「滋賀県の長谷川さん」といえば研究論文が書ける行政マンとして本学会でもおなじみの方だが、その長谷川嘉和氏が二十八年間勤めた滋賀県教育委員会を退職するにあたって、日頃問題意識を共有している仲間を中心に原稿を持ち寄って刊行したのが本著である。目次を見てお分かりのように、執筆者は文化庁調査官、府県市町村教委の民俗担当者、研究所や博物館・資料館の研究員、大学教員、など肩書はさまざまだが、いずれも長年民俗調査に関わってきたベテランの方々である。編集者の弁として、当初は近畿圏を中心にもっと小規模の本をまとめるつもりだったのが、この際全国の民俗担当者に読んでもらいたいと執筆者をより広く多く求めたためこのような大部の本になったという。執筆者一覧には三十一名のお名前が挙がっており、一々の論考紹介は無理なのでまず目次をそのまま記載する。
目 次
はじめに
T いまなぜ民俗文化財か
民俗文化財保護の基本理念について 大島 暁雄
−特に、昭和50年文化財保護法改正を巡って−
「文化立国」論の憂鬱−民俗学の視点から− 岩本 通弥
文化財と民俗研究 植木 行宣
U 民俗文化財の保護
重要無形民俗文化財(民俗芸能)の保護について 齋藤 裕嗣
−「現状変更」との関わりから−
民俗行事の伝承と変容 菊池 健策
民俗行事の変容と伝承 行俊 勉
−「三上のずいき祭」の継承に向けて−
民俗芸能の調査と歴史資料 池田 淳
−吉野水分神社の御田を事例として−
民具の収集と価値づけ 福岡 直子
民具の保存と活用−触れて体験する展示の可能性− 藤井 裕之
博物館・資料館における有形民俗文化財の位置 吉田 晶子
第二次資料を導き出すための実測図と記録図化について 石野 律子
民俗文化と回想法 岩崎 竹彦
V 民俗文化財の記録
無形の民俗文化財の映像記録作成への提言 俵木 悟
風流系踊りの記録保存について 長谷川嘉和
民俗音楽の記録に関する諸問題 梁島 章子
民謡の映像記録について 吉永 浩二
民俗技術の映像による記録作成とその諸問題 伊藤 廣之
文化行政における古写真の資料化の今後 村上 忠喜
有形民俗文化財の映像記録作成−都道府県行政の関わり方− 榎 美香
W 民俗文化財保護のとりくみ
市区町村の民俗文化財と登録制度 関 孝夫
民俗芸能緊急調査 福田 良彦
祭り・行事調査−報告書の役割とは− 吉越 笑子
調査データのその後 樋口 昭
−民謡緊急調査のデータを通じて考える−
民俗芸能大会について−奈良県の事例− 鹿谷 勲
東京国立文化財研究所芸能部と民俗文化財行政 中村 茂子
埼玉県立民俗文化センターの事業について 飯塚 好
自治体史編纂事業と民俗文化財 鵜飼 均
−市史民俗編のあり方と自治体の役割−
静岡県磐田市の見付天神裸祭と保存会 中山 正典
−国の重要無形民俗文化財に指定されて以後−
X 世界無形文化遺産と民俗文化財
無形文化遺産に関するユネスコの取り組みを振り返って 佐藤 直子
無形文化遺産の特性とその保護−日本の事例− 植木 行宣
文化的景観と民俗学 原田 三壽
パブリック・フォークロアと「地域伝統芸能」 八木 康幸
民俗文化財保護の仕事−ひとりぼっちの民俗担当− 長谷川嘉和
長谷川嘉和さんのふたつの顔−本書の刊行にさいして− 樋口 昭
長谷川嘉和さんの仕事(業績)
冒頭には長年文化庁にあって保護行政の先頭に立ってこられた大島暁雄氏の説く文化財保護の基本理念、あるいは今こそ文化財保護に研究者が積極的に関与、発言すべきという植木行宣氏のご講演などが収録されている。Uでは民俗文化財の伝承と変容の問題を民俗の現場から考える論考、有形民俗文化財の展示、活用、記録に関する具体的事例報告など、Vでは記録作成に向けての具体的方策、注意すべき事項など、今すぐにも役に立ち応用できる技術が満載である。例えば長谷川氏は調査報告書の一項目に必ず音楽を入れて下さっているが、滋賀県の風流系芸能の音楽調査に長年関わってきた梁島章子氏の五線譜使用に関する諸注意は、我々音楽関係者が常に肝に銘じておかねばならないことである。
Wでは文化庁主導の各種都道府県調査や自治体市史民俗編編纂に関わった方々、あるいは国立から独立行政法人に改組された東京文化財研究所、そして民俗専門の研究機関として実りある事業を積み上げてきたにも関わらず統廃合されてしまった埼玉県立民俗文化センターの研究員だった方の文章などが並んでいる。文化庁主導の各種緊急調査も、一応県内の状況把握ができた段階で終ってしまっては本当は調査は半ばなのである。全国から集めた民謡や民俗芸能調査の成果物、具体的には録音テープや映像記録の「整理・研究は研究機関が行なうべきであった」と樋口昭氏は言う。民謡テープの整理は国立歴史民俗博物館で取り組んでいて、「日本民謡データベース」として徐々に研究者に公開されているが残念ながら文字情報のみである。楽譜集と録音が伴って誰でもどこでも活用できる『日本民謡大観』のようになるのが本当は望ましいのだが、データ量の膨大さ、個人情報、著作権などクリアすべき課題が山積でそう簡単にはいかないようである。なによりテープの劣化が差し迫った問題であろう。
Xは今最も世間の関心を集めているユネスコの世界無形文化遺産に関する論考などを含む。日本の能や文楽は通称「世界遺産」で通用しているが、自然環境や建造物を含む文化的景観と異なり、正しくは「人類の口承および無形遺産の傑作の宣言」というのだそうで、部外者には分りにくいその辺の状況を佐藤直子氏がまとめている。八木康幸氏は通称「おまつり法」に基づいて毎年開催されている全国レベルの地域伝統芸能イベントに関する報告の中で、文化財と観光振興との境界線引きの難しさを指摘している。
以上紙面の都合上ごくごく一部しか紹介できないが、ここ半世紀にわたる文化財保護の活動をざっと展望することができ、現在の危機的状況にどう対応していくかを考え、また調査・記録・展示などの具体的ノウハウをスタッフや予算の実例に則して教えてくれる、大変有意義かつ便利な本でもある。
さてどこの行政機関でも埋蔵文化財担当者に比して民俗担当者の少なさにはびっくりする。文化財担当全体で十人いや二十人いてもわずか一人二人、いないところも珍しくない。このような状況については、長谷川氏ご自身が「ひとりぼっちの民俗担当」の副題でたっぷり書いておられるので是非読んでいただきたい。「たとえ一人でも民俗担当者がいるのといないのとでは大きな違いがあります。一人ずつでもすべての行政機関に民俗の専門家が配置されればどれほど保護がはかれることか。」とおっしゃる。誰でもが長谷川氏のような立派な仕事ができるとは限らないにしても、少なくとも「いるといないとでは大きな違いがある」はずである。
滋賀県の取組みの中で私が注目するのは「無形民俗文化財はつねに変化を内在しているので、指定しても余り意味がなく、記録選択にとどめるべきであると後年考えるようになり、」県指定は八件までにとどめ、以後は止めたという個所である。すなわち長谷川氏は、「選択したらなるだけ早く調査を実施し記録を作成する」という方針をとってこられた。結果として滋賀県の調査報告書の充実には目を見張るものがある。京都府は以前田楽、六斎念仏など分野別の報告書を次々と出していたが、滋賀県の場合は「○○の太鼓踊り」といった一ヶ所の芸能ごとにまとまった調査報告書や映像記録を多数刊行しておられる。さいわい近畿圏には優秀な研究者がたくさんおられる。この方たちを中心に調査団を組織し長期的調査計画を押し進めることができたのはやはり民俗専門職ならではであり、長谷川氏の大きなお仕事である。複数の県市で文化財指定に関わっている評者も、少しでも地元の励みになればと指定を推進しているものの、調査記録がちっとも伴わないことにこれで良いのかという思いにかられている。国の記録選択も「記録すべき」と「選択」しておきながら、積極的なことはなにもしてくれない。
ついでにいえばどの分野であれ専門職がいればまだ良い。Wで「民俗芸能緊急調査」を書いておられる三重県の福田良彦氏のように、一般行政職員が民俗関連調査に関わる例もごく普通である。たまたま福田氏は大学の専攻が歴史で、かつ本著の監修者でもある植木氏や長谷川氏を含む近畿圏の民俗専門職員の方々から多くのことを学び、土木、地域振興など文化財担当部局を離れている間も調査員として民俗に関わっておられたという。平成十八年再び文化財保護室に戻られたのは喜ばしいが、一般職である限りまたいつ移動するか不安である。
文章も具体的で読みやすく、民俗文化財保護に携わる行政職の方々、民俗調査に参加している研究者の方々はもちろん、各地の保存会の指導的立場にある方々にとっても興味をもっていただける内容である。ぜひ多くの関係者に読んでいただきたい本である。
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