佐藤博信著『中世東国 足利・北条氏の研究』 | |||||
評者:阿部 能久 | |||||
「歴史学研究」837(2008.2) | |||||
本書の著者である佐藤博信氏は,これまで長年にわたり戦国期東国の研究とりわけ古河公方足利氏の研究に従事されており,その成果は『古河公方足利氏の研究』(校倉書房,1989年)・『中世東国の支配構造』(思文閣出版,1989年)・『続中世東国の支配構造』(同,1996年)・『江戸湾をめぐる中世』(同,2000年)・『中世東国政治史論』(塙書房,2006年)など数多くの著作として世に送り出され,関東戦国史研究の新たな境地を開拓し続けている。その著者の主に1970年代を中心とする未収録論文をまとめたものが本書である。すなわち著者が古河公方研究あるいはその契機となる後北条氏研究に取り組みはじめたころの論考が多く収められており,前掲した一連の著作に至る著者の研究軌跡を窺い知ることのできる一書となっている。 第一部 関東足利氏の世界 以上一見してわかるように,本書で示された論点は極めて多岐にわたる。よって以下,各章・論の概要についてごく簡単に述べ,のち主だったものの意義や研究史上の位置づけなどについて論じていくこととする。 第七章では,虎印判状の初見文書とされる永正15年(1518)10月8日付虎印判状の解釈と評価に関する先行研究を整理し,これが北条氏綱発給の虎印判状初見文書であると結論づける。 次に,これらの論考の意義や研究史上の位置づけについてみていくが,まず著者自身が研究意図について語った箇所に注目したい。 「従来,関東戦国史の研究は,だいたい小田原北条氏の戦国大名制形成過程の研究を唯一の方法としてなされてきたように思われる。それ自体は十分な有効性を備えているが,その反面,それ以前から存在するもろもろの政治的規定性を古いものとし克服されるべきものとして,比較的看過してきたのではなかろうか。関東には,承知のように室町中期まで鎌倉府体制が存在した結果,戦国期になってもそのもろもろの規定性が色こく残存し,古河公方足利氏・関東管領上杉氏が一定の政治的勢力として存在していた。それゆえ,小田原北条氏が戦国大名制を形成していく過程で,かれらがそれなりに歴史的な役割を果したことは否定すべくもなく,そこにかれらの独自の運動法則を追究した研究が必要とされるのである。こうした手続きをへて,はじめて関東戦国史をたんなる新旧交代史の歴史ではなく,いかにして領主階級が小田原北条氏を頂点とする階級的結集体としての戦国大名制を形成していったのかという歴史本質の観点から検討していくことができるのではないかと愚考している」。 やや長くなったが,以上は本書第二章の冒頭部(25頁)からの引用である。ここには本書そして以降の一連の著作の底流にある著者の問題意識が端的に示されている。関東の戦国史研究が後北条氏を軸に展開してきた結果,古河公方足利氏や関東管領上杉氏の果たした歴史的役割への評価が不当に低いものとなっていた状況を踏まえ,「新旧交代史」観を超えたその正当な位置づけを図ろうとするものである。そしてこのような著者の企図が正鵠を得たものであり,戦国史研究の進展に大きく貢献したことは,本稿冒頭にあげた一連の成果が示す通りである。つまり本書に収録された論考において打ち出された方向性がその後大きく実を結んだわけであり,そういう意味で本書収録の諸論考は,古河公方研究の黎明を告げるものと評価できよう。 もちろん大半の論考が発表からすでに30年以上経ていることもあって,その後の研究の進展により修正されるべき点も出て来ている。たとえば第一章では『殿中以下年中行事(鎌倉年中行事)』の分析・検討がなされているが,その底本として用いられているのは『群書類従』所収のものである。この奥書にある「享徳三甲戌歳月日」の記載から,『殿中以下年中行事』が享徳の乱(享徳3年(1454)12月27日勃発)直前における関東府体制の「危機の産物」と評価した峰岸純夫氏の所論(「東国における十五世紀後半の内乱の意義」,同『中世の東国−地域と権力−』東京大学出版会,1989年,初出1963年)を,著者も踏襲している。しかし,その後著者自身が「享徳五年六月朔日」の日付をもつ国立公文書館内閣文庫蔵(紅葉山文庫旧蔵)の写本を『日本庶民生活史料集成 第二十三巻 年中行事』(三一書房,1981年)に翻刻し,その解題において,群書本と異なり雑記録をいっさい含まないこの写本にみられる姿が『殿中以下年中行事』の原型であり,「享徳五年の成立となると,内乱勃発後の作となり,従来認識されてきた内乱直前の「危機の産物」論とは若干相違するところとなる」(同書767頁)との見解を示した。さらにその後,『日本庶民生活史料集成』収録の写本よりもさらに良質と思われる喜連川家伝来および献上の写本の存在と,享徳3もしくは5年とされてきたその成立が文明15年(1483)以降である可能性が指摘される(阿部能久「『鎌倉年中行事』と関東公方」,同『戦国期関東公方の研究』思文閣出版,2006年)に至っている。 また,当初から古河公方に高い関心を有しながらも,その評価に変化がみられることも,注目される点の一つである。たとえば第二章では,成氏のさまざまな施策を鎌倉府体制の再興という「反動的な意図」に基づくものと位置づけ,享徳の乱と都鄙合体の歴史的意義についてふれた箇所では,「都鄙合躰の成立は,さきに述べてきたような歴史的な特質を持った“古河公方”を実質的に否定するものであった。この後も古河の足利氏は存続するが,その本質は,都鄙合躰以降まったく異なることを銘記しなければならない。いわゆる“古河公方”は都鄙合躰成立を契機に消滅したと評価したい」(46頁)とする。また第四章では,足利義氏の書札礼遵守の姿勢や,名国司等の実質をともなわない恩恵的行為をとらえ,「時代錯誤的な逆行した性格をもって,“公方”たることを体現しようとした歴史の悲劇」(95頁)との評価に至っている。このように,古河公方研究の第一人者である著者にしても,当初は古河公方の性格として「反動的」あるいは「時代錯誤的」な面を強調しており,興味深い。著者の一連の研究により,それまでほとんど等閑視されていた古河公方の存在意義が広く認識されるようになったわけであるが,著者もまた自身の研究の進展にともない,古河公方の歴史的役割に対する評価を高めていったことが窺える。 このような修正点の存在あるいは評価の変化は,30年という年月,そしてその30年間で古河公方研究そのものが著者の牽引によって飛躍的に進展したという経緯を考えれば,至極当然のことといえよう。それよりも30年という年月を経てなお色褪せない堅実な成果の方がはるかに多いことに瞳目させられる。前述したように『殿中以下年中行事』の考察にあたっては,決して良質とはいいがたい『群書類従』収録本を典拠としながらも,『殿中以下年中行事』が当初から現在みられるような体裁で成立していたのではなく,先行する個別的記録を集成したものではないかとの見通しを示している。そしてその後,より良質な写本による研究の進展が,この推定の的確さを裏づけるに至っている。 また第四章では,虎印判状が全体の3分の1を占め,諸種の印判状・判物・書状のいずれもがほぼ知行充行状などの家臣関係および在地的な諸関係を物語る領主的な文書であることを特徴とする後北条氏文書に対し,最後の公方である足利義氏の発給文書においては,印判状の占める割合が極めて低く,9割を占める判物・書状もすぐれて非領主的な文書であったことを解明している。そして,この好対照をなす両文書の特徴が,後北条氏と義氏が相互に補完関係をなしつつ戦国大名制を形成していた証拠であり,後北条氏が関東の象徴的な存在としての公方を否定しえず,さらにまたそれにかわる独自の新しい秩序を確立しえなかった現れとした。それまでの研究では,義氏の印判状使用に後北条氏の強い影響を見,もって古河公方権威の失墜,後北条氏の傀儡化を指摘するのが例であった。これに対し,その質・量に注目し,むしろその著しい対照性を指摘したことは,まさに卓見であったといえよう。 著者はのちに,古河公方がそれまで考えられてきたような,その貴種性によってかろうじて命脈を保つのみの存在などでは決してなく,関東管領山内上杉氏と協調して主体的に権力を行使する存在であり(これを著者は「公方−管領体制」と呼んだ),後北条氏もこの枠組を無視し得ず,室町的秩序である関東府体制の延長上にある「公方−管領体制」の中に自らを関東管領として位置づけることによって,関東支配の正統性を得ようとしていた点を明らかにしている(『古河公方足利氏の研究』)。これは著者の数ある業績の中でも,もっとも重要なものの一つであるが,先にみた本書第四章をはじめとする公方発給文書の分析という堅実な基礎研究を経ることにより,このような関東戦国史研究に新たな視角を提示する成果が生み出されたものと評価できよう。 以上,本書に接しての雑駁な所感を述べてきた。評者の浅薄な理解により,著者の真意を曲解し的外れな指摘を連ねたのではないかと懼れる次第である。著者および読者のご寛恕を乞いつつ,拙い評を終えることとしたい。 |
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