池上裕子編『中近世移行期の土豪と村落』
評者:盛本 昌広
「日本史研究」543(2007.11)

 本書は中近世移行期の土豪と村落に関して、多角的な面から考察を加えたものである。本書に収録されている論文は次のようなもので、便宜上、各論文ごとに番号をふった。以下の記述では番号で各論文を示している。

第一部  土豪論
@武蔵国荒川郷と荒川衆 池上裕子
A武蔵国榛沢郡荒川村に関する一考察 遠藤ゆり子
B戦国〜近世初期伊豆西浦における大川氏の展開    黒田基樹
C江戸時代前期の漁村にみる百姓の生活と土豪     長谷川裕子
D駿河国獅子浜村の景観と土豪家 長谷川裕子
第二部  村落論
E海村の退転−十六〜十七世紀の伊豆浦々の被災と変動  藤木久志
F戦国〜近世初期海村の構造              則竹雄一
G戦国〜近世初期伊豆三津村の構造           黒田基樹
H十七世紀上野国三波川村における山論         渡辺尚志
R近世初期上野国三波川村の縁組みと奉公契約      遠藤ゆり子

 近年、中近世移行期の研究は村落論や土豪論を中心に様々な側面から行われ、多くの成果を挙げている。また、戦国時代の研究は従来は戦国大名が中心であったが、村落を扱った研究も生み出されている。中近世移行期に関しては、断絶と存続という二つの面が議論されてきたが、これらは二者択一ではなく、両者の側面があり、その変化の過程を地道に跡づけていくことが必要であり、本書はその実践例と言えよう。

 本書の特徴としては特定のフィールドを設定して、現地調査を行い、その成果を踏まえた上で、関連する文書を読み込んでいる点が挙げられる。設定したフィールドは@武蔵国荒川郷、A伊豆国内浦(長浜村・三津村など)と静浦(獅子浜村)、B上野国三波川村である。立地条件の面では@は荒川河岸の平地村、Aは伊豆半島西側の海に面した海村、Bは上野・信濃国境付近の山村に分類できる。近年は海村や山村、農業以外の様々な生業を扱った研究も行われており、本書におけるフィールドの設定の仕方にもそうした動向の影響が窺える。

 本書の柱である土豪論に関しては、七〇年代前後には戦国時代の中間層(土豪・地侍)の動向、惣村の解体、太閤検地、検地帳を利用した百姓の階層分析などが盛んであったが、近年は村落内の侍衆(土豪)の身分や存在形態、村落を越えた地域との関係といった論点も加わり、村落の実態を明らかにしようとする方向性が見受けられる。土豪に関しては、@戦国大名と村落をつなぐ役割、A戦国大名との被官関係の設定、B村落内での卓越した地位の維持、C村落や小百姓の生活の維持への貢献といった相反する側面を一身に集中して体現する立場にあり、まさに中間的な存在と言え、その動向を位置づけることは中近世移行期の研究を進める上で重要である。本書評では三つのフィールド別に検討を加えていき、本書が中近世移行期研究にもたらす意義を考えていく。

 @Aで扱われた荒川郷は関東平野の中央付近にあり、南を荒川が流れている。@Aともに現地調査に基づいて景観復元を行い、荒川郷が川端・中央・只沢の三つの地区に分かれていることを位置づけ、宗教施設、各家の土地所有、村落内の階層、戦国期開発の実態などを明らかにしている。使用した史料は同村で主導的な役割を果たした持田家伝来の文書で、この持田家がいわゆる土豪にあたり、村落に果たした役割に考察が加えられている。

 @では持田氏主導による被官化、村内の開発、検地に関して詳細な検討を加え、持田氏が単独ではなく、荒川衆という集団を組織して被官化した点に特徴を見出している。これに対して、村内の有力な家が個別に被官化する事例も多く見られ、この両者の相違がいかなる要因でもたらされたかも気になるところである。いずれにせよ、戦国大名による組織化という側面のみでは被官化現象を説明できず、@はその要因を説明した点で意義があると思われる。一方、村落内で同様の地位や立場にあっても被官化する場合としない場合があり、被官化に関しては、追求の余地が多く残されている。

 @Aではあまり展開されていないが、生業面から持田家や荒川郷を捉え直すことも必要と考えられる。@Aで指摘されている近世における荒川の筏流しに対する役銭徴収、金糞の遺物による鋳物師の居住、村落内を四方に通る道路の存在や宿地名から、荒川郷が交通の要衝にあり、流通にも深く関与していたことが窺える。開発にあたっては、物資の調達が必要であるが、こうした立地条件は好都合であり、持田家は荒川河岸に屋敷を構えることで流通に関与し、それにより形成した資産を投下して、開発を推進したのではないだろうか。また、@では、持田家が外部から来た新参者であったが、それ以前の姿は不明であると述べている。確かに新参者が村落に定着する契機や経過は必ずしも明らかではなく、この点は今後の課題であろう。これは室町期の家が戦国期に存続していたかという問題とも関わることであり、戦国期村落を家の存続の有無や住人の出自から、捉え直す必要性を示唆している。

 Aでは廓という村落内にある小単位が果たした役割の考察を行っている。こうした小単位は他の地方では小名・坪などと呼ばれていることが知られ、近年は近世史研究でも注目されている。民俗学では小単位が果たした役割が調査されることが多いが、歴史学ではまだ不十分である。Aでは景観復元に加えて、廓や信仰など様々な慣習が述べられているが、異なる時代に成立したと思われる慣習が並立的に叙述されている傾向があり、時期的な変遷を考慮して、調査結果をまとめるべきであったと思われる。

 B〜Gは伊豆半島西海岸の内浦・静浦と呼ばれる地域をフィールドとしたものである。内浦に関しては、渋沢敬三が主導した常民文化研究所の活動により、長浜の大川家文書を中心にした『内浦漁民史料』の刊行、それを利用した漁業の研究が戦前から行われてきたことで知られる。こうした前提のもとで、本書の執筆者らが大川家文書などを再調査し、その結果新たな文書を発見し、年次や人名比定などを行うことで、この地域の研究を深める状況が整ったと言えよう。

 Bは長浜村に複数ある大川家の系譜を復元したもので、基礎的な作業として有益である。また、この復元により、同じ大川姓を名乗っていても、異姓の者が名字を与えられた場合もあり、血縁的な同族関係にあったわけではなく、近年の研究に見られる一定の地域にある同じ名字の家が密接な関係を持ち、相互に協力関係にあったという理解を批判している。大川の名字自体は内浦以外にも狩野川流域などによく見られ、この点は確かに注目すべきことだが、多くの同姓の家の存在を血縁や分家で説明することは無理であり、同姓の家の広がりの要因や成立時期を考える上で、Bで行った復元は参考になる事例となる。また、大川の本家が隠居家を分出したことも復元している。この隠居分家は従来から民俗学で注目され、能登時国家における事例に検討を加えた網野善彦の研究もあるが(「時国家と奥能登地域の調査」『歴史と民俗』七)、隠居分家事例の検出、それをもたらした要因などを、大川家の事例を含めて今後検討を加える必要があるだろう。

 Cは長浜村における津元大川家と網子との関係を、生業や諸役負担の内容、不漁や飢饉時に困窮した網子への津元の対応を中心に述べている。前者はFG、後者はEの論考と密接に関係するので、合わせて検討を加えることにより、多角的な分析が可能になる。前者の生業や諸役負担に関しては、Cでは長浜村、Fでは西浦全体、Gでは三津村を扱っている。Cで扱っている長浜村に関しては、津元による立網経営の研究が戦前から行われ、津元と網子の対立、漁獲物の配分などが明らかにされてきた。これに対して、Cでは網子は立網漁に組織される一方で、釣漁を行うことで経営を補完していたことを述べている。つまり、同村では立網と釣漁、さらには小規模な網漁が併存して行われていたわけだが、この事態は漁業権の問題とも密接に関連するので、この点に関する言及が必要であったと思われる。一定の海面において、異なるタイプの漁が行われていたことを、漁業権の面ではどのように位置づけられるのであろうか。漁業権に関しては、従来から多くの議論や概念が提示されているので、こうした点を踏まえた上で、長浜村における漁業権を概念化すべきと思われる。

 また、Cなどでは村落内部の分析が中心であり、漁業権をめぐる村落間相論に関してあまり指摘はないが、村落前面の水域に他村が来て漁業を行った場合の対応や漁業権の内容が問題となる。たとえば、西浦の江梨村の領域に属す大瀬崎前面の海域は好漁場であったため、西浦の別の村が漁業を行うことがあり、江梨村の土豪鈴木家と相論になっている(拙稿「戦国時代の伊東」『伊東市史研究』第四号参照)。個々の漁業権は元々は慣習的に形成されたものと考えられるが、それを保証するのは領主や戦国大名であり、漁業負担は単なる負担ではなく、漁業権保証の意味も込められていたはずであり、CFで扱われた諸役負担を、漁業権や山林利用権などとの関係で捉え直すべきであろう。

 CFGは小物成帳などを利用して、生業の在り方を復元し、Fでは各村ごとに漁業・製塩・農業・林業の内訳を明らかにし、一つの村で異なる生業が行われていたことを述べている。近年、歴史学や民俗学から複合的な生業体系の実態解明が行われ、従来的な生業概念が否定されつつある。今後はFGで明らかにされたような各村ごとの複数の生業の併存を踏まえて、より詳細な分析が必要と考えられる。たとえば、Fでは村ごとの分析となっているが、各家ごとに従事する生業の内容や複数あった生業の力点の置き方が異なるはずである。この点の分析は中近世移行期に関しては史料的制約があるが、家ごとの生業内容も考慮する必要があろう。また、Fでは製塩の燃料用として、山林で薪採取が行われていたことが指摘されているが、生業は相互に関係しており、複数の生業の存在を単に並列するのみでなく、従事の時期といった点も含めて、年間のサイクルを復元し、相互の関係性を位置づけるべきと考えられる。

 複合的な生業の併存は、@Aの荒川郷やHIの三波川村でも同様である。Aでは荒川郷において、南側の川端地区における荒川を利用した生業、中央地区における街道沿いの宿場の展開、山林が存在し、薪取りや馬を利用した駄賃稼ぎを行っていた北側の只沢地区のように、同村内でも生業の体系が地区によって異なっていたとの指摘がなされている。この指摘は前述の家ごとの生業の違いとも関連し、よりきめ細かな生業の在り方を明らかにすべきことを示唆している。
 また、漁業負担を含めた年貢・小物成は実質的には名主個人の請負であり、その負担により没落する家もあったことがCDで指摘されている。そして、Cでは不漁や飢饉時の津元による網子への融通が行われており、さらに領主からの拝借金がそれを補完していたと述べている。拝借金自体は近世に成立した制度であり、中近世移行期には村内で突出した資産を持つ大川家のような土豪が果たした役割が大きい。問題はこうした土豪をいかに評価すべきかである。この点に関して、Cでは飢饉・不漁時の融通に焦点を当て、津元と網子の対立を小農自立に基づく対立関係ではなく、網子は津元からの融通により経営を維持するという相互依存関係で捉え直している。ただ、こうした融通関係自体は近世を通じて存在したと考えられ、その内実の変化を解明するのが重要となる。

 この中近世移行期における不漁・飢饉状況を史料に基づき論証したのがEで、戦国期から慶長年間における災害や飢饉、寛永以降の不漁・飢饉状況が扱われている。こうした自然災害に関しては従来は自然決定論として否定的な見方がなされたが、近年は気候変動や災害が政治・経済に与えた影響に検討が加えられ、災害史と呼ばれる領域も提唱されている。だが、こうした災害を扱うに際しては、史料残存状況による偏差や人災の側面にも留意すべきと考えられる。関東においては戦国期以前の災害に関する史料自体が少ないため、戦国期と鎌倉・室町期を比べること自体が困難であり、飢饉状況は戦国期のみでなく、中世から近世初期を通じて継続していたと見るのが自然である。勿論、その中でも飢饉状況がひどい時と比較的安定的していた時期があったと思われる。また、不作を気候変動(平均気温の低下)と結びつける傾向があるが、史料を見る限り不作の原因として洪水や大風が挙げられることが多い。台風の来襲や大雨の頻発が平均気温の低下と連動するとは限らず、当時の治水や農業技術水準では年に一回だけ来た大型台風により壊滅的な打撃を受けるのであり、気候変動が不作をもたらしたとは言えない。また、いわゆる気候変動に関しては、近年はヨーロッパでは氷河の伸長や年輪の幅の変化、葡萄の収穫日などの分析により(ル=ロワ=ラデュリ『気候の歴史』参照)、綿密な分析が行われている。また、南極の氷床の化学的分析によって、気温の変動が復元されており、こうした成果を参考にする必要がある。

 これに関連して、Eでは近世における不漁状況に検討が加えられ、特に立網の不漁が続いていて、さらには不作と不漁が同時に発生し、飢饉状況が起きていることも述べられている。従来の研究では不作が原因の飢饉に関心が集中している傾向があるが、その際には海村や山村がどのような状況であったのかを解明することも必要であり、Eで行った検討は意義深い。ただし、文書上での不漁という表現が現実の不漁の発生を意味するとは限らない点にも注意すべきである。Eでは近隣の村落による新たな漁場や漁法の開発により、立網が不漁となったという認識が紹介されているが、近世の訴状においては他村が行っている新規漁法により不漁になったという因果関係の説明が常套句となっており、これは新規漁法の差し止めを求めるレトリック的な要素も強く、実際に不漁であったかは別に検討が必要である(拙稿「幕末における新規漁法をめぐる相論」『六浦文化研究』第八号参照)。過去における不漁の原因を特定するのは困難であり、史料上の不漁文言は漁業負担免除を引き出すレトリック的な要素も存在すると考えられ、現実に不漁であったかもしれないが、事態を誇張している点も考慮すべきである。今後は不漁を述べる文言の背後にいかなる事態があったかをケースごとに検討していくべきであろう。

 Dは獅子浜村の景観復元を行い、植松・増田家の屋敷地や山林・畑の所有地、門屋敷や分家の所有地、寺社の所在を明らかにしたもので、両家の屋敷地や土地所有の在り方は長浜の大川家とも共通していると指摘している。一方、Dの最後では基礎的な分析を提示したにとどまり、屋敷地の持つ意味や利用法には迫れていないとも述べている。この点は本書の全体的な方法論とも関わる問題で、土豪論と村落景観をいかにして結合させて論じるかが問われよう。この点は土豪による生業遂行のための生産手段の掌握とも関わることである。また、他の海村でも中世以来の土豪的な家が近世以降も存続するケースは多く見られるので、そうした家との景観面を含めて比較を行うことで、海村の特徴が明らかになるのではないだろうか。

 Gは三津村の大川隼人家と松下家の動向、生業の特徴を明らかにしたものである。大川家の先祖は元々長浜村の商人であったが、その後に三津村に移住し、北条氏滅亡後には三津村の給人であった松下家に代わって、台頭したと指摘している。外から来た者が台頭したのは荒川郷の持田家とも共通しており、戦国期村落の住人の出自に関しては、他村の事例も合わせて検討すべきであろう。また、生業に関しては、他村への出作・漁業・廻船業・行商が行われ、周辺の村と比べて流通に深く関与していた点も指摘している。こうした三津村の特徴が内浦全体の中でいかなる意味を持っていたかも検討すべきと思われる。

 HIは三波川村を扱ったものである。Hは同村における山論に検討を加え、同村は村−小村という重層的な構造を持ち、山野の所有権は村・小村・百姓がそれぞれが持ち、十七世紀には多様な山論が発生していた点などを指摘している。Iは同村住人の縁組と奉公先、年季と年齢の関係などを数量的に分析し、かなり広い地域と関係を結んでいたことを述べている。同村に関しては、B〜Gで扱った海村と比較するためにも、山村の負担や生業などを検討した論考が欲しかったところである。

 なお、本書は「はしがき」にあるように、「中世近世移行期における土豪と村落に関する研究」という研究課題で、科学研究費補助金を受けた研究の成果であり、『科研報告書 中世近世移行期における土豪と村落に関する研究』と題する報告書が別に発行されている。これには本書の元になった論考の他に、絵図や文書の写真、西浦地域の編年史料目録や関係史料の紹介や分析もあるので、合わせて参照されたい。

 本書の成果としては、@現地調査や史料調査に基づいた景観復元、A戦国期の土豪から近世の名主への転換、B土豪(名主)が村落に果たした役割、C各村の生業内容、D飢饉・災害が村落に与えた影響とそれへの対応などが明らかになった点が挙げられる。中近世移行期の研究は多様なアプローチが存在するが、様々な要因を総合的に捉えることで、移行期村落の実態はより明らかになり、従来の研究の捉え直しが可能となり、新たな分析視角も生まれると思われる。

 一方、先にも少し触れたが、景観復元や村落調査が各論文で十分に生かしきれていない点があるように感じられる。全体的には景観復元作業と文書を利用した叙述が分離しており、両者を総合させる方法論が鍛えられるべきである。特に海村の場合は景観的に古いものが残りやすいため、こうした点ではやりやすい環境にあり、既に行われている民俗調査の成果(沼津市教育委員会『沼津内浦の民俗』など)も踏まえた研究が求められる。ところで、本書は『科研報告書』の一部を公刊したものだが、こうした『科研報告書』は小部数であり、研究者でさえも見ることが難しく、本書のように成果が明らかにされるのは意義がある。今後は共同研究の成果の公開方法に関しても、考えていく必要があるのではないだろうか。



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