池上裕子編『中近世移行期の土豪と村落』
評者:深谷 幸治
「歴史評論」690(2007.10)


   一 

 近年の中近世移行期における村落社会・組織論、及び当時の地域・村落の動向に多大な影響力を持っていた在地の土豪論に関しては、特に近江など畿内近国の村落史料の素材を中心に、大きな広がりをもって展開されるに至っていることは言うを待たない。同時期に存在した戦国大名に関係する諸論においても、個別の事象を調査・分析し、その結果を蓄積していくことがさらに必要となっている。
 当然ながら、そうした個別事例の精査と蓄積は、実働としての現地調査、及び現地関連の残存史料・記録の詳細分析という、ある意味での重い作業を伴うものである。同時にその内容は、個々の村落なり地域なり土豪なりに関する個別事例の堆積であるから、それを一般化し、共通認識化することは、ある意味でなかなか困難なものと言えよう。
 各研究者の研究の内、取扱い分野の細分化ということ自体は、歴史学に限らず、今では諸学問分野において現実に見られ、進行している現象である。個別の検出事例の増加と、研究者によるそれら事象の解釈の多様性からして、その共通理解化は難しくなりつつある。一方でそれは、各分野の研究の深化に伴って生じる、ある種必然的方向であり、むしろあり得べき方向として積極的に評価することもできるのではないか。それぞれの地域や村落の共通点は共通点とし、同時に差異は差異として、個別的にそれらを捉え、さらにそのデータを蓄積していくことが求められる。現代の諸研究の成果は全てそのための過渡的形態で存在しているものとも言えよう。今回扱うような分野の研究者は、それを理解した上で、各地域の個々の村落事例を悉皆的に調べ進めていくがごとき、一種悲壮な覚悟と努力とが必要になってくる。その面での一つの解答であり、重要な成果の一つが本書である。

   二

 本書は、冒頭の「はしがき」に編著者である池上裕子氏ご自身が述べておられるように、池上氏を代表者とした科学研究費補助金基礎研究の成果を、それぞれの同研究参加者が各地域・テーマ毎に論文化した、論集形態の研究報告書である。そのテーマはタイトルのごとく、移行期における土豪と村落のありようを明らかにすることであり、そのため土豪・村落にそれぞれ第一部と第二部があてられている。さらに池上氏らのグループは、研究調査対象となる土豪が何らかの役割を果たしている村落・地域を主産業別に農村・海(漁)村・山村の三つに分類して、研究対象の村落の個別性格分けを行った上で、その現地調査とデータ分析を行っているという点がユニークな手法と考える。農村・海村・山村それぞれの該当時期の動向、及びそれぞれの内部または周辺に存在する土豪の性格が、各村落の地理的・社会的条件などから来ている、生業・主要産業のあり方といかなる相関関係を見せるのか、という分析視点は、同時代の研究者として、少なからぬ興味をひかれるテーマである。農村なり山村なりの土豪や村落論というものは、今まで個々の研究者により行われてきた研究の蓄積がもちろん存在する。しかしそれを一度に一グループの共通課題とし、三パターンの村落を、一定期間をかけて同時進行的に調査・分析し、その成果を一冊の本として形を成したことに、本書の注目すべき性格があるものと言ってよい。
 編著者で研究代表者の池上氏は、言うまでもなく戦国期・移行期研究の第一人者で、従来織豊政権期の指出・検地またそれに伴う石高制論や、戦国大名による検地などから見られる領国支配形態及びその構造論、また特に北条氏治下の村落・都市の実態に関して、精力的に数多くの論考を発表してこられた。その成果は同氏の著書『戦国時代社会構造の研究』(校倉書房、一九九九年一二月)などに、如実に示されている。
 また同研究に参加し、本書に論文を執筆している各研究者も、それぞれに戦国期・移行期及び近世史研究に多大な実績を成している方々である。本書の研究の総体が池上氏ご本人を含むそれら研究者のグループ活動による成果であることは当然であるが、執筆者別の論文の集合体という形をとっている以上、それら論文毎に要旨をまとめ、批判を加えていくことが、研究者各人に対する敬意を表することになるものと考え、以下にそれを述べていく。
   
   三

 本書第一部「土豪論」の最初の論考は、池上氏論文「武蔵荒川郷と荒川衆−戦国・織豊期を中心に」である。この論文は、武蔵榛沢郡荒川郷、及びそこに在住した土豪持田氏を主体とする荒川衆の実態を、持田家伝来の北条氏関係文書を使用し、明確化しようと試みているものである。荒川郷は、前記村落区分のうちで、農村に該当する。内容においては、北条氏邦が鉢形城主として地域支配をしていた時期に、同郷の実態的な村落としての形態や、土豪として在村した持田氏という家のありようが検討される。さらに北条氏による軍役配分や検地帳などを素材として、荒川郷住民の階層や経営規模の実情を説明する。
 池上氏が従前から積極的に取り扱ってこられた対象である、戦国期検地帳に詳細な分析を加え、荒川郷と荒川衆の様相を浮き彫りにしていくその内容は、首肯させられるものであろう。移行期の関東における土豪で、近世に名主クラス百姓化した家には、持田氏と同様に畿内などからの移住伝承を持つ家が少なからず存在する事実がある。移行期とは「移住の時代」でもあったのか、その解明にも期待が高まる。

 第二の論考は、遠藤ゆり子氏論文「武蔵国榛沢郡荒川村に関する一考察−名主屋敷と寺地の交換伝説をたどる」である。この論文は、前出荒川村(戦国期までは郷)の現地調査の成果をもとに、地理的・歴史的な該当時期の同村の姿の復元をはかっている。それと同時に、現在にまで伝わる、持田家の家地と旧在の寺地とを戦国期に交換したという伝承の意味を検証しようとしているものである。伝承の背景には、土豪持田氏を中心とした同村周辺地の再開発と、寺院自体の再興、それに伴う地域寺院の存在意義の転換や変質があったものではないかと結論している。特定の伝承から想起される事態を、現地調査データと史料からの情報に基づき復元していこうとする手段は、実際の作業上も、また論述の方式としても面白く、第二部に見られる村落の退転・窮迫と(再)開発・復興という問題との絡みもあって注目される。

 第三の論考は、黒田基樹氏論文「戦国〜近世初期伊豆西浦における大川氏の展開」である。この論文は、伊豆西浦地域の諸村落、特に長浜村に戦国期から在住が確認される土豪大川氏関係の史料を検討し、同地域における大川名字の各家代々の複数の家の系図的伝来や、各人の土豪有力者としての性格などを、江戸前期までたどって、明らかにしているものである。同地域は、前期村落区分の海(漁)村に該当する。大川氏一族に直接関わる所蔵文書・家伝や記録・過去帳、また北条氏発給文書などから、該当時期の同氏の歴史的な伝来、それぞれの人物と家の立場・役割が可能な限り明確化されている。注目点は、最後の部分で黒田氏が指摘されている通り、比較的近接地域で同一の名字を称する諸家がありながらも、分析の結果必ずしも一族関係や同一の生業では括られないという実態である。この指摘は、近年の「土豪同名中」研究とも合わせ考察すべき問題でもあり、新たな分析視点をもたらすものであると言えよう。

 第四の論考は、長谷川裕子氏論文「江戸時代前期の漁村にみる百姓の生活と土豪」である。この論文は、前出論文で見られた長浜村において、江戸前期に土豪として同村を主導していた「津元」大川氏と同村百姓層との関係、生活や生業の様相、そしてそれらから当時の社会的生命維持システムとしての村落の実態を見通そうとしているものである。
 長谷川氏はまず同村の生業(漁業)の展開とそれに基づく請負担の内容を検討し、さらにそのあり方を巡る「津元」と「網子」の対立、村方騒動の内容をも概観する。そして飢饉時の両者の対応に着目し、当時の継続的で慢性的な飢饉状況を、両階層の対立と百姓側の土豪からの自立傾向の主要な背景として説明する。

 第五の論考は、再び長谷川氏による論文「駿河獅子浜村の景観と土豪家−植松家と増田家を中心に」である。この論文は、長浜村と同様に、駿河から伊豆に連なる江浦湾の、北部駿河側に在する獅子浜村の地理的・景観的復元と、そこに在住した土豪としての植松・増田両氏の存在形態と役割を、現地調査と江戸期の反別帳・記録類および明治に入ってからの土地台帳などから、細部に至り再現しようとしている。
 復元において、各時期の屋敷地などの分布図、土豪植松氏の山所有状況図などを連続的に提示し、それらを現代の住宅地図と対比して旧地名を乗せていくという手法は、理解しやすくかつ明解であり、土豪主体による村落運営の有機的実態を論理的に検証していて、江戸期海(漁)村のあり様を一つのモデルとして提示した意義は大きい。と同時に、この獅子浜村の事例では「土豪イコール村落」という印象が否めない。土豪の村落維持に対する役割評価の問題とも合わせ、他事例との摺り合わせが必要となってこよう。

 第二部「村落論」の最初の論考は、藤木久志氏論文「海村の退転−十六〜十七世紀の伊豆浦々の被災と変動」である。この論文は、前出長浜村などの伊豆海村諸村の関係文書・記録をもとに、天文年間から元禄までの同諸村の退転の状況と、その原因である飢饉・災害などの被害実態、またそれへの村落や戦国大名側の対応を、藤木氏の災害データの蓄積をもとに、新たに分析を加えられたものである。
 全国的規模での膨大な飢饉・災害データバンク作成を、ほとんど個人作業として近年精力的に推進しておられる藤木氏の努力には驚愕の他ないが、今回の分析内容にも同時期の伊豆一国規模、あるいは全国広域のデータ抽出・蓄積が大きく役立っている。前述した悉皆的データ作成を、既に相当部分で実現してこられたからこそ成し得た論文である。

 第二の論考は、則竹雄一氏論文「戦国〜近世初期海村の構造−豆州江梨・西浦を中心に」である。この論文は、やはり長浜村を含む伊豆西浦地域諸村の、戦国期北条氏に対する負担内容の分析から、当時の同地域の生業と、それぞれの村落の各業種依存率といった生産構造を明らかにすることを試みているものである。
 同論文でのこの地域諸村の類型分析は、当時の諸村の農林漁業及び商業という各産業(生業)への関与の度合いを具体的に示しており、近世に至るその時代的変遷をも見通すものである。村落論を拡大した地域産業論、あるいは社会学的な地域分析の実践とも言えようか。

 第三の論考は、黒田氏の論文「戦国〜近世初期伊豆三津村の構造」である。この論文は、長浜村の北部に位置する三津村を、同村の天文期年貢等書出や文禄の検地帳などの史料に基づき、同村の耕地保有状況・負担内容・生業の様相・周辺他村落との関係を解明し、同地域における三津村の立場や生産活動の意義を見出そうとしている。
 黒田氏は同村の流通拠点的性格と商業的性格とを指摘し、それが同村の地域におけるあり方を規定すると同時に、年貢米の流通などを通じて必然的に周辺諸村落との関係も定められるものと述べておられる。村落が一定地域内で、自らの組織を成立させ維持していくための相互依存関係、その中での役割分担というものが存在していたならば、地域や流通構造自体が、生存システムの一環を成していたと考えられよう。

 第四の論考は、渡辺尚志氏の論文「十七世紀上野三波川村における山論」である。この論文は、上野緑埜郡三波川村の土豪家の所蔵史料をもとに、一七世紀の同村に関わる山論の様相の具体的な解明を目指したものである。この三波川村は田地を所持しておらず、前記村落区分のうちでの山村に該当する。筆者の渡辺氏は、近世前期から後期までに至る、諸地域の多くの村落内部構造や相論実態につき、既に数多くの分析と考察を成してこられた実績を持ち、この論文においても、寛永期から元禄期までの山論訴訟文書や、その動きに伴う村掟などから、当時の山論の実際面を詳細に明らかにしている。特にそうした山論が、抱身分の自立的な動きや、山論を機会とした分村独立の動きとの連動性を持っていたという指摘は、この時期の山論というものが、単に近隣村落との利権・境界紛争に留まらず、村落内外の諸存在・組織による、そのような多様な意図を含み込んでいたものであることを、改めて気付かせてくれる。

 第五の論考は、遠藤氏の論文「近世初期上野国三波川村の縁組みと奉公契約」である。この論文は、前出三波川村の地理的な状況、及び村落組織の構造を説明すると共に、同村に残る元禄期の宗門帳をもとに、その時期の同村構成員と内部小村・周辺諸村・諸地域との縁組み状況・奉公出入状況を分析しているものである。
 村落の動向を、その村落を構成する人々の地域的つながり、あるいは社会的な移動状況と言うべき実態から明らかにしようとする試みは、当然ではあるが「人間の生活する場所」である当時の村落と地域の、人々の生活・生存と幸福追求の営みを眼前に提示してくれているようで、感慨深いものがある。本書の掉尾を成すにふさわしい論考と言えようか。

   四

 以上本書を構成する個々の論考の概要を、それぞれ簡単にまとめ、コメントを付す形で批評を行ってきた。ここまでで明らかなごとく、本書は東国の戦国期から江戸前期にかけての土豪論・村落論に、新しい視点をもたらし、現地調査と史料分析・検討による分析的成果をもたらしている。
 池上氏を中心とする本書研究グループの、東国土豪・村落論に関するこれらの成果は、史料面の制約を受けつつも、畿内近国のそれらに匹敵するほどの精緻さと具体性をもって、論理を展開していくことが可能であることを示した。その点で、やはり近年の移行期諸論考中においても、特に注目すべき内容を持つものと、評者は考える。願わくば評者をも含む研究者諸氏の手により、同様の成果が、今後さらに積極的に編まれていくことを期待し、本書がその諸氏の努力の糧となることを希望したい。
(ふかや こうじ)




詳細 注文へ 戻る