平野明夫著『徳川権力の形成と発展』
評者:丸島 和洋
掲載誌:「古文書研究」65(2008.5)



 江戸幕府を開いた存在でありながら、戦国大名徳川氏の研究は、決して多いものではなかった。どちらかというと近世史の側から、議論の導入として扱われる存在に過ぎなかったとすらいえよう。そうした中で、本書は徳川氏を対象に論じられた、久しぶりの専門書である。大半の節には元となる論考があるが、いずれも改稿・再編を経ており、著者の最新の知見が集成されたものということができる。
 はじめに本書の構成を掲げる。

 序論 松平・徳川氏研究の軌跡と本書の構成
  第一節 近世における松平・徳川氏研究の軌跡
  第二節 近現代における松平・徳川氏研究の軌跡
  第三節 本書の構成
 第一章 戦国期の松平・徳川氏
  第一節 松平宗家と今川氏
  第二節 徳川氏と足利将軍
  第三節 三河統一期の支配体制
  第四節 徳川氏の起請文
 第二章 織豊大名徳川氏
  第一節 徳川氏と織田氏
  第二節 豊臣政権下の徳川氏
  第三節 徳川氏の年中行事
  第四節 松平庶家とその家中
 第三章 統一権力徳川氏
  第一節 江戸幕府の謡初
  第二節 徳川将軍家代替わりの起請文
 結論 中近世移行期の権力

 本書を手に取った時、誰しもが眼を見はるのが序論であろう。構成こそオーソドックスなものであり、松平・徳川氏に関する研究史整理からはじまる。しかしながら、その起点は何と慶長八年におかれ、幕府草創期の編纂物から考察を始めている。近世の、それも同時代人の編纂物をも先行研究と位置づける視点は大変に興味深い。結果として、先行研究整理だけで五〇頁を超え、それ自体が一大研究と呼べるものとなった。著者がこのような手法をとった背景には、新行紀一氏によって指摘された「松平・徳川中心史観」の存在がある。最終的に将軍権力となったことから遡及して、戦国・織豊期の松平・徳川氏を特別視する発想が、現在でも根強く残っていることは確かであろう。
 松平・徳川氏権力は、有徳人→国人領主→国衆→戦国大名→織豊大名→江戸幕府将軍という変遷を辿った。本書の各章はこの変遷に村応したものとなっており、松平・徳川氏をそれぞれの「時代の中に位置づけ」、当該期の権力を論じることを目的としている。ただし室町期については、前著『三河松平一族』(新人物往来社、二〇〇二年)で扱ったとし、本書においては直接取り上げられてはいない。

 第一章は国衆・戦国大名段階の松平・徳川氏について検討したものである。第一節では、松平氏と今川氏の主従関係を考察。著者は軍事的従属と主従関係成立を分けて考え、後者の契機を竹千代(家康)の人質提出とみなす。今川氏は三河支配に際し、家康を元服させて松平氏の権力機構を活用する道を選ぶ。これは松平氏が権力機構を確立していただけでなく、「血」による支配の正統性を獲得していた証であるとする。
 第二節では徳川氏と室町幕府の関係について論じる。永禄四年に今川氏から自立した後の徳川家康は、将軍直臣という地位を獲得し、幕府からも領主としての正統性を承認された。家康は織田信長への援軍としてしばしば出陣したとされるが、それは正確には足利義昭の命令に応じたものであったという。天正元年の足利義昭追放後においても、家康は義昭への好意的姿勢を維持し続けたと指摘する。
 第三節は三河統一期の支配体制について検討したもの。従来、重臣酒井忠次と石川家成・数正が「旗頭」として家臣団中最高の地位にいたとされていたが、著者は両者を同等とみなすことに疑問を呈する。酒井忠次が大名権限の一部を付与されて東三河支配を担っていたのに対し、石川氏は家康の直轄支配におかれた西三河において、取次・奉者の役割を果たすにとどまっていたという。
 第四節は、慶長年間までも含める形で、徳川家康の起請文を悉皆収集し、古文書学的機能論・様式論の観点から検討を加えたもの。著者が特に注目するのは、身体保証や知行安堵・宛行を行った起請文の存在である。従来、国衆の服属においては起請文提出が重視されていたが、著者は主従関係の成立はあくまで見参によるとし、起請文には身体を保証することで見参を促す機能があったと位置づけている。

 第二章では織田政権下の大名としての徳川氏を扱う。第一節は徳川氏と織田氏の関係を、援軍の派遣と書札礼の問題から検討を加えている。天正三年以後の徳川氏は、織田氏の軍事的続制下におかれており、書札礼の面でも織田氏の臣下、それも「一門に準ずる立場」として遇されるようになるという。第一章第二節と併せて、足利義昭政権および織田政権について考察する上でも、重要な指摘である。
 第二節は豊臣大名としての徳川氏を様々な角度から分析し、豊臣政権の権力構造にまで言及する。ここでも著者は、徳川氏の豊臣政権への服属契機を、家康の見参によるとみなす。これに対し、豊臣政権は徳川氏を「羽柴一門」として処遇し、政権内における最高の家格を与えたという。徳川氏の豊臣政権内における地位は、しばしば特別なものとして理解されてきた。しかしそれはあくまで「羽柴一門」という家格に対応したもので、豊臣政権内における秩序から逸脱したものではなかった。一方で政権への政策関与は、文禄四年八月以降であるという。著者はこれらの点を、検地・軍役・取次といった諸点から丹念に考証している。
 第三節は戦国大名徳川氏の年中行事について検討したもの。氏が注目されたのは、正月参賀における各家臣の出仕日の問題と、年中行事そのものの重層性の存在である。前者については、正月参賀は家臣全体が一堂に会する場ではなく、個別の服属儀礼を行う儀式であったことを指摘。次の重層性とは、主として領国全体を対象とした行事と、国別に行われた年中行事が併存している状況を指す。なかでも国別の行事である端午の節句を、一宮・総社神事への関与として捉え、国司・守護の権限を継承したものと評価する。徳川氏の分国支配が基本的に国別に行われる背景として、一国単位の正統性の継承という前提を見出すのである。家康は最終的に領国全体を自身で統べるが、このことで徳川領国を全体化する「分国概念」が芽生え、社会的な承認を得た「正当性」獲得につながったという。
 第四節は、深溝松平家・大給松平家を対象に、松平庶家の家中構造について検討をしたものである。ここでは松平庶家家中の不安定性が指摘される。松平庶家の家中は一揆的構造を温存しており、戦国大名徳川氏の介入を受けて安定性を確保する必要があった。このような国衆の権力構造は、戦国大名とは異質なものであり、その前段階として位置づけられる存在であるとする。

 第三章は将軍権力としての徳川氏を扱った論考を収めたもので、年中行事のひとつ謡初について論じた第一節と、将軍代替わり起請文について論じた第二節からなる。謡初とは、戦国期には徳川氏において特徴的にみられる新年の行事で、正月参賀とは異なり、家臣が一堂に会するという家臣団秩序編成上重要な行事であったという(平野明夫「戦国・織豊期徳川氏の謡初」、二木謙一編『戦国織豊期の社会と儀礼』吉川弘文館、二〇〇六年)。戦国・織豊期段階の謡初との差異を指摘する事で、徳川氏が家制度を基本とした権力から国家権力へと変貌していく姿を追っていく。残念ながら比較の前提となる「戦国・織豊期徳川氏の謡初」は本書に収められてはいない。併せて一読することをお奨めする。
 将軍代替起請文を扱った第二節においては、双務的な起請文交換から一方的な起請文提出へという変化、起請文提出のみによる主従契約の成立という戦国・織豊期との相違点を指摘し、近世における主従観の変化(契約性の強化)を見通している。

 結論においては、これまでの議論を元に、各段階の大名権力の特徴について論じている。ここでは、守護大名と戦国大名の相違点について、宿老を中心とした権力編成と軍役の定量化を指摘し、戦国大名以降の大名権力を同質と把握した点に注目したい。

 本書の議論は多岐に渡るが、中心となるテーマとしては、@中央政権との関係、A権力構造論、B主従制論、そしてC支配の正統性獲得、が指摘できるのではなかろうか。
 本書の底流には、移行期大名権力と中央政権の関係をどう把握するか、という問いかけが存在している。戦国期の研究は、地域権力としての自立性を重視するか、中央政権(幕府−守護体制)との関わりを重視するかの二極分化が展開し、まともな対話すらほとんどなされない事態に陥っている。東海地域の大名を素材とし、戦国大名論に立脚しつつも、中央政権との関わりを重視した本書は、こうした状況に一石を投じる可能性を秘めたものであるだろう。また織豊期の研究は、政権の政策指向の研究と化しているのが実情であり、当該期の大名権力を対象とした研究は決して盛んとはいえない。大名側の視点に立つ事で、はじめて政権の政策を相対的に評価することが可能になるのであり、本書の成果のひとつといってよいであろう。
 本書において特徴的なのは、儀礼の問題から権力構造・主従関係を探るという視点である。評者が思うに、著者の試論の特徴は「可視性」の重視にあるのではなかろうか。著者は主従関係成立の契機として見参を重視し、主従関係の確認の場として謡初に着目する。いずれも重臣層が一堂に会する場でなされるものである。これは著者が丹念に追究した書札礼の問題についても、同様であろう。書札礼とは、様々な要素を孕みつつも、双方の納得の上で確定をしていく。大名間で交わされる書状は、複数の重臣の居並ぶ場で披露が成されるものであろうから、その書状で選択された書札礼は家中にとっても周知のものとなる。それは言い換えれば、家中一同に大名の対外的立場について共通理解を得させる場(承認を得させる場)ともなるであろう。

 このように、本書には多くの成果が見られるが、論点のひとつである正統性の問題については未消化な部分が残った。著者は政治学の成果に基づいて、正統性を「狭義の正統性(王朝系統の正統性)」「正当性(社会的妥当性)」「正統性(倫理的正統性)」に三区分する。これは本書の論旨に深く関わるものであるが、その具体的説明は第二章第三節および結論の注釈においてのみみられ、やや説明不足の嫌いがある(この用語の初出は第一章第一節である)。本文中の早い場所、望ましくは序論で、見解を提示しておくべきではなかつたろうか。
 関連して、戦国大名徳川氏の権力が「国司・守護の支配の正統性」(狭義)を継承したものとする点(第二章第三節・結論)は、今少し検討の余地があるように思われる。この論拠は、年中行事「端午の節句」の位置付けだけにとどまり、いささか心許ない。そもそも徳川氏の本国である三河は、室町後期になると守護の検出が困難になる上、幕府奉公衆が多数確認されるなど、安定的な「守護家」が確立していたとは考えがたい地域である。そのような地域を対象として、国司・守護からの「正統性」継承を論じることは果たして妥当なのであろうか。
 もうひとつ、著者は戦国大名の権力構造について、宿老(家宰)を中心とした権力と評価する。宿老を中心とする権力という理解には異論はないが、本書における家宰の位置付けにはやや違和感をおぼえる。著者が議論の前提とした黒田基樹氏の「家宰」とは、大名の権限を代行可能な存在であり、単なる宿老とは質を異にする。著者は重臣筆頭である酒井氏を「大名の権限を代行できる存在」と評価し(第一章第三節)、儀礼を扱った節では家宰と表現している。しかし本書で論証されている酒井氏の権限は、あくまで一部の領域支配のために委譲されたものに過ぎず、徳川氏の家権力全体を代行しているわけではない。これは黒田氏の家宰論とは異なるものであり、敢えて家宰という評価をするならば、もう少し掘り下げた議論が必要であろう。

 以上、簡単ながら評者の見解を述べさせていただいた。評者の力量不足により、著者の意図を読み違え、的外れな議論を述べた箇所があるかもしれないが、著者のご寛宥を願うばかりである。戦国期といった枠組みを超え、一五世紀後半から一七世紀前半を中近世移行期として把握する必要性は、共通理解を得つつあるように思う。しかしながら、戦国期を生き残った大名の研究は未だ充分とはいえない。この点からも、本書で示された成果がいかに大きいものであるかを指摘して、擱筆することとしたい。
                       
(慶應義塾大学文学部非常勤講師)




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