天野紀代子・澤登寛聡編『富士山と日本人の心性』
評者:玉井ゆかり
「法政史学」69(2008.3)

 近年、富士山についてのニュースに触れる機会が多い。富士山を世界文化遺産に登録しようという運動が地元の静岡県を中心に推進されている。また、二〇〇七年は宝永の大噴火から三百年ということで、地震や噴火といった大規模自然災害の防災や復興という問題との絡みで富士山が注目された年でもあった。このような特別な話題ではなくても、例年、元日の御来光登山、富士山の初冠雪や七月一日の「お山開き」といった定番の報道には、ほとんど年中行事のように接しており、日頃、実物の富士山を目の当たりにしていなくてもあの独特な山容を思い浮かべることができる。富士山という一つのイメージがある種の共通性を持って我々に浸透しているという点において、数多ある日本の山のなかで、たしかに特異な存在であるといえよう。日本の最高峰、秀麗な姿というだけではない「何か」があるのではないか、ということは語り尽くされてきたようではあるが、実は解明されていない問いかけであろう。編者の一人である天野氏による「はしがき」では、本書は日本人が富士山に何を感じ、何をもって精神的な拠りどころとしてきたのか、富士山が日本の象徴とみなされるようになったのはいつ頃からか、富士山に対する信仰はどのように浸透していったのかというような問いに対して、専門分野を異にする研究者達が様々なルートから解明を試みた論文集であるとしている。まさに我々が富士山に対して抱いている、言葉に表し難いような特別な感情の深奥を探るテーマであり、ひいては富士山という表象を通して日本文化の深層に迫ろうとする画期的な一冊であるといえよう。

 法政大学は「日本学の総合的研究」というテーマにより、平成十四年度に文部科学省の学術フロンティア推進拠点に選定された。この企画の一つとして組織されたのが「古典文化と民衆文化」プロジェクト・チームで、「富士山をめぐる日本人の心性」をテーマとして共同研究を推進し二〇〇七年三月に報告書が提出された。それに加筆・訂正、改稿を加え、書名を変えて上梓されたのが本書である。まず本書の構成を記し、次にその概要を紹介するが、限られた紙数であるためごく簡略なものになることを最初におことわりしたい。(括弧内は執筆者、敬称略)十六の論文は二部に構成されている。Tは「描かれ・語られた富士山」、Uは「登攀・登拝の対象としての富士山」と大別され、最後に「外国人の富士山研究」についての二編が付されている。

はしがき     (天野紀代子)
   T 
富士山に対する縄文人の意識化について     (高橋 毅・金山喜昭)
古代人の富士山観―火の山・日の本の鎮め―     (天野紀代子)
富士山をめぐる民間伝承     (宮本 瑞夫)
「三国一」の富士の山
  ―日本人の国家意識と富士山とのかかわりを考える端緒として―  (小林ふみ子)
七代目市川団十郎父子と富士山
  ―「暫」のつらねにみる観客の心性をめぐって―     (木村 涼)
謡曲〈富士山〉の演能の場と言説―江戸幕府儀礼を中心に―     (川上 真理)
時代小説と富士山     (横山 泰子)
ビゴーは富士を描かない     (高橋 覚)
   U
富士御法家伝来文書管見祖述      (岡田 博)
富士信仰と「御大行の巻」      (中山 学)
富士の聖地と洞穴
  ―「人穴」と「御胎内」にみる近世庶民の信仰と旅―     (山本 志乃)
身禄派師職の継続と江戸十一講の成立
  ―田辺近江家の跡目養子一件をめぐって―      (澤登 寛聡)
富士信仰の展開と秩序形成―天台勢力との接点をめぐって―     (菅野 洋介)
明治期の不二道孝心講について―皇居御造営御手伝土持を事例に―  (小林 秀樹)
   付
英米の美術史研究者による「富士山研究」       (山中 玲子)
フランスの比較文学者による「富士山研究」     (天野紀代子)
あとがき     (澤登 寛聡)

 高橋・金山両氏の論考では、縄文時代における富士山への意識化のあり方について、「縄文ランドスケープ」の視点を応用した考古学的方法によって考察している。配石遺構・巨木柱列・盛土遺構など、縄文時代の大規模な土木工事による公共的人工物(記念物)の配置に自然景観(ランドスケープ)が取り込まれていることに着目し、ここでは山梨・静岡県内の「富士山を見ることができ、比較的大規模な配石遺構を持つ」草創期から後・晩期の十四遺跡を抽出して時期的傾向や分布、遺構の位置・形態・軸の向き・単位的な石の配置などの分析を行い、富士山への意識化を探る手がかりとしている。

 天野氏は、奈良・平安時代の文学作品を通して古代人の富士山への思いを探り、後世の日本人の富士山観の祖型を考察している。取り上げられているのは『万葉集』から高橋虫麻呂の富士山詠の長歌、九世紀の都良香による『富士山記』、平安歌人による「燃える思い」を詠った歌、さらに、燃える山を実見した菅原孝標女『更級日記』である。奈良・平安時代は富士の火山活動が活発だった時期にあたる。文字通りの「燃ゆる山」であった富士山に対し古代人が抱いた畏怖の念こそが、人知を越えた神の存在を思わずにはいられない心性のあらわれであったと読み解いている。

 宮本氏の論考では、中・近世に成立した富士山に関わる三つの説話―『富士浅間大菩薩事』『富士の人穴』『富士山の本地』―を取り上げ、それぞれの内容の分析から説話の源流を為す古来の民間伝承や史実を導き出している。これらはいずれも富士浅間への強い帰依と霊威を強調しており、近世以降の富士信仰の盛行を背景に広く民間に伝承されたのではないかと考察している。

 小林ふみ子氏の論考では、「三国一」の富士山という表現の用例を手がかりに、それが使われた背景を考えることにより、富士山と日本人の国家意識との関わりについて論究している。近世に富士山が世界に二つとない名山であるとする認識が形成・普及した過程を「筆者が知りえた限りながら」とことわりながらも随筆・戯作など多様なジャンルの言説から掘り起こしている。そしてこの認識は明治の日本人の自信を支え、さらに今日の「日本といえば富士山」という発想の根底に流れ続けていると考察している。 木村氏の論考で取り上げられているのは歌舞伎の演目「暫」である。「暫」は顔見世興行という江戸歌舞伎の新年を寿ぐ祝祭的景物・儀式であるということもできると指摘する。神事ともいえるような「暫」の中でもとりわけ重視されるのが「つらね」という長台詞である。ここでは八代目団十郎の「暫」初演時に七代目が創作した富士山が登場するつらねの内容の検討から、富士山に対する江戸の観客の心性を探りながら江戸歌舞伎・富士山・観客の関係を考察している。

 川上氏は江戸時代における謡曲〈富士山〉の上演を通し、作品が流布し社会に受容された実態についての検討を行っている。ここでは〈富士山〉の構造分析と、謡本などの出版物の普及状況からみて〈富士山〉がほとんど一般化されなかったと指摘している。また、幕府の演能記録の分析から、公式には一度の上演が行われたのみであることを明らかにし、祝言の曲であるにもかかわらず採用されなかったのは「将軍家に有意味な作品ではなかった」ことが理由の一つではないかと考察している。ただし、物語の意味と出版物の普及、演能の場という三者に有機的な連関を見出すということは今後の課題であるとしている。

 横山氏の論考では、文学研究において従来取り上げられることの少ない「時代小説」というジャンルのなかで、富士山がどのように描かれてきたのかを考察している。氏によれば、時代小説で描かれる過去はフィクショナルな過去であり、富士山も「近現代の作家が過去の富士山はこうだったら面白い」と考えた想像の富士山であると考える。「近現代人の夢の富士山として時代小説の作品を読んでいこう」という問題意識を前提として、『富士に立つ影』『神州纐纈城』『燃える富士』『笠雲』が分析されている。

 高橋氏が取り上げたビゴーは、十九世紀末に日本に滞在し風刺画家として知られるフランス人である。氏は、熱烈な日本愛好者であったビゴーの行動に当時の日本人の心性を反映している部分があると考え、その画業と行動に焦点を当てて富士山をめぐる日本人の心性に迫ろうとしている。ビゴーの作品には富士山が描かれているものも多いが、千葉・稲毛海岸を題材とした油彩風景画
には背景に当然あるべき富士が描かれていないものが多いという点に着目し、日本人向けに制作した作品には富士を描かなかったのではないかと指摘したうえで、その理由も論究している。

 岡田氏は富士講研究に長年携わられ、本書では富士講村上光清派に伝来した文書についての分析と概要を紹介されている。文書は開祖長谷川角行から代々の世師の直筆といわれ神罰を畏れて厳重に秘匿されていたのを、研究者である遠藤秀男氏の熱意が実り、昭和三十年代に、土用一日だけの虫干しの日、直会の時間のみ撮影を許可されたのが掲載の文書である。近年、岡田氏は遠藤氏より文書の写真を託され、『まるはとだより』誌上に掲載した。

 中山氏の論考では、富士講開祖といわれる書行藤仏(長谷川角行)の奇跡譚を記した巻物「御大行の巻」が、近世の富士信仰においてどのような意義を有していたのかを明らかにすることを課題として、詞書の内容構成の検討をし、さらに近世の富士講が同書をどのように扱っていたのかを考察している。その結果から氏は、「御大行の巻」が書行の事績に仮託して富士信仰の存在根拠と正当性とを歴史的に追認する記憶の場としての意義を持つこと、さらに講の信仰儀礼の場で実際に写し取ることにより、記憶の再生産が試みられていたことを明らかにしている。

 山本氏は「人穴」「御胎内」と呼ばれる洞穴を取り上げている。どちらも近世の富士講においては聖地として認識されていたが、信仰の歴史的変遷は異なっている。ここではそれぞれの変遷を辿ることによって富士信仰の多様な展開を考察するとともに、富士信仰の本質を富士山が万物を生み出す根元であると捉えれば、これらの洞穴はそれを象徴的に体現する場であったと指摘している。さらに、胎内巡りという一種の疑似再生装置・疑似修験体験が富士参詣の旅の魅力を増大させていたであろうことから富士山行が庶民の再生への願いが発露する場であったと考察している。

 澤登氏の論考では、文化八年に起こった富士山北口の身禄派師職田辺近江家の跡目養子問題をとりあげている。この一件から、富士講にとって最重要の信仰拠点となっていた富士山北口身禄派師職の実態を明らかにし、さらにこの問題に関わった「江戸十一講」と称される元講の連合体の結成・成立についても論究することを目的としている。富士山北口の身禄派師職は三家あり、田辺近江家はその本家筋であったがこの頃は実子がなく、後継者問題が深刻化していた。曲折を経て田辺伊賀家次男を養子に迎える話が調おうとしているときに、田辺近江の江戸同行衆からこの縁談を不承知とする姿勢が表明されたのである。富士吉田の師職家間の動き、江戸の同行衆による養子縁組撤回運動、そして実は江戸の同行衆に働きかけていた身禄派師職の二家の危機感…というように、文化八年から九年にかけての跡目養子問題について、澤登氏は師職の日記を中心に有機的且つ論理的に分析し、富士と江戸の重層的なファクターを再構築している。さらに、別々の組織として活動していた江戸の各講の世話人達が連絡を取り合うようになり、江戸十一講という元講の連合体が成立したのはこの跡目問題に端を発していたという点について明らかにしている。
 菅野氏の論考は、天台勢力が富士信仰の御師や先達とは関係を有さなかったのか、さらに御師や先達の活動から関東での富士信仰隆盛の背景を明らかにするという二点を中心に展開されている。この前提となっているのは、従来の富士信仰の研究史では御師が京都の吉田・白川家から免許を受けることを重視し、江戸よりも京都との関係性が追求されてきたという点である。これに対して氏は、富士信仰が江戸を中心に関東で隆盛した背景を考え、また「幕府の宗教権威のあり方を考えた場合、寛永寺―日光山を捨象することは賢明ではなかろう」としている。ここでは甲州郡内地域をとりあげて御師と寛永寺末寺院、木食系寺院と富士信仰、天台系寺院と先達との関係などについて論証し、天台勢力と先達とが接点を有していたことを指摘している。また、先達の活動として「病気治し」に注目し、寛永寺下の羽黒修験と富士講先達との接点について検討している。そして富士信仰の展開と関東天台の動向についての位置づけを今後の課題として提起している。

 小林秀樹氏の論考では、近代の「不二道孝心講」における奉仕活動が取り上げられている。まず「不二道」の沿革と小谷三志による組織の拡大、不二道の教義について述べている。三志没後、神道実行教と神道化に反対し神仏儒に属さずとした不二道孝心講に分裂する。孝心講では実践活動の一環として「家業に励み、余得を貯え、業余に道路堤塘の修築、凶災救助に充てる」などしてきたという。土持といわれる土木奉仕には自炊自弁で従事した。ここでは明治十七年の皇居造営に際しての土持について考察している。氏によれば国恩に対する義務から活動の根元が生じ、一連の奉仕活動につながっていったとして、この奉仕活動が富士山をめぐる日本人の心性の一形態を示しているとしている。

 「外国人による富士山研究」は、山中・天野両氏により口頭発表したものの活字化の再録とのことである。両氏ともに論文の内容を要約して紹介し私見や考察を述べられているが、ここでは報告されている論文を紹介するだけにとどめることとしたい。
 山中氏が紹介するのは、まず、ティモシー・クラーク氏による論文「日本の風景画における富士山を展望する」と、もう一編は米国人メリンダ・タケウチ氏による「山を作る:富士塚、江戸で流行した宗教と広重の『名所江戸百景』」という論文である。
 天野氏はフランス人比較文学者による論文を二編紹介している。パスカル・モンチュペ氏の「北斎、エドモン・ド・ゴンクール、ミシェル・ビュトールによる富士山の賞賛」と、ジェラール・シアリー氏の「太宰〈山〉百景、太宰治の『富嶽百景』における山のトポスと日本のパトス」である。

 以上、本書の構成とそれぞれの論考について概略を述べてきた。筆者の知識と理解の不足から正確に伝わらないところがあるかと思うが、執筆者各氏のご寛恕を請う次第である。

 本書を通読して、内容の広範囲なことにまず圧倒された。まさにいろいろなルートから「富士山」に登攀したというのが実感である。一つのテーマに向かって専門を異にする研究者がそれぞれの史料に取り組み、題材を駆使し、長年の研究蓄積を背景として提示した、内容の濃さと真摯さに圧倒されるのは当然といえば当然のことであろう。専門分野にこだわらず、広範な読者に本書の御一読をぜひお勧めしたい所以である。私事であるが各論考からは新知見を得ることも多々あった。ただ読んで納得してしまうのではなく、自らの「富士山をめぐる心性」を相対化していくために、ここを登山口、或いは一合目として自分なりに今後も考えていきたいと思う。最後に、執筆者各氏の〈この後〉の研究成果についても拝読したいと考えるのは筆者だけではないと思う、とお伝えして筆を擱きたい。



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