天野紀代子・澤登寛聡編『富士山と日本人の心性』
評者:佐藤 顕
「関東近世史研究」65(2008.10)

 本書は、平成一四年度に採択された法政大学学術フロンティア部門のプロジェクト「古典文化と民衆文化」において、テーマを〈富士山をめぐる日本人の心性〉と限定して発足させた、共同研究の成果報告である。時代は縄文時代から近代まで及び、領域も歴史学に限らず文学・民俗学など幅広い。本書は三部構成となっており、Tには「描かれ・語られた富士山」、Uには「登攀・登拝の対象としての富士山」をめぐる論考と大まかに分け、最後に「外国人の富士山研究」を付している。本書の構成は以下の通りである。

はしがき
T
富士山に対する縄文人の意識について     (高橋毅・金山喜昭)
古代人の富士山観
  −火の山・日の本の鎮め−     (天野紀代子)
富士山をめぐる民間伝承     (宮本瑞夫)
「三国一」の富士の山
  −日本人の国家意識と富士山とのかかわりを考える端緒として− (小林ふみ子)
七代目市川団十郎父子と富士山
  −「暫」のつらねにみる観客の心性をめぐって−     (木村涼)
謡曲〈富士山〉の演能の場と言説
  −江戸幕府儀礼を中心に−      (川上真理)
時代小説と富士山      (横山泰子)
ビゴーは富士を描かない     (高橋覚)
U
富士御法家伝来文書管見祖述     (岡田博)
富士信仰と「御大行の巻」     (中山学)
富士の聖地と洞穴
  −「人穴」と「御胎内」にみる近世庶民の信仰と旅−     (山本志乃)
身禄派師職の継統と江戸十一講の成立
  −田辺近江家の跡目養子一件をめぐって−     (澤登寛聡)
富士信仰の展開と秩序形成
  −天台勢力との接点をめぐって−     (菅野洋介)
明治期の不二道孝心講について
  −皇居御造営御手伝土持を事例に−     (小林秀樹)

英米の美術史研究家による「富士山研究」     (山中玲子)
フランスの比較文学者による「富士山研究」     (天野紀代子)
あとがき

 以下各論文の概要を述べる。テーマが多岐に渡るため、評者の関心に基づき記述量に差が見られるが、ご容赦いただきたい。なお、付の「外国人による富士山研究」は概括が困難なため省略した。
 高橋・金山論文は、考古学的な方法により縄文時代の富士山への意識を考察したものである。富士山近辺の大規模遺構をもつ遺跡の事例から、山の自然や噴火に対する意識は、日常的に形成されていたことが示されている。富士山の方向に配石遺構全体の構造や軸が向いている例や、噴火期に配石遺構を構築して記念物としている例等は、富士山への意識の顕在化を考える上で興味深い。
 天野論文は、富士山が火を噴く山であった奈良・平安時代の富士山へのまなざしを『万葉集』や『更級日記』等から明らかにしている。それぞれ表現の形は異なるが、火の山への恐怖の念が共通してみられる。古代人が富士山を霊峰として仰ぐのは、畏怖の念があったからであるとしている。
 宮本論文は、『神道集』『富士の人穴』『富士山の本地』から中近世の富士山に関する民間伝承について明らかにしている。『富士の人穴』は、歴史的事実を踏まえて構想され、これに宗教説話によく見られる地獄遍歴譚などを組み合わせて、富士浅間大菩薩の霊威がいかに強力であるかを強調する内容になっているという。
 小林論文は、今日の「日本といえば富士山」という発想の根底にある富士山に対する「三国一」という修辞について明らかにしている。富士山を「三国」で第一の山とする認識は、中世以来見られるが、近世に入って広く普及する。富士信仰を支える浅間社の一つにそびえ立つ大鳥居に「三国第一山」の額が掲げられたことの効果も少なくなかった。開国により海外知識が格段に増えても、自国を強く意識するようになった日本人にとって、富士山は「世界」に対して誇れるものであったとしている。
 木村論文は、江戸歌舞伎七代目市川団十郎が創作した「暫」のつらねに含まれる富士山の文言から、団十郎と観客の心性を考察している。団十郎は観客の望む「悪魔はらゐ」の際に、「富士と筑波の真中から、天の川へほふり込」と述べている。団十郎は、江戸の人々にとって信仰の山であり、新春の祝祭的な景物であると認識されている富士山・筑波山を用いて、観客の心性に悪魔払いの一層の効果を浸透させていたと指摘している。
 川上論文は、能の謡曲〈富士山〉の歴史的変容とその流布状況から社会受容を明らかにしている。〈富士山〉は、超自然的な存在として富士山を描き、日本が神国であることを主張しているところが特徴である。江戸幕府の演能記録を見てみると、〈富士山〉が上演されたのは文政一二(一八二九)年の一度のみであった。私的な場では数回上演されていることから、武家、特に将軍家にとって〈富士山〉は有意味な作品ではなかったと述べている。
 横山論文は、日本の近現代文学、特に時代小説において富士山がどのように描かれてきたのか白井喬二『富士に立つ影』、国枝史郎『神州纐纈城』、吉川英治『燃える富士』、諸田玲子『笠雲』を検討している。『富士に立つ影』の富士山は超越的存在であり、『神州纐纈城』では魔界として描かれた。時代小説で描かれる富士山は作家のイメージで自由に描かれるが、『神州纐纈城』のように古典の系譜に則っている作品も見られると指摘している。
 高橋論文は、『TOBAE』の風刺画家として著名なビゴーの作品に描かれた富士山に注目している。来日当初や外国人向けの作品には富士が描かれることは多いが、日本人向けの作品には富士山を描かないのが常であった。ビゴーは日本人の心性を巧みに捉え、富士山を描くか否かを区別していたとしている。
 岡田論文は、富士講正統村上派の法脈を伝える「富士御法家」の文書の概要を示したものである。富士御法家には富士講開祖角行から代々世師の直筆文書が多く伝えられてきた。それらはいずれも神秘な拝礼の対象であった。昭和三六(一九六一)年遠藤秀男は、虫干しの時間中のみ撮影を許可され、富士講研究へ用いていった。その後遠藤が撮影した文書写真は岡田氏へ送られた。御法家衰退により、所蔵文書は富士宮市へ寄贈されたが、その中に遠藤が撮影した物が見出せないことがあり、写真文書を世に出さねばという責任感から、岡田氏は「富士御法家伝来文書管見祖述」を十七回『まるはとだより』に連載をしたという。本論文はその概要である。
 中山論文は、富士信仰の様相を明らかにする上で重視されてきた「御大行の巻」を分析し、富士信仰と「御大行の巻」の関係を明らかにしている。「御大行の巻」は、書行藤仏(角行)が自らの「天下の兵乱を治め、万民を助ケ、衆生を済度」するという定めにしたがって正しく行動し、結果として「天下の主」(徳川家康)を出現させ、治国済民の実現に寄与したという事実を証明しようとする意図で創られたものとしている。また、「御大行の巻」は富士講の寄合において写し取られていくもので、特定の教派にとってのみ有用なものであったのではないと述べている。
 山本論文は、富士山麓に存在する西側の「人穴」と北側の「御胎内」とよばれる両洞穴に対する信仰の変遷を明らかにしている。「人穴」は、鎌倉時代には「浅間大菩薩のご在所」という意味づけがされていたが、近世の富士講全盛期には、信仰の拠点は甲州の吉田側にあり、足を向ける者はほとんどなかった。吉田側の「御胎内」は浅間大菩薩出現の地とされ、富士参詣の案内書にも詳細な説明がある。「御胎内」は、比較的安易に修験気分が味わえる場所であり、庶民の「再生」への願いが発露される場であったとしている。
 澤登論文は、富士山北麓登拝口身禄派師職三家のうち、本家筋にあたる田辺近江家の跡目養子問題を検討し、その実態を明らかにしている。また、この問題とも関わった江戸十一講と称される富士講の連合体の成立にも言及している。文化年間、田辺近江家は血統が途絶えてしまうという危機感から養子縁組をして乗り切ろうとした。この過程で、従来別々の組織であった十一の講の同行衆の世話人達は互いに連絡を取り合うようになり、結果として江戸十一講という連合体を結成した。十一講の同行衆から得られる収益が田辺家浮沈を左右していたこともあり、江戸十一講が身禄派の師職と異なる相対的独自性をもった組織体として自主的・自律的な活動を展開させていたことを指摘している。講の研究は多くの蓄積があるが、御師と講の関係がこれほど詳細に明らかになる事例は少なく、富士講の特徴がよく理解できる論文である。
 菅野論文は、富士御師と寛永寺を中心とする関東天台の関係に注目し、富士信仰の展開には天台勢力が関係することを明らかにしている。また先達の活動に注目してみると、水を使用した「病気治し」、線香の使用、和歌を詠むことによる呪術性を連動的に組み込んでいたことを指摘している。近年の宗教研究では、本所を中心に宗教者の編成が明らかにされているが、本論文から寛永寺を中心とする天台宗にも注目することの重要性を学んだ。
 小林論文は、不二道・不二道孝心講について概説し、明治一七(一八八四)年の皇居御造営手伝土持を事例に、その奉仕活動を明らかにしている。不二道・不二道孝心講は、江戸幕府から明治の天皇親政に移行しても国恩に対する奉仕活動は不変であり、皇居御造営手伝土持も国恩・報恩より生ずる義務から行われた活動であるとしている。

 以上本書の内容を紹介してきたが、最後に、評者が関心を持つ富士信仰について取り上げた論文に対して若干所感を述べたい。これまで評者は富士信仰や富士講について、近世後期の幕府による富士講禁止等の印象が強く、その特殊性や画期性にばかり注目してきた。しかし、「御大行の巻」に徳川幕府との関係で富士信仰の正当性が書かれていることや、富士御師が寛永寺の支配を願うこと等、幕府との接近を図ろうとする動向が見られることが複数の事例で示され、富士信仰の性格を理解する上で幕府との関係が重要であることが改めて認識でき、非常に興味深いものであった。こうした富士信仰の性格を理解した上で、富士講信仰の公認化運動が行われていたことを考えると、その行動の理解がより深まるだろう。
 富士信仰に関しては、本書に掲載された以外にも様々な描き方ができるだろうし、近世の富士山を考える上では、富士山噴火等取り上げるべき点はまだまだ多数ある。この書をきっかけに富士山に関する研究が盛んになることを願ってやまない。



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