」、すなわち、政府が巨大な官営模範工場を設置した群馬県に、「近代技術の器械製糸が根付かず、かえって在来技術の座繰製糸を近代化した組合製糸が発達してしまったという歴史的な逆説」が生ずる根拠について、十分な解明が出来なかったことである。著者が、本書に収録された諸研究に着手されたのは一九九〇年とのことであるから、ちょうど『群馬県史』の編纂事業が終了しかけたときである。それ以来、一六年にわたる著者の地道な研究によって、以下紹介するような全く新しい水準の技術史の成果がまとめられたのであり、本書は群馬県地域史の水準を引き上げるだけでなく、「在来産業」論に技術史的裏付けを与える業績としても高く評価されよう。

 本書は、序章と終章を挟んで、第一部養蚕業、第二部製糸業、第三部織物業という三部構成を取っている。
 第一部は、三章からなり、第一章「近代化の中の在来農業技術−船津伝次平「桑苗簾伏法」に関する一考察」は、明治三老農のひとり船津伝次平の開発した「簾伏(スダレブセ)法」と小う桑の苗木の作り方を取り上げ、桑葉を摘み終えた廃物の桑枝を活用するその方法は、県庁からイラスト入りパンフレットによって宣伝され、有名となつた船津は間もなく内務省に出仕するが、「簾伏法」そのものは、枝の養分が少なくて腐ってしまうことが多く普及しなかったと、技術書としての限界を厳しく批判する。
 続く第二章「「近代養蚕農家」の発生」は、群馬県内で、切妻屋根の中央の棟に「テンソウ」「ヤグラ」と呼ばれる換気用の越屋根を付けた「近代養蚕農家」(=家屋)がいつ頃発生したかを問題とし、それは、清涼育の創始者田島弥平が文久元年に創設し、明治初年にかけて普及したこと、明治中期に火力を必要に応じて用いる清温育が広まると、一酸化炭素や煙の排気のために、越屋根に加えて大きく開口する窓戸の設置が推奨されたことを明らかにする。
 さらに第三章「創成期の養蚕改良結社「高山社」−清温育の成立を中心として」は、明治元年に温暖育と清涼育の折衷としての高山社流養蚕法=清温育が完成したという『高山長五郎翁略伝』による通説を、高山長五郎家に残された原資料によって検証し、火力を活用する温暖育系統であった長五郎の養蚕法が、換気を重視する清涼育を取り込んで折衷育=清温育を生み出したのは、島村の田島弥平らの清涼育を視察した明治一五年のことであり、養蚕改良高山社が成立する明治一七年の直前だったと主張する。著者は、しかし、こうした試行錯誤の過程は、近世以来の伝統的な技術改良の手法であり、西欧移入技術の影響をほとんど受けていないことをむしろ評価する。

 このように、著者は近世以来の養蚕技術の改良に携わった者が、維新以後の養蚕改良の先駆けになったことを高く評価する。しかし、その場合、著者が船津のように官途についた者よりも、高山のように民間における活動を貫いた者に対して、より高い評価を与えている理由は必ずしも明確でないように思われる。確かに、政府の資金授助を当てにして蚕糸改良と直輸出を試みた上毛繭糸改良会社や政府資金を借り入れて器械製糸所を立ち上げたケースは無残な失敗に終わったが、船津のように政府に雇われて、群馬の先進的養蚕技術の全国普及に尽力したケースの評価は、もう少し違った基準が必要なのではなかろうか。

 第二部は、座繰製糸とその改良について、従来の通説的理解を著者が鋭く批判した三つの章からなっており、本書の中心部分と言えよう。第一章「上州座繰器の発生」は、通説が根拠とする『群馬県蚕糸業沿革調査書』(一九〇二年(明治三五))の記述のもとになった座繰器製造業者来島屯次郎展の提出調書を検討し、同家が「軽業座繰」を製造し始めたのが享和二(一八〇二)年なので、それに先立つ寛政一二(一八〇〇)年前後に上州座繰器が発生したと推定されること、一八四〇年代には座繰器による生糸の品質の問題と生糸需要不振のため、座繰製糸は停滞していたこと、開港による輸出向け細糸需要の急増によって初めて座繰生糸の生産が一挙に拡大したと論じ、この結論は生糸需要サイドからの根岸秀行氏の研究(「幕末開港期における生糸繰糸技術の転換」『社会経済史学』五三巻一号、一九八七年)ともほぼ一致すると述べている。
 続く第二章「上州座繰器の改良」は、まず、いくつかの繭から挽き出された糸条を一本にまとめてほぐれないように撚りを掛けるイタリア式器械製糸特有の「ケンネル」式の撚掛け装置を座繰器に取り付ける改良が、明治期の群馬県ではほとんど普及せず、碓氷社などでは「毛取り」と呼ばれる女性の髪の毛を輪にしたものを撚り掛け装置として奨励していたことを指摘する。ついで、明治一〇年頃から盛んに使われた「改良座繰」の中身は、ハードとしての座繰器の改良ではなく、生糸の荷造り方法の「捻造」への変更や、集中揚返しと統一検査・共同販売のための組織を作るといったソフト面での改良を指しているとした上で、そのためには、四百廻しと呼ばれる生糸の繊度検査器や、絡交装置付きの揚返し器といったハード面の改良もある程度まで必要とされたと指摘する。
 さらに第三章「二つの製糸工場−富岡製糸場と碓氷社」は、群馬県の器械製糸と座繰製糸を代表する二つの製糸工場の歴史・生産方法・建物を対比する。赤レンガの近代建築として著名な富岡製糸場は、レンガによって建物の重さを支える「組積道」ではなく、重量は木製の柱と梁が支え、柱の間のレンガはただの壁として積まれているにすぎない「木骨レンガ造」(=カーテン・ウォール)であるが、それにも拘わらず近代化のシンボルとしてレンガが是非とも必要とされたこと、横浜最大の荷主としての地位を誇った最盛期碓氷社の本社本館は、一見和風そのものに見える木造建築物二階の大広間の四面に広大なガラス窓をはめ込むことによって、近代的組織としての組合製糸であることを象徴していたと指摘する。

 第二部の諸論文中でもっとも重要な問題提起は、群馬県の座繰器に「ケンネル」式の撚掛け装置を取り付ける改良がほとんどなされなかったという指摘であろう。というのは、この問題については、本書では言及されていないが、差波亜紀子「初期輸出向け生糸の品質管理問題」(『史学雑誌』一〇五編一〇号、一九九六年)が、群馬では明治一〇年頃までにそうした改良が座繰器になされ、組合製糸の「改良座繰」が誕生するときには、「改良」の対象にならなかったという指摘をし、根岸秀行「近代移行期における日本製糸技術の適正化と在来技術」(朝日大学『経営論集』一三巻二号、一九九八年)もまた、差波論文を根拠に、「明治一〇年前後の群馬県でも、農家副業的小経営の座繰器にケンネル装置を取り付けることで、抱合の甘さは解消されていた」と論ずるに至っていたからである。差波氏が挙げる積極的根拠は、明治二三年の群馬県臨時農事調書の西群馬郡のところに、「郡内製糸家ハ、ケンネル式ノ坐繰ヲ使用スルモノ多シ」と書いてある事実に過ぎず、推定による部分が多かった。とくに、評者が『群馬県史』通史編八(一九八九年)において、改良座繰のポイントは座繰器の改良でなく、揚返しの集中だったと述べたのを、逆に解釈して、座繰器にケンネル式撚掛け装置を付ける改良は、それまでに終わっていたと見なしたのを読んだときは、評者は吃驚した記憶がある。松浦氏の場合は、第二章において、明治四二年に刊行された下仁田の製糸技術者高橋清七の『群馬の座繰製糸指針』から、「近年上州座繰の毛坊主なきものに「イナズマ・ケン子ル」を上方より下げ或いは前面の柱に取着けして使用するもの多きを見る」という文章を引用しているが、差波氏の場合とは逆に、「恐らく一時的な流行の問題」だとして切って捨てている。明治二三年の西群馬郡や四二年の下仁田付近に見られるケンネル装置付きの座繰器というのは、碓氷社や甘楽社の中心地域とは少しずれた場所での部分的・一時的現象だったと思われるが、そうした事例の松浦説における位置付けは必ずしも明快でなく、今後のさらなる実証を期待したいと思う。

 第三部は二つの章からなり、第一章「開港をめぐる桐生新町の動静」は、幕末開港にさいして、産業都市桐生が何故生糸不足によって大きな打撃を受けたのかを問題とする。西陣などと比べて桐生における生糸価格の上昇が早くから見られたのは、地元の生糸・織物商人による生糸の買占めと横浜送りという人為的要因が大きかったこと、幕府への度重なる輸出抑制の嘆願も効果なく、領主は困窮した「機下職」たちの生糸商批判に応じて、スケープゴートとして生糸商一人だけに謹慎を命ずるが、これも効果が乏しく、結局、町役人が富裕層に協力を求めて実施した施米によって不満を押え込んだことが明らかにされる。著者によれば、桐生が在郷町という近世秩序とは多少異質な構造の町であったことが、開港による大きな混乱と新しい秩序への変化を先行的に生み出したという。第二章「明治前期の桐生織物「近代化」」は、幕末開港以降、不振を続けた桐生織物業が、明治七年頃から復興し、明治一〇年以降久し振りの活況を呈する契機は何であったかを問題とし、それは近代技術としてのジャカード機の導入ではなく、絹綿交織、黒繻子、輸出羽二重といった新商品が次々と開発されたことにあったという。すなわち、横浜からの輸入綿糸を用いた絹綿交織織物が明治三年前後に現われて、明治七、八年の桐生織物業の立ち直りをもたらし、続いて、帯地に使われる絹綿交織の黒繻子織物が、洋式ロール機と輸入染料を用いることによって輸入の「南京繻子」を圧倒し、さらに広幅の織り機と飛び杼(バッタン)による輸出羽二重の製造も盛んとなった。高級紋織機のジャカード機が桐生で実用化されるのは、明治二一年以降のことであり、それまでの明治前期においては、桐生の織物業者は、輸入技術を部分的に導入しながら、在来技術の改良を次々と行う形で新商品を開発し、織物業の復活を支えたという。

 第三部は、第一部・第二部と異なり、文書史料による分析手法を取っているが、結論としては、桐生織物業が幕府・諸藩に依存する体制から、民間の技術的・経営的努力と創意によって新たな発展を切り開かねばならなくなつたことを強調しており、その限りでは第一部・第二部における主張と相通ずるものと言えよう。

 以上、若干のコメントを加えつつ、本書の注目すべき論点に絞って内容を紹介してきた。本書の分析方法の特徴は、一方では、通説的理解が依拠してきた文書史料について徹底的に批判的なメスを入れることにより、その根拠の危うさを暴露しつつ、新たに発掘した文書史料の分析を通じて新見解を打ち出すことであり、他方では、器具や建物といった実物資料について、自然科学的な視点を授用しつつ、これまた徹底的な分析を試みていることであろう。そうした複眼的な視点を持つことによって、著者は、「成長」する在来産業を支える在来技術が、決して固定的・停滞的なものでなく、移入された近代技術の影響を受けるか、もしくは移入技術とは無関係な試行錯誤の繰り返しを通じて、絶えず変化し発展していくものであったことを実証した。

 「在来的経済発展」の基礎には、そうした多様な形での「在来的技術発展」が横たわっていたことを示した点に、本書の最大の貢献があると言えよう。

 そのような本書の貢献を十分認めた上で、最初にも触れたように、評者としては「在来的経済発展」論が往々にして陥りかねない抽象性について危倶の念をもっていることを記しておきたい。それは、近世以来の「自生的発展」の延長上に、近代の「在来的発展」を捉えることの問題性と言ってもよい。
 大石編前掲書は、山田盛太郎『日本資本主義分析』の理論的立場を基本的に継承していたために、「上からの資本主義化」論として、「在来産業」の意義を無視したかのように誤解されることがあるが、執筆者一同は、山田『日本資本主義分析』が服部之総氏の批判にあるとおり幕末経済発展の高さを無視している欠陥があることは十分承知していた。

 そこで、評者の場合で言えば、最大の輸出産業として日本産業革命を支えた製糸業について、近世期を通ずる発展の意義を認めた上で、明治期において世界最大の生糸輸出国になり、世界最大の製糸経営を輩出した過程の分析にさいしては、経営者の果敢な投資活動とともに、発展を促進した政府・銀行・商社などによる支援活動(そこには労働者への抑圧策も含まれる)を重視すべきことを論じたつもりである。民間の活動がなければ「産業革命」はありえないが、だからと言って民間の活動のみを重視し、政府その他との関係を軽視したのでは、「在来産業」の「成長」メカニズム自体をトータルに把握する道を閉ざすことになるのではあるまいか。(いしい かんじ)



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