布施賢治著『下級武士と幕末明治』
評者:鈴木 挙
「関東近世史研究」64(2008.7)


 本書は著者の課程博士論文を基礎にして編まれたものである。以下に本書の構成を挙げ、簡単に内容を紹介する。

序章 下級武士研究史
 第一節 下級武士研究の変遷
 第二節 本書の分析視角
第一章 下級武士と武術流派
 第一節 川越藩の身分制度
 第二節 武術流派と身分制度
第二章 下級武士と大砲職
 第一節 相州警衛における下級武士軍用登用政策
 第二節 下級武士と品川台場警衛
 第三節 軍制改革における大筒職
第三章 下級武士と高島流砲術
 第一節 高島流の藩内への採用
 第二節 高島流の軍事制度への部分的採用
 第三節 高島流の軍事制度への全体的採用
第四章 下級武士と剣術
 第一節 神道無念流の採用
 第二節 剣術流派改革と神道無念流
 第三節 明治期における神道無念流高弟の活動
第五章 下層士族と士族授産
 第一節 明治初年代における前橋士族の動向
 第二節 結社化による士族授産
 第三節 さまざまな士族授産結社

 まず、序章において主体勢力論をもとに展開された下級武士論がその意義を弱めた後、下級武士研究はより幅広い藩政治史との関係で下級武士を捉え、下級武士の動向を下級武士の歴史的背景を踏まえて描こうとしたことに特徴があると著者は整理する。また一方で園田英弘氏らによる『士族の歴史社会学的研究』(名古屋大学出版会、一九九五年)をあげ、そこにおいて明治中期までは士族において旧武士身分秩序が意識的・慣習的に維持されていた点が解明されたことに言及している。このような現在の下級武士研究・士族研究を踏まえた上で著者は、下層士族が廃藩後に地域社会・士族社会において果たした役割を、旧藩時代の下級武士の動向との関係性において捉え、その特徴点を示すことが重要であるとする。そこで著者は下級武士・下層士族を政治的・社会的両者の側面から検討することによって、その歴史的意義を明らかにしようとしている。また、それにより下級武士・下層士族の地域においての動向がどのように民衆に記憶・評価され、下級武士論の「始原としての「素朴下級武士論」」または「士族意識」の形成と受容に地域においてどのような役割を果たしたかという分析のひとつの前提を提示することも目指している。

 第一章ではまず川越藩における基本的な身分制度を解明し、その中でも「諸士」・「役方」・御目見得以下という区分が川越藩で身分制度を大まかに捉える際に用いられたとする。この区分は労働形態を基礎にして成立したものであり、それは武士社会の労働形態の価値体系の上下を象徴したものであったとする。また、この区分の中で「役方」は微妙な立場に立っていたと論じる。彼らは正式な藩家臣団構成員でありながら、軍事力ではなく事務能力が期待され、戦闘が最も価値のある労働とされた中で「役方」はその労働価値だけではなく、人間的能力でも「諸士」の下位に位置づけられたとする。この職分意識は武術流派の中でも看取でき、「役方」は藩の正式流派への入門をすることができない等の差別を受けていたことを指摘する。この「役方」の中にも大役人と小役人という区分があり、騎馬と鑓が身分象徴として機能し、大役人はこの身分象徴により事実上の士分であることを示したことを明らかにしている。

 第二章ではまず中級武士(諸士)の職分であるとされた大筒職が、海防の規模が拡大するのに伴い、諸士のみでの運用は困雉となり、川越藩では事務職である「役方」藩士を使い、人員の不足を補おうとしたことを指摘している。また「役方」の登用により大筒方において頭取以外は諸士以下の藩士すべてが平の構成員となり、警衛現場に身分序列が確立しないという身分問題を発生させ、小役人は御貸鑓を求める要望書を提出するという動きをみせることにも言及している。
 続いて嘉永六(一八五三)年の警衛内容の変更に伴いさらなる大筒の増加と人員拡充が求められた川越藩では、身分総動員態勢によってこれに対応しようとしたことを論じている。そして、この際にも身分序列問題が再び起こることに言及する。この「役方」を中心とした下級武士の動向は、軍用登用による労働形態の転換を機に彼らが「諸士」を目指したものであり、身分制度的価値を求める行為であったと著者は指摘している。また、その際に彼らによる個別的・党派的な行動は存在しなかったことにも言及し、その背景には高島流が諸士層によって受容されたため、大筒職を通じて下級武士が諸士の上位に立つことができないことがあったと著者は考察している。
 その後に幕府の文久改革の影響を受け実施された藩の軍制改革において、役方藩士は正式に番方に組み込まれ、慶応元(一八六五)年には大筒職担当組織の常時編成化が物頭組の西洋法大砲組化により実現し、大筒職は最終的には旧徒士身分・旧小役人身分が担当することとなるとしている。このように大筒職がその職分意識を低下させ、その価値を下げながら身分制度に当てはめられていくと、鑓の価値の低下と相俟って、下級武士は追求すべき目的・価値を失い、藩により軍事制度内に静かに定置されていくと論じている。この文久二(一八六二)年以降の軍制改革は、藩士の総銃隊化・総番方化という職制の均質化により武士の平準化を推し進めたものの、逆に新たな身分=職制の固定化を招いたと著者は指摘している。

 第三章では川越藩の高島流の採用を検討している。川越藩の高島流の採用は天保期に藩主側近の諸士が江川英竜のもとに派遣されたことに始まるとし、その後川越藩では浦賀奉行所の動向を踏まえ、相州警衛地での高島流大砲稽古を開始することを指摘する。このことから著者は川越藩では砲術の側面でも幕府の政治動向の影響を強く受けていたと論じている。
 嘉永六年に高島流による台場警衛を命じられた川越藩では台場警衛を身分総動員態勢で行ったため、全藩士に高島流を習得させる必要が生じ、高島流が藩内へ本格的に採用されることになるとする。川越藩では高島流重用政策を実施し、高島流が正式に藩の軍事制度上に採用され、既存の流派でもこれに抵抗することなく現実的な対応をし、一方の高島流でも「仕来」の改変など藩の重用政策に積極的に応えたことを明らかにしている。また、この「仕来」の改変により教育体系は改変され、部分的に高島流内では諸士と下級武士・足軽が同待遇を受けることとなったことを指摘する。
 続いて文久の軍制改革において役方藩士が軍事制度に正式採用され、御目見以下の役方藩士は銃隊として編成されたことに言及する。この改革により一部藩士は身分上昇を果たすものの、身分に付随する格が同時に無用化されたため身分上昇ルートが逆に閉ざされ、身分の再固定をもたらしたと論じ、これは藩が御目見以下の役方藩士を銃隊に編成することにより、御目見以上の藩士に足軽の職分である銃陣訓練から手を引かせ、軍制改革による身分・職制変動の影響を弱めようとしたのだと著者は指摘している。
 そして続く慶応期の軍制改革では物頭組が大砲組へと編成替えされ、身分的な混乱を生んだ大筒職は足軽の職へと身分的な移行を果たすとする。また、その後の軍制改革において上中級武士の銃隊化も行われることに言及する。この文久慶応期の一連の軍制改革により各藩士の意識の側面で身分の平準化意識をおしすすめられたが、それは従来の身分制度が維持された状態での平準化であり、身分意識は十分に残されたとし、また先進的な流派であるとされた高島流を結節点として改革が実施されたため、各身分に積極的な身分の下落感を伴わず改革は進行したと著者は論じている。
 明治期の改革では高島流内の役職が藩の身分制度に位置づけられ、高島流の高弟は士官化し、新たな人材として台頭するとする。続く職制改革では軍務掛が設置され、高島流関係者は顧問や改役に任じられ、軍政運営の実質を担うこととなることを明らかにしている。その後、明治二(一八六九)年の職制により設置された軍務局は藩の軍政を統制し、その中枢は次第に寄合身分(上級武士)から実務官僚化した高島流関係者に移行すると論じている。この明治期の改革の中での下級武士の動向としては、蘭式兵制採用による洋学重視の中で洋学技術を持つ下級武士が従来の身分のままで採用されたとし、彼らの中には廃藩後に群馬県政の一翼を担う者もいたと論じている。また彼らの教育を受けた前橋士族、特に諸士層は廃藩後に教員となり、官員化した下級武士とともに地域社会を支えていくことになるにも言及している。

 第四章ではまず従来の川越藩の公式武術流派では他流試合を禁止していたことを指摘する。藩側でも天保期に八代藩主斉典により各流派の稽古場を集めた倉町稽古場を作りはしたが、積極的に各流派の交流を推し進めるまでに至らなかったとする。その中で唯一他流試合を行う「仕来」を持っていたのが神道無念流であったとするが、他流試合は神道無念流が独自に行っていたに過ぎなかったと論じている。続いて文久二年に他流試合実施が十一代藩主直克の直書により通達され、神道無念流も公式流派となり徒士組・小遊隊(旧小役人)には入門が命じられたことに言及する。この重用政策は藩側の意向で実施されたものだが、師範の大川平兵衛は積極的にこれに応えたと論じ、この改革が農民出身である大川平兵衛への反感やその他の公式流派からの反対のため挫折したことを指摘している。
 そして、川越藩の剣術流派改革が@高島流関係者を中心とした公式流派の門人の神道無念流入門による他流試合実施、A藩の前橋移城を契機に設置された練武所での「稽古人」による公式流派間の他流試合実施、B公式流派自体の他流試合実施と段階的に達成されることに言及する。その際に下級武士への上級武士の従属を意味する神道無念流への諸士の入門が、精神的レベルにおいてまで受容されなかったとし、流派の主導権掌握を企図した行動も諸士からなされることを指摘する。一方で師範の大川が改革の進展する慶応期には政治的意見書も提出するようになることにも触れ、藩側でも神道無念流の実力を認め高弟の身分の引き上げを行っていることに言及する。
 その後、明治二年に剣術流派が新に創設された新流に統一され、その指導者の多くは神道無念流の高弟が就いたとし、新流の理念も大川の剣術理念に基づくものであったとする。この剣術流派改革で発生した身分制度の動揺について著者は高島流とは違い、軍事制度と結びつかなかったため、動揺が制度化されずに藩全体へと大きな影響を与えたと指摘している。
 最後に、廃藩後に神道無念流の高弟は旧藩時代の経験に基づき、武術に強い意識を継続させ、剣術での生活維持を図ったことに言及する。当初は苦労を伴うも西南戦争を機に社会の剣術の再認識が起こり、入門者が増加することとなることを明らかにし、彼らが積極的な戦争への関与、平時・戦時における軍事協力活動を行ったことにも触れ、日清戦争以降の日本の武への傾斜と相俟って、地域社会に武術を根付かせていくことになるとしている。

 第五章ではまず家禄奉還制度における前橋士族の動向や西南戦争への召募に応えた旧藩士を分析し、階層別に対応が異なったことを明らかにしている。あわせて西南戦争時の編成が旧藩制度そのものを基準に行われたことを明らかにし、明治十年代初めに前橋士族が旧身分意識を強く残していたことを指摘している。
 続いて前橋士族の士族授産の前提となる旧藩時代の生糸政策について述べられ、その中で速見賢曹・鈴木昌作の二人の下級武士と深沢雄象という上級武士が注目されている。この三者には藩の生糸政策への関与の仕方・それぞれの個性により生糸生産方法・生糸販売方法に認識の差違が存在し、この認識の差違はその後の前橋士族の士族結社の性格にも影響するとしている。
 前橋の士族結社の嚆矢は深沢・速見が中心となった研業社であったとし、その特徴として速見の同族的経営色が強く、県との相互協力関係に基づく器械製糸を行った事を指摘する。また、大量の資金を必要としたことなどから研業社の事業に呼応する動きは見られなかったことも指摘している。
 その後、星野長太郎によって改良座挽製糸が海外市場で通用することが分かると、明治十年に深沢が設立した一番組を皮切りに改良座操結社が次々と設立され、前橋士族が本格的に士族授産に関与していくことになるとする。その際にそれぞれの結社が旧身分原理に基づいて設立された点から士族授産開始時点においても旧身分制度意識が残存したことを著者は指摘している。また、翌年に上部組織として設立された精糸原社の諸特徴を分析し、生糸改良・直輸出志向があったこと、またそれが強い商権・国権回復意識と結びついていたことを明らかにしている。
 続いて鈴木昌作を中心として設立された二番組(後の交水社)の脱退問題に言及する。その際に脱退問題の原因が速水らの「政府依存=拡張=直輸出路線」と、交水社の「民間自立=堅実=横浜売路線」との対立であったとする石井寛治氏の研究を出し、交水社の特徴をより総合的な側面を通じて検討する必要性を唱える。そして、著者は交水社脱退の具体的な要因が「仮規則」の違反にあったこと、結社の階層構成の側面から経営方針や生糸販売に対する志向性を規定することができないこと、交水社がその中心であった鈴木らの旧藩時代の経験に由来する強い信念に基づいて一貫して横浜売り路線を貫徹したことを明らかにし、交水社の路線を「時勢に流されない強固な横浜売り路線」であると再定義している。また、第三節では多様性・独自性を持つ製糸以外の前橋士族の結社について明らかにされている。
 最後に製糸結社も含むこれら前橋士族結社の諸特徴を@明治十年代まで旧身分意識が強く残存し前橋士族の行動を規定したこと、A士族各自が多様化したこと、B士族授産に際してさまざまな職種へと進んだこと、C上中層士族ほど新式産業に積極的に参入していること、D同一人物が複数結社に参加していること、E結社化に際して親族的結合が重要な役割を担っていたこと、F士族授産結社の結合・解散が単純化された士族が形成される前段階として位置づけられることの七点にまとめている。

 以上が本書の具体的な内容であるが最後に私見と雑感を述べさせていただく。
 まず、疑問としてあるのはなぜ藩内の身分秩序に動揺・混乱を起こしてまでも、高島流や神道無念流が採用されなくてはならなかった理由である。高島流の場合は幕府の動向に強く影響を受けて採用されたと理解できるが、神道無念流の場合は幕府から動向がなくとも採用されており、幕府の動向から理解は出来ない。また、本書では「下級武士・下層士族を政治的・社会的両者の側面から検討する」としながらも、高島流・神道無念流の採用過程、それとの下級武士との関わりについての社会的な考察があまりなされていないように思われる。高島流・神道無念流の採用過程やそれへの下級武士の関わりについて幕府の動向や命令、運用上の問題だけではなく、例えば高島流・神道無念流の実戦的な性質が社会的に求められていたなどの社会的な背景への考察をすることによって、より議論に深みが出て論文相互の繋がりも明確になるのではなかろうか。
 次に藩の主体性の評価について疑問を感じる。確かに家門である川越藩は幕府の動向に影響を受け、行動したのであろう。ただ、川越藩が大規模な改革を実施するのは主に藩主が斉典もしくは直克の時である。この両者はともに川越藩主の中でも意欲的な動向を示している藩主であり、高島流の採用のきっかけも神道無念流の採用のきっかけも斉典の治世下の出来事であり、改革を更に推し進めた直克とともに無視し得ない存在と言える。そうした彼ら藩主や藩上層部の主体的な動向をもっと評価した方がよかったのではないだろうか。それにより論文の奥行きも広がるのではなかろうか。
 最後に疑問というよりは雑感になるが第五章での著者の主張が今一歩鮮明ではないように思われる。第五章は園田英弘氏らによる『士族の歴史社会学的研究』で行われた網羅的・統計的な士族の動向についての議論に対して、旧前橋藩士族に視座を置き実証的な検討より再考を迫ったと思われる箇所がある。例えば結論部分Bの士族授産に際してさまざまな職種へと進んだことを指摘した箇所。しかしながら、著者は実証的な検討での結論は提示しているものの、著者が考える士族像全体についてはかならずしも明確に示されていない。園田氏らの研究と何が違い、どのような士族像を描き出そうとしているのかを今少し明確に打ち出してもよいのでは無かろうか。そうすることにより著者が丹念に行われた旧前橋藩士族の実証的な検討の意義がより鮮明になるように思われる。
 以上、評者の私見と雑感を述べさせていただいた。評者の力量不足や誤読により、見当外れの指摘や無いものねだりの要望をしてしまった点があるかもしれない。それに関しては著者に御海恕を願うばかりである。



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