久住真也著『長州戦争と徳川将軍−幕末期畿内の政治空間』
評者:家近 良樹
「歴史評論」689(2007.9)


 かつて極度の停滞状況にあった研究分野で、ここ十数年ほどの間に最も活発な成果が生みだされつつあるのが幕末史である。よく知られているように、長年にわたって、質量ともに豊富な史料を素材に長州藩などの研究が推進されてきた。が近年では、若手研究者を中心に、徐々に幕府や朝廷、あるいは非薩長諸藩の研究が進展してきた。若手研究者の手になる本書も、こうした流れの中に位置づけられる力作である。

  一 本書のテーマと要旨

 本書が対象とする時期と分析視角は限定的である。対象となる主要な時期は元治元(一八六四)年末から慶応二(一八六六)年後半にかけての二年間、分析視角は幕府側の動向を中心に、朝廷・幕府・諸藩それぞれの関係のあり方を考察することで、当該期の中央政局を分析するというものである。対象時期が限られた分、分析は詳細なものとなった。
 本書は、著者が「いわゆる一会桑研究などの進展に触発」(三五〇頁)されて、幕末の徳川幕府研究を志向するようになったと記しているように、「一会桑権力(政権)」に対する研究史の整理から始まる。そして、最終的には、長州再征(第二次長州出兵)に至る過程と背景が、具体的な史実の分析を通して明らかにされる。
 ところで、著者の分析視角の特色は、先行研究の中でも、とくに原口清説に大きな影響を受けている点に求められよう。むろん、それは、研究のスタートともいうべき一会桑三者の果たした役割・性格の検討から始まる。すなわち、本書は、「原口の(一会桑権力説)の規定に基本的に賛同」(二〇頁)したうえで、当該期に関して、原口説を受け継ぎながら、著者なりの見解を懸命に付け加え、構築しようとしたものである。
 左に本書の目次を掲げ、つづいて各章の要旨をまとめる。

 序 章  本書の分析視角
 第一章  徳川幕府の復古と改革
  第一節 幕府復古派の形成と性格
  第二節 幕府復古派による施策の事例
  第三節 幕府復古政策の転換に向けて
 第二章  第一次長州出兵と元治元年の政治情勢
  第一節 将軍進発問題
  第二節 征長態勢の特質
  第三節 早期解兵路線の検討
  第四節 早期解兵路線の背景
 第三章  慶応元年将軍進発態勢の創出
  第一節 戦後処理をめぐる政局
  第二節 慶応元年三月二日の御沙汰書
  第三節 将軍上洛令の背景
  第四節 四月政変と将軍進発予告令
  第五節 将軍進発令の衝撃
 第四章  長州再征遂行主体の形成と環境整備
  第一節 将軍家茂の参内と将軍滞坂構想
  第二節 将軍滞坂と対長州政策の始動
  第三節 将軍即時進発勅許の背景
  第四節 一〇月政変と幕府改造の実現
 第五章  板倉・小笠原の政治路線
  第一節 朝幕関係の修復
  第二節 外交問題と幕府改造
  第三節 一一月〜一二月末の政治情勢
 第六章  長州処分執行態勢の確立
  第一節 長州処分案の確定
  第二節 長州処分執行と宮中の動揺
  第三節 朝幕政権の「偽勅書」対策
  第四節 開戦への道
 終 章  将軍畿内滞在態勢への道

 第一章では、元治元年から慶応元年初頭にいたる間の幕府内の動向が取り上げられる。その際、基軸となるのは、政事総裁職となった松平春嶽ら文久改革勢力と、それに敵対する反動勢力(「幕府専断路線」への復古を目指す老中の諏訪忠誠や水野忠精らに代表される勢力)との対立である。そして、前者の文久改革勢力は、国内の政治統合を実現するためには朝廷尊奉と「公議」尊重を最も重視し、言路洞開に努めたとされる。が、幕府内部では、やがて反動勢力が幕政の主導権を掌握すると見る。ついで、その後、幕府復古派による政策(横浜鎖港問題や参勤交代制度の復古問題への対応)についての分析がなされる。

 第二章では、将軍や主要幕閣のいる江戸、一会桑三者や在京老中が駐留する京都双方の動向を視野に入れて、将軍進発が行なわれることなく第一次長州出兵の結末を迎えた理由および背景が分析される。具体的には、文久三年六月の率兵上洛事件で失脚した老中格の小笠原長行の再任問題、その小笠原の考え方が朝廷尊奉・朝幕協調・冗費節減を目指す旧文久改革派と同じである点で水野痴雲や小栗忠順らの政治勢力とは異なること、征長総督の徳川慶勝が早期解兵路線を推進した背景などが解明される。

 第三章では、長州再征のための将軍の進発がいかなる状況の下に決定されたかの問題が、幕府・朝廷・諸藩三者の関係、あるいは幕府内部の争いなどに焦点を当てて考察される。そして、本章では、元治元年の一二月に幕府歩兵を率いて上洛した老中松前崇広の動き、三条実美以下の五卿や長州藩主父子に対して江戸への召喚令がそれぞれ慶応元年正月と二月に出された背景他の問題が分析される。その結果、長州再征は一会桑勢力が強引に推し進めたものではなく、彼らの行動が将軍家茂の上洛を実現することで、将軍を江戸の復古派から引き離し、破綻の見え始めた大政委任の体制を再構築しようとの目的に基づくものであったことなどの史実が明らかにされる。

 第四章では、長州再征のために進発した将軍家茂の上洛とその後の一連の動きが、一会桑・朝廷・親幕府諸藩によって考えられた将軍長期畿内滞在計画に沿った動きであったことが論証される。そして、この論証の過程で、メイン・テーマとなったのは長州再征の遂行主体がどのように形成され、いかなる性格を有していたのかという問題である。ついで、この点を明らかにするために、慶応元年閏五月の家茂上洛から同年一〇月の復古派の敗北に至る迄を対象に、慶応元年九月のいわゆる長州再征勅許と、翌一〇月の兵庫開港・条約勅許をめぐる政争の内実などが具体的に分析される。そして、一会桑らが将軍家茂の辞職と江戸への東帰を阻止したことで、幕府改造の好機をつかんだことの意義が強調される。すなわち、阿部・松前の両老中を勅命の威力を借りる形で退けたことを端緒に、人事面で、慶応元年一〇月以降、幕府改造が一会桑や老中格に復帰した小笠原長行の思う方向で進んだこと、これによって彼ら朝幕協調派が幕政の主導権を掌握し、「幕末日本が畿内を中心にしてまとまる方向に、大きく前進した」(二五四頁)ことの重要性が強調された。

 第五章では、一〇月政変によって廟堂に復活した板倉(勝静)・小笠原の両老中が主導した幕政の特質が検討される。そして、両老中の対外方針が兵庫開港中止であり、国内問題に関しては、一会桑三者と同様に、朝幕協調・長州再征遂行・将軍長期滞坂路線であったとする。と同時に両老中は、朝廷と有力諸藩の信頼を獲得することで幕府の権力基盤を強化しようとしたと見る。換言すれば、京都の朝廷・一会桑と提携し、親幕府諸藩をその支持基盤に組み込む形での幕政運営を強いられたとの評価がなされる。

 第六章では、朝廷・幕府両者一致しての長州処分執行への取り組みの内実と長州処分案決定に至るまでの政治過程が分析される。そして、この間、板倉・小笠原の両老中が、長州再征に批判的な松平春嶽や薩摩藩などの有力外様藩を取り込もうとしたこと、両老中と一橋慶喜の間に、長州処分案をめぐって大きな立場の相違があったことなどが指摘された。

 終章では、本書の要点が改めてまとめられ、そのうえで若干の補足がなされ、かつ今後の研究課題が提示された。ついで、最後に、天皇・朝廷は主体的に対長州政策に関与していたこと、そのため政治責任から逃れえなくなったこと、畿内を主要な基盤とした慶喜政権の特色は、幕末期に徳川将軍が畿内に長期間滞在した「遺産」(二六頁)の延長線上に位置づけられることなどが付け加えられた。

  二 本書の評価できる点と注文点

 つづいて、本書の意義もしくは評価できる点を左に掲げることにしたい。その第一は、研究の蓄積のある西南雄藩に比べて、手薄な感が否めなかった幕府側の研究に、新たな成果を付け加えたことである。
 第二は、後学者の有利さを、良い意味で活かした著作であるということである。すなわち、本書では、先行研究の成果(研究史の整理)と、これから乗り越えねばならない課題がきちんと把握されている。そのため(論点が整理されているため)、専門書としては大変読み易く、主旨が理解しやすいという利点を有した。そして、先行研究への批判も、おおむね妥当なものとなったと考える。著者が確定していこうとした史実(事実経過)の解釈には、時にうがち過ぎだと思える箇所はあるものの、首肯できる点が多かった。例えば、その内の幾つかを挙げると、「親仏派」といわれる小栗忠順などの勢力が、元治元年から慶応二年後半にかけて幕政の主導権を掌握していたわけではないとの指摘(九五頁)、軍事指揮権を掌握している江戸の将軍と征長総督との関係の解明(一二五頁以下)、薩摩藩の西郷吉之助の征長に対する基本的な考え(一二九頁以下)、長州再征は一会桑が強引に推し進めたわけではないとの見解(一八九頁以下)などがそれに該当する。
 第三は通り一遍の分析手法に終始するのではなく、当事者の性格や人間関係にも大いに注目して史実を確定していこうとした姿勢である。本書中には、個人的な性格・人間関係・政治的人格や人脈・閨閥関係・政治的党派性・縁戚関係といった言葉が飛び交うが、役職のみならず、具体的な人間関係にまで踏み込んでの分析は、これからの幕末史研究において不可避なものとなろう。
 第四は、広く史料の探査がなされたことである。その結果、本書は興味深い史料の紹介の場ともなった。例えば、そうした史料として、第一次征長時の従軍諸藩を取り巻く過酷な状況を指摘した岡山藩士の史料(一三九〜一四〇頁)、元治元年一二月から翌年にかけて上洛し、江戸に帰った老中の松前崇宏が同僚に伝えた事項を示す史料(老中の水野忠精のもとに残された史料)(一五八〜九頁)他が挙げられる。

 最後に、本書を読んでの私の率直な感想と著書への要望を簡潔に記すことにしたい。その最たるものは、本書に及ぼした原口説の圧倒的ともいうべき影響を強く感じたことである。「あとがき」に拠れば、著者は、大学院生時代から氏に師事し、指導を受けたという。そうしたこともあってか、本書全体を読み終えたあと、そのように感じた。むろん、著者は原口説を受け継ぎながらも、それを著者なりに深化させ、新たな視点(家茂の滞坂問題が政治体制の問題と大きく関わることなどの指摘)を打ち出してはいる。が、「長州再征などの国家最高次元の問題の決定は、当時いかなる政治的枠組みの中で行われるのか、という政治構造の問題」(一一頁)を深く検討しようとした本書が、大きな枠組みという点で、どこまで独自色を出しえたのかという感想も正直なところ残った。遠慮なく書けば、原口氏が若返れば、このような書物を上梓したのではないかとの思いが、残滓のように私の心の中に沈殿したのである。そのため、著者の先行研究批判も、原口氏によってなされたかのような錯覚すら時に感じることがあった。
 また、細大もらさず獲得しえた知識を総動員して正確な史実を確定しようとした姿勢は大いにかえるが、そのために史実の中でも、どれが特に重要かがもうひとつ判り難くなった。特筆すべきだと判断した史実は本文で、そうではない副次的なものは注に廻すといった工夫が必要であったかと思う。そうすれば本文の主旨がよりストレートに伝わったであろう。その他注文をつけたい点もないわけではないが、枝葉末節的な批判に堕する恐れもあるので割愛したい。
 以上、最後は、極めて率直な感想を記すことになったが、次作においては、著者の新たな枠組みに基づく斬新な幕末史像の提示を期待したい。そして、著者はそれだけの力量を有していると確信している。
                             (いえちか よしき)




詳細 注文へ 戻る