山口 博著『戦国大名北条氏文書の研究』
評者:鳥居和郎
「日本歴史」725(2008.10)


 現在、後北条氏関係文書は五千点を超える存在が知られ、これらをもとに多岐にわたる研究が行われており、発表された論文数は他の戦国大名研究をはるかに凌駕する。しかし、古文書学的な研究は多いとはいえず、本書のように「文書」に焦点をあてた論集は後北条氏研究全体の精度を高めることにもなろう。.
 山口氏は、かつて『小田原市史』史料編などの編纂に携わっていたという。同書は北条家当主の発給文書を中心に、可能な限りの原本調査と、厳密な史料批判、そして花押の形態的変遷により無年号文書の年代比定を積極的に行ったことで知られる。本書からうかがえる一通の文書、一つの花押に慎重に向き合う山口氏の姿勢は、このような実務経験が反映されたものといえよう。
 初めに本書の構成を述べ、その後それぞれの内容の摘記を行うこととする。

 序 章 一 北条氏文書に関する研究の現状
     二 本著の構成と視点
 T 印判使用をめぐる問題
第一章 氏康による「武栄」印判の使用
第二章 氏政による「有効」印判の使用
第三章 氏康・氏政と虎印判状奉者
第四章 幻庵宗哲所用「静意」印判に関する考察
補 論 所領分布から見た幻庵宗哲の政治的地位
 U 花押変遷と改判
第一章 氏康花押の変遷
第二章 氏直花押の変遷と改判
第三章 氏政の改判
 付編 一 「合討」(「相討」)の感状
    二 「諸州古文書」および「諸家古文書写」中の氏忠印判状写
    三 伊豆荻野文書中の吉良氏朝書状

 序章では後北条氏文書に関する研究状況を要領よくまとめ、この分野に関心を持つ者にとって便利である。また、本書に所載される論文について研究動向と関連づけながらその意図などを記す。

 本論Tの第一章では、氏康が氏政への家督譲渡後六年以上を経過して行った「武栄」印判の使用について、かつて相田二郎氏が言及されて以来、充分な検討が加えられていなかったが、山口氏はその契機を氏康の出馬の停止(氏政の単独出陣)とし、小田原に不在の氏政(虎印判を所持)に代わり政務の執行のためとする。また、隠居後も氏康は虎印判状発給に関与したことを指摘するが、これは虎印の代用印としての機能を持つ「武栄」印登場の前段階と位置づけることが出来るのではなかろうか。
 さらに、氏康は氏政の小田原在府中にも「武栄」印判状を用い、伊豆北部、相模の大部分、武蔵久良岐郡・小机領に対しての支配と、小田原本城大蔵、韮山・玉縄・小机など支城の蔵の管理を行った事例を紹介する。
 第二章では、氏政が氏直への家督交代後に用いた「有効」印は、「武栄」印と類似するが、氏政は出馬を継続し、「武栄」印が氏康の出馬停止を契機としたような直接的動機はうかがえないなど、成り立ちの違いを述べる。また、その機能についても、氏政直属の家臣団の統制や自身に関わる所務の収納などに関し、自身が管掌する地域で用いたとする。また、天正十三年(一五八五)頃にみられる虎印判の代用印としての使用は臨時的なものであったとし、これらの使用状況から、隠居後の氏政の当主氏直への権力的関与は、氏康のそれよりもはるかに微弱であったとする。
 山口氏も今後の課題と保留される部分でもあるが、氏政が氏直を凌駕する地位にあるならば、「有効」印の効力の強弱は自らなし得ることで、氏政が経験した氏康による「武栄」印による政治的関与は、その関与が強ければ強いほど当主の印たる虎印判の権力的絶対性に影響を及ぼすといえ、北条家の権力の安定化という点からすると、氏政は自らの印の「権力的微弱性」についてさほど問題としなかったのではなかろうか。
 第三章は、氏康の隠居後、虎朱印状の奉者は、当主氏政と氏康に所属する者に分離、氏康は自身に属する奉者を介して奉書式虎印判状の発給に関与したとする。また、これら奉者は、後に氏康が「武栄」印判状を発給するようになると、その奉者を務めたとする。
 第四章では、「静意」印判は、幻庵が氏康弟の為昌(小机城主)の死去により、小机領と遺臣の一部の継承を契機に使用したが(甲印)、嫡子三郎に家督を譲り退隠すると使用を停止。しかし、元亀年間、三郎死去により家督を継承した次子氏信が討死し、幻庵が遺児菊千代(氏隆)の後見を行うために再度使用したとする(乙印)。また、相田二郎氏が述べられた「静意」印の襲用に関して、山口氏は幻庵室が襲用した可能性は少なく、天正十三年頃、氏隆により襲用された可能性が高いとする。

 本論Uでは、三章にわたり氏康・氏政・氏直の花押型の編年を行うとともに、花押の改判などの付随する問題にも言及する。
 第一章では、氏康の花押の微妙な変化は諜報活動への対応のためとする。
 第二章では、氏直の天正十九年の改判は、同年八月の大坂城での秀吉との対面(小田原合戦の赦免)が契機とする。
 第三章では、氏政は天正八年八月に氏直へ軍配団扇を移譲、これを契機に花押の改判を行うが、旧型は天正十年六月以前、新型は同九年五月以降というように併用期間がある。かつて田辺久子・百瀬今朝夫両氏は、以前より交渉があった滝川一益に対する旧型花押の使用は信頼維持のためとしたが、山口氏は上野の領国化に繋がる同国衆との連絡、一益との交渉における氏政の主導性の維持を示すものとする。

 以上のように、北条氏の印判と花押を中心とした緻密な論考が展開される。ことに虎印判と「武栄」「有効」印の関係、花押の改判、文書の機能や発給制度などにより、北条家の家督継承・権力移譲期の状況の解明を試みた本格的な論考としては嚆矢ともいえる存在で、今後、様々に引用される一冊となろう。それだけに、大づかみな表題が付けられ、内容がうかがいにくいのは惜しまれる。
(とりい・かずお 神奈川県立歴史博物館専門学芸員)




詳細 注文へ 戻る