天野紀代子・澤登寛聡編『富士山と日本人の心性』
評者:堀内 眞
「山岳修験」41(2008.3)


 古来、富士山は、その崇高さ、気高さから日本を代表する精神的なシンボルの一つとして認識されてきた。今日でも新幹線から富士山が見えると、清々しい気持ちになったり、励まされたりし、新しい力をもらったような不思議な感慨を覚えることがある。このような、この山の持つ多面的な価値の解明をもとに、世界文化遺産への登録を目ざす取り組みがなされている。
 本書は、考古学や歴史学、民俗学、あるいは文学、美術史などの学問領域を通して、富士山を日本人ないしは外国人がどのように認識してきたのかを明らかにしようとする試みである。この試みの下敷きとなるものは、おそらく「富士の研究」であろう。一九三〇年代の後半以降に「富士の研究」シリーズが刊行されるが、この時代に、考古学的な地域研究の成果など、新たな実証研究の成果も一部には採用し、富士山の歴史編纂を目ざした取り組みであり、この歴史研究の方向は、今日の学会で注目を集めるテーマの一つともなっている。この動きをうけての取り組みの一つといえよう。
 目次を示すと、

T
富士山に対する縄文人の意識化について(高橋毅・金山喜昭)
古代人の富士山観−火の山・日本の鎮め−(天野紀代子)
富士山をめぐる民間伝承(宮本瑞夫)
「三国一」の富士の山−日本人の国家意識と富士山とのかかわりを考える端緒として−(小林ふみ子)
七代目市川団十郎父子と富士山−「暫」のつらねにみる観客の心性をめぐって−(木村涼)
謡曲〈富士山〉の演能の場と言説−江戸幕府儀礼を中心に−(川上真理)
時代小説と富士山(横山泰子)
ビゴーは富士を描かない(高橋覚)
U
富士御法家伝来文書管見祖述(岡田博)
富士信仰と「御大行の巻」(中山学)
富士の聖地と洞穴−「人穴」と「御胎内」にみる近世庶民の信仰と旅−(山本志乃)
身禄派師職の継統と江戸十一講の成立−田辺近江家の跡目養子一件をめぐって−(澤登寛聡)
富士信仰の展開と秩序形成−天台勢力との接点をめぐって−(菅野洋介)
明治期の不二道孝心講について−皇居御造営御手伝土持を事例に−(小林秀樹)

英米の美術史研究者による「富士山研究」(山中玲子)
フランスの比較文学者による「富士山研究」(天野紀代子)

を各執筆者が分担執筆している。

 Tでは、まず考古学的な考察として、高橋・金山は、遺跡・遺構を通じて縄文人の富士山に対する意識を明らかにしようと、千居遺跡・牛石遺跡・金生遺跡などの配石遺構を取り上げて検討している。天野は、古代人の富士山観を『万葉集』高橋虫麻呂の歌と九世紀の漢詩人・都良香の「富士山記」、平安和文日記との比較を通じて、噴火鳴動し圧倒的な存在感を示す火の山のあり方をみていく。宮本は、中・近世の民間伝承を、『神道集』、『富士の人穴』、『富士山の本地』をもとに考察する。『神道集』の「富士浅間大菩薩」に係る由来讃を捜索し、こうした伝承が、三島・柴町の富士浅間神社などの信仰集団を背景に伝承されてきたことを述べる。お伽草子『富士の人穴』は、富士の聖典とされ、広く民間に流布された。『富士山の本地』では、富士浅間への強い帰依と霊威を強調した伝承が行われたことを示す。今後、登拝口の信仰のあり方や山内に祭祀されていた仏像・金石類との比較検討も課題となろう。小林は、その副題が示すように、日本人の国家意識の醸成を富士山とのかかわりで検討する。
 市川団十郎の父祖の地は甲州の市川(市川三郷町)であるとされる。木村によると、歌舞伎十八番の「暫」の最大の見せ場に、主人公が述べるつらねがあり、その文言に富士山が登場するとする。観客の心持を探りながら江戸歌舞伎の富士山・観客との関係を考察する。川上は、謡曲「富士山」の演能の場、江戸幕府の儀礼を中心に、言説(ことばで説くこと)を考察する。江戸時代の能と富士山をテーマとする。中世に作曲されたものと近世の明和期に改正されたものとの構造的な違いについての比較検討を行って、近世社会への受容を考察する。江戸幕府の富士山に対する態度の一端を解明しようとするものである。
 横山は、日本の近代以降の文学、特に時代小説において、作家が伝統的な富士山のイメージを使っていることを述べる。
 ビゴーは、十九世紀末の日本に十七年間にわたって滞在した画家である。高橋は、日本人向けに制作した作品に富士山を描かないのが常であったことを述べる。

 Uは、富士講の儀礼に関する論考を並べている。
 岡田は、富士宮市人穴の入口に所在した「富士御法家」の富士講祖角行以来秘蔵した文献を紹介する。富士御法家は、富士講村上派の法脈を伝え、同家から提供された資料写真を託された岡田博氏が、自身が編集発行した『まるはとだより』一六七号から二〇〇号までに連載した文献類の概要である。
 中山は、北口本宮富士浅間神社が所蔵する「角行藤仏●御大行記」(御大行の巻)を素材として、その構成と信仰的な取扱いについて検討し、この秘伝巻のもつ意義を考察している。まず、「御大行の巻」の構成について述べる。富士登拝の修行を終えて人穴に戻った書(角)行が、仙元大日神を感得する。万民を助け救済のために出生し行動したことによって、「天下の主」(徳川家康)を出現させ、治国斉民の実現に寄与した。そのような経緯を踏まえて、「身禄の法」を広める後の富士信仰(富士講)の存在理由と正当性とを追認し、この信仰の存在意義を主張したものだと論を進めている。そしてこの中から自生した富士講が、その信仰儀礼の場で「御大行の巻」を「拝写」する必要性を追求している。富士講の信仰拠点は甲斐側の北口の吉田にあり、東海道に開けた駿河側の登山口は、それから一線を画していた。この両者の中間に立地する人穴は、角行入滅の聖地であることを梃子に、より多くの参詣者を集めたいという意識をもとに整備された。
 山本は、富士山麓に数多く存在する熔岩洞穴の人穴と御胎内(船津胎内)に注目し、ともに富士山の神である浅間大菩薩の出現地という伝説をもって信仰の対象となってきたことを手がかりに考察を進める。とくに、江戸を中心に関東一円で隆盛をきわめた富士講の信徒が立ち寄る場所になっていた人穴は、鎌倉時代からの信仰の歴史をもっており、御胎内は十八世紀後半以降と異なる出発と変遷を有し、北口を拠点に大衆化した富士講の消長によるところが大きい。御胎内は、胎内潜りとも呼ばれるように、一人がようやく通れるようなとりわけ狭い熔岩洞穴を母胎にみたてそこに出入りして、穢れを除去し新たな生命を得る擬死再生の儀礼場所であることが根底にある。富士講は、事前ないしは登山の出発時にそこに立ち寄って御山入りをする。人穴の洞穴は、浅間大菩薩の出現地とされ、万物を生み出す根元であるとする信仰の本質を具体的に体現する場であり、さらには富士講信徒による登山後に巡拝する山西の浄土山になった。
 澤登は、富士御師(師職)が集住する吉田の菊屋田辺の当主菊田式部が書き記した日記(菊田日記)と、富士講を梃子に成立した「身禄派師職」(御師)の史料(中雁丸家文書)をもとに論を進めている。御師田辺近江は、菊田の檀家(御師株)の分与を受け、菊屋田辺十郎右衛門として成立した。その子多助が中雁丸を明和年中百姓より相続し、孫の門太夫(小菊駿河)が小菊屋を百姓より相続して再出発した。田辺十郎右衛門(近江)とその子と孫に繋がる身禄派御師と、瓶子屋を額名とする田辺伊賀の跡目養子をめぐる争論と、身禄派の連合体である「江戸十一講」の成立に関しその結合体の展開について考察する。
 菅野は、江戸寛永寺を中心とした天台勢力が、富士信仰と接点を有する史料の整理を通じて、その意味づけを行っている。とくに天保期の元八湖(忍野八海)再興に関する末寺東円寺の動向、傘下の羽黒修験の関与による富士講先達の職掌をめぐる争いを述べ、忍草村(忍野村)での天台勢力の展開を明らかにしている。
 小林は、不二道孝心講を取り上げる。不二道は富士講の系譜を引く宗教であり、武蔵鳩ヶ谷の小谷三志によって組織化が図られ、富士講の中で一大勢力を誇った。明治期になると組織は分裂し、柴田花守を教祖とする神道實行教が成立し、これに対して旧来からの不二道孝心講が対立したが、皇居御造営の土持運動を事例にして富士講一派の展開を考察している。

 付の「外国人による富士山研究」として付されるのは、英米の美術研究者による「富士山研究」、フランスの比較文学者による「富士山研究」の二本である。

 以上、『富士山と日本人の心性』を追ってきたが、日本人は富士山に圧倒的な存在感を感じ、精神的な拠りどころとしてきたことを、各種の論文から明らかにした精力的な取り組みについて取り上げた。各執筆者の意を十分に尽くせなかったが、富士山によせる日本人の心性に多方面から迫った良書であるといえよう。世界文化遺産を巡る今日的な状況、基礎研究のさらなる深化に向けた取り組みの上からも是非一読をお薦めし、本書の紹介を終えたい。




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