小川恭一著『徳川幕府の昇進制度』 | |||||
評者:三野 行徳 | |||||
「関東近世史研究」64(2008.7) | |||||
江戸時代の幕府官僚組織が、職階・家格における流動性を持っていたこと、その前提となる足高の制などの政策は、これまでにも検討されてきた(1)。しかし、幕藩官僚制に関する研究は、基本的には藩−大名家を中心に進んでいる(2)。史料群のまとまりを前提として、藩官僚組織の全容が明らかになり、議論が活発となっている藩研究の状況と比して、幕府の官僚組織に関する研究は、特定の役職や、改革期の政策に関する研究を除けば、それほど多くはなく、江戸幕府の官僚組織の全貌はまだ見えない。その研究状況の大きな要因となっているのが、幕府の組織史料の残存状況の問題である。本書でも触れられているとおり、藩官僚組織を検討する際にその基本として用いられる「分限帳」類が、江戸幕府に関してはほとんど残存していない。民間で発行された各種「武鑑」類については、それらの発掘と共に近年大幅に研究が進んでいるが(3)、幕府内において、官僚組織の把握や人事管理のために作成されていた(はずの)「分限帳」類はほとんど見つかっていない。また定期的に提出されていた「由緒書」や「親類書」類、「明細短冊」も部分的にしか残っていない(4)。享保改革期以降、幕府勘定所内に、各方面から提出されたこれらの記録を取り扱う掛が設置されていた事が確認され(5)、表右筆の分限方や大目付の分限帳掛など「分限帳」の存在を指し示すポストが確認されるなど、江戸幕府は諸藩同様に「分限帳」類を用いて人事管理を行っていたことはほぼ間違いないと考えられるが、「分限帳」そのものがほとんど見つからないのである。 このような状況にあって、幕府官僚組織の研究環境の基盤整備を精力的に行ってきたのが、本書の著者の小川恭一氏である。『江戸幕府旗本人名事典』においては、『寛政譜』と同一史料によって編纂された「寛政呈書」と『寛政譜』を厳密に照合し、寛政時点での全旗本家をデータベース化し、またその作業過程で、旗本の定義を明確化された。続く『寛政譜以降旗本家百科事典』では、『寛政譜』以降の旗本家の根本史料の不足を補うべく、「諸向地面取調書」、国立公文書館所蔵「明細短冊」「由緒書」類(『江戸幕臣人名辞典』)、「柳営補任」を基本史料とし、その他、各「武鑑」「県令譜」「藤岡屋日記」等を参考に、寛政期以降の旗本家をデータベース化された。 第一部 考察編 以下、本書の構成に従って、内容を紹介したい。 第二部の資料編には、本書の中心となる「御家人より旗本への昇進表(寛政一〇年勤仕の家)」(以下「昇進表」と省略)が収録されている。「昇進表」は、『寛政譜』にみられる五〇〇〇以上の旗本家から、御目見以下の御家人家から昇進した人物一一四八名を抽出し、五〇音順に収録したものである。各人物について、家禄/番筋/先祖の事歴と昇進者の職歴/昇進時期の情報が記されると共に、「班をすヽめ」や「勘定にすヽむ」などの昇進を示す記述があるかどうか、昇格以前の御家人としての身分が「抱入」か「譜代」かなど、旗本・御家人研究の上で重要な情報が記されている。「昇進表」は、御家人から旗本への身分移動という、幕府官僚制を考える上で重要な特質を検討する上で、特定の人物や改革政策からアプローチするのではなく、可能な限り史料を博捜した上で、それらを全て検討し、合理的な説明を試みている点において、優れた成果であるといえよう。そもそも『寛政譜』を何気なく読んでいても、「班をすヽめ」が、御家人から旗本への昇格を意味する事には気づかない。それに気づいたとしても、それが五〇〇〇家以上ある旗本家の記事の中でどれだけ記されているのか、どれだけの正確さを持っているのか、疑問はつきない。その疑問に対し、全ての記事を徹底的に検討するという、まっとうではあるが気の遠くなるような、地道な作業の成果がこの「昇進表」と、そこから導き出された合理的な説明としての第一部考察編なのである。「昇進表」に記された情報のうち、家禄や先祖の事歴は、『寛政譜』に書かれた情報であるが、番筋や昇格以前の御家人の身分などは、当該ポストに関する小川氏の研究を前提としている。『寛政譜』の徹底的な読み込みから得られた成果は、情報処理技術がどれだけ進歩しようとも、歴史研究の基礎は、史料の読み込みによる実証であることを指し示す好例であるとも思われる。 以上見てきたように、本書は江戸幕府官僚制研究の上で重要な地位を占め、特に考察編で述べられた成果は、今後研究を進める上で前提とすべき成果であると思われる。 著者の小川恭一氏ほ、二〇〇七年九月二五日、逝去された。最後の作品となった『江戸城のトイレ、将軍のおまる−小川恭一翁柳営談』(講談社、二〇〇七年)は、副題の「柳営談」が示すように、大名の江戸城中での日常を、江戸幕府の仕組みと共に軽妙に解説したもので、大名に関する「常識」を、現在の研究水準から一般向けにまとめられた優れた概説書である。全体の一割が註に割かれており、史料もふんだんに引用されていることからも、本書の水準が伺える。本書の最終章である「この本はおまえさんに譲ってやろう」には、小川氏が「柳営学」に向かうきっかけとなった師である三田村鳶魚との出会いが描かれている。学問を志す者にとって、師との出会いは、なにものにも代え難いものであろう。本書及び小川氏の著された『江戸幕府旗本人名事典』『寛政譜以降旗本家百科事典』は、幕府官僚制研究を志す私にとって、座右の書である。学恩に感謝しつつ、小川氏のご冥福を心からお祈り申し上げたい。 (1) 藤井譲治『江戸時代の官僚制』青木書店、一九九九年、大石学『吉宗と享保の改革』東京堂出版、一九九五年など。 |
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