久住真也著『長州戦争と徳川将軍―幕末期畿内の政治空間―』
評者:友田 昌宏
掲載誌:「中央史学」31(2008.3)



   1、本書の概要

本書は、主として元治元年(一八六四)末から慶応二年(一八六七)末という、長州処分問題を喫緊の課題とした時期に焦点を絞り、当該期の幕府内部における対立を、朝廷や諸藩との関係を絡めながら、国内政治体制の観点から論じたものである。これまで公表された論文をもとにしながら、それらを大幅に広げるかたちで構築された精緻な研究で、これまでの著者の研究の集大成であるとともに、昨今、中堅・若手を中心に議論が活発な幕末政治史研究のひとつの到達点をも示している。その目次は以下のとおりである。

 序章 本書の分析視角
 第一章 徳川幕府の復古と改革
  第一節 幕府復古派の形成と性格
  第二節 幕府復古派による施策の事例
  第三節 幕府復古政策の転換に向けて
 第二章 第一次長州出兵と元治元年の政治情勢
  第一節 将軍進発問題
  第二節 征長態勢の特質
  第三節 早期解兵路線の検討
  第四節 早期解兵路線の背景
 第三章 慶応元年将軍進発態勢の創出
  第一節 戦後処理をめぐる政局
  第二節 慶応元年三月二日の御沙汰書
  第三節 将軍上坂令の背景
  第四節 四月政変と将軍進発予告令
  第五節 将軍進発令の衝撃
 第四章 長州征伐遂行主体の形成と環境整備
  第一節 将軍家茂の参内と将軍滞坂構想
  第二節 将軍滞坂と対長州政策の始動
  第三節 将軍即時進発勅許の背景
  第四節 一〇月政変と幕府改造の実現
 第五章 板倉・小笠原の政治路線
  第一節 朝幕関係の修復
  第二節 外交問題と幕府改造
  第三節 一一月〜一二月末の政治情勢
 第六章 長州処分執行態勢の確立
  第一節 長州処分案の確定
  第二節 長州処分執行と宮中の動揺
  第三節 朝幕政権の「偽勅書」対策
  第四節 開戦への道
 終章 将軍畿内滞在態勢への道

それでは、各章についてやや詳しくその概要を紹介していきたい。

序章 本書の分析視角
 序章では、「長州戦争」、「政治体制」、「幕政改革」という三点から、研究史の整理と問題点が指摘され、本書の基本的な視角が明示される。まず、「長州戦争」に関しては、その目的を「徳川絶対主義」の確立に置き、遂行主体を幕府内のいわゆる「親仏派」に求める、石井孝氏らの見解を、幕政総体の考察を踏まえたものではないと批判、さらにかかる傾向は「政治体制の中での幕政を考察するという視点が弱い」ことによるとし、これまで幕府と長州藩との私闘と見られがちだった長州戦争を、「朝廷に対する「反逆者」をいかに処置するかという、当時の全領主階級を覆う国家意志の問題」、「政治体制の問題」と措定する。ついで「政治体制」に関しては、主として原口清氏の公武合体研究を踏まえ、長州戦争の遂行主体を、いわゆる「元治国是」(元治元年四月二〇日に朝廷から将軍に下された御沙汰書)によって成立した「朝幕政権」とする。そして、この「朝幕政権」の成立・維持に大きな役割を担った「一会桑」を「ユニークな政治勢力」としながらも、彼等を「政権」、「権力」と呼称する従来の研究には疑義を呈し、彼等はあくまで幕府内の一勢力であり、その政治路線を貫徹するには幕府本体との関係を良好に保ち、将軍家茂との関係に配慮する必要があったとする。最後に「幕政改革」に関しては、文久の幕政改革のヘゲモニーを握ったのが政事総裁の松平春嶽であったとする高木不二氏の見解をもう一歩進め、彼が改革を曲がりなりにも実現しえたのは、将軍家茂を前面に押し出しえたからだとし、このことは長州処分の執行体制とも無関係ではないとの視点を打ち出す。

第一章 徳川幕府の復古と改革
 第一章は、以後展開される本論の論旨に道筋をつける役割を担っている。すなわち、長州戦争期の幕府内対立の淵源を文久改革期に求め、朝廷尊奉による政治体制の再編、幕府権力の維持をはかる「一会桑」と鋭く対立したのは、文久改革に反対した「復古派」だとして、その実態を解明せんとするのである。著者によれば、「復古派」は、文久改革期に先行する井伊政権期、安藤・久世政権期に力を持ち、大奥・中奥に権力基盤を有する幕閣と、外交に長けた実務家肌の幕閣とに分けられるという。朝廷尊奉という点では一致しながらも、横浜鎖港の緩急をめぐって政事総裁職の松平直克と老中の板倉勝静が激しく対立し、ともに幕政から退くことになると、「復古派」の面々は再び幕閣にその名を連ねるようになり、「かつての幕府中心の国内支配、国政における幕府専断を夢見」て、文久改革派を排除、元治国是に反して横浜鎖港方針を転換し、参勤交代制と大名妻子の江戸居住を復活させようとした。そして、彼等から「京都方」として敵意を持たれた「一会桑」は、幕府の復古政策を転換させ、朝幕協調路線の貫徹をはかるため、かねてよりの懸案であった将軍畿内滞在態勢の構築を喫緊の課題として認識するに至ったとする。

第二章 第一次長州出兵と元治元年の政治情勢
 第二章は、第一次長州出兵を、軍事指揮権の問題と征長軍の早期解兵の政治的背景を解明することから、国内政治体制の問題として再検討している。元治元年七月の禁門の変により将軍の進発は現実的な政治課題として浮上するが、これは「国家の危機管理における将軍職掌に関わる」という意味において「朝幕政権」にとって重大な問題であり、「国内分裂の危機を克服するために、天皇と将軍が国家の指針を議する絶好の機会」としても捉えられた。実際、将軍家茂が進発に意欲を見せていたが、にもかかわらず、それがなかなか実現しなかったのは、「復古派」幕閣の反対があったからであり、朝廷からの長州追討令に対応するための人事強化として提起された小笠原長行の老中復帰に関しても彼が将軍進発を強硬に主張したため実現しえなかったという。そのような状況下にあって京都の一橋慶喜が西国諸藩に対して畿内の警衛や出師準備を命じたのは勅命に速やかに対応するためのあくまで暫定的な処置であり、その後江戸で改めて出師準備令が達せられたことについては、京都で発せられた出師準備令が江戸でも諸藩に伝達されているという事実から、そこに一会桑ら京都の幕府勢力と江戸の幕閣との対立を見出そうとする従来の見解を否定、江戸での出師準備令は、八月七日に将軍の進発が予告されたことをうけての当然の対応だとしたうえで、「この時点で、征長に関する軍事指揮権は、実質的に江戸の将軍が一元的に掌握することが確認された」と評価する。一方、将軍と征長総督との軍事指揮権をめぐる問題だが、一〇月初頭に総督徳川慶勝への全権委任が決定的となり、「この時点で、将軍進発実現は極めて疑わしいものとなった」という。その総督府の判断により、第一次長州出兵は「なし崩し的な解兵路線」に帰結するのだが、それは従来いわれているように、勝海舟の共和政治論に共鳴した参謀の西郷吉之助が一藩的利害を超えて早期解兵路線に転じたからではなく、「自藩をも含む征長動員諸藩の疲弊状態」によるものであり、長州への出兵に強硬な態度をしめしていた副将府および九州諸藩がそれに応じたのは「未だ将軍進発の様子も見えず、水戸藩の争乱もあり、朝廷・幕府間も「真之御合体」の状態」ではないからであった。そして、第一次長州出兵がかかる結果に終ったのは、「国内体制の中心軸が揺らいでいるからであり」、ここに改めて将軍の上洛、その実現の阻害要因たる「復古派」の政治の転換が課題として浮き彫りとなったと結論付けられる。

第三章 慶応元年将軍進発態勢の創出
 第三章は、慶応元年四月一九日に将軍進発令が実現する経緯を朝廷・幕府・諸藩によって構成される中央政局の動向に主眼を置いて論じたものである。征長軍の解兵後も、長州藩の処分内容を決定するため将軍の上洛が要請され続けたが、そのようななかで徳川慶勝からは有名諸侯を朝廷に召して長州処分を議するという案が提起された。これは将軍の上洛を前提とするものであったが、このまま将軍上洛の目途が立たなければ、将軍抜きの諸藩合議の席で事が決する危険性は十分に考えられ、会津藩は尹宮に働きかけ、この諸藩会議案を阻止し、引き続き将軍上洛の実現に向けて尽力することとなった。そして、将軍上洛実現の画期として著者が重視するのが、元治元年一二月の老中松前崇広の上京、慶応元年二月の老中阿部正外・同本荘宗秀の上京である。すなわち、京都に身を置いた彼等は将軍上洛に積極的な姿勢を見せるようになり、その結果起った「復古派」幕閣の分裂が将軍上洛を実現させたというのである。閣内の分裂を惹起し、将軍上洛実現の道筋をつけた客観的な要因としては、紀州藩主徳川茂承の奉勅東下、勅命をうけた阿部正外の東帰、松前崇広の登城再開、そして薩摩藩の働きかけによって朝廷から下された三月二日の勅命の存在が挙げられている。その結果、三月一八日には上洛をも考慮に入れた将軍上坂令が布告されるのだが、四月一日には将軍進発予告令が出され、将軍上坂の目的が長州征伐に定められる。これは、三月二日の勅命が長州藩父子および三条実美以下五卿の江戸護送と参勤等復古を否定する内容を含むものであったため、この勅書を本荘老中が持参する前に、その内容を凍結するような非常事態を意図的に作り上げ、局面を一挙に転換させようとしたからだという。進発を上坂と同様の意味として捉えた朝廷は、この進発予告令をうけて「神忌済次第早々必進発有之候様」と幕府に達するが、神忌後の四月一九日に、幕府が長州の「征伐」を明確に謳った進発令を朝廷に上申するに及び、両者の対立点がはじめて明確となる。長州処分は第一次出兵の戦後処理の枠内で行い、それにとどまらない政治体制に関する議論が交わされることを望んでいた朝廷や京都の一会桑としては、この進発令はまさに「衝撃」であったのだが、幕府側の意図を汲めなかったとはいえ「進発」を認めたことは確かであり、何よりもまずは将軍を畿内に引き出すことが第一義と考えてこれを不問に付したのであった。しかし、長州問題はこの進発令によって長州藩に罪状を承認させる段階に逆戻りしたと結論付けられる。

第四章 長州再征遂行主体の形成と環境整備
 第四章は、将軍家茂が上洛する慶応元年閏五月から一〇月までの中央政局を、従来の幕府対薩長という構図からではなく、朝廷・諸藩とのかかわりも念頭に置いたうえで政治体制をめぐる幕府内の対立として描き出している。まず、閏五月二二日の参内時に孝明天皇から家茂に下された勅語についてだが、著者はこれを薩摩藩の大久保一蔵や内大臣近衛忠房の意志が反映されたものと見る戦前以来の説を否定、一会桑と関白二条斉敬が作成し、それに肥後藩京都留守居上田久兵衛が潤色を加えた「簾前十三箇条」に沿ったものであることを実証している。これに込められた彼等の意図は、将軍を大坂に長期滞在させることで、薩摩藩やそのシンパである公家の影響力を排除するとともに、「復古派」の推し進める性急な長州再征路線を阻止し、「朝幕政権」の安定化をはかるというものであった。さらに、この勅語の内容を記した書取を阿部老中が返納したことについては、すでに幕閣との関係が改善していた松平容保が朝廷に働きかけた結果と見る。すなわち、容保はこのことによって幕閣からの反発を回避し、彼等に勅語の内容を受け入れさせようとしたのである。その結果、二三日の二条城の評議においては長州の処分内容が主たる議題となり、将軍の姫路への即時進発という計画は完全に立ち消えとなった。また、それとともに将軍家茂との距離が縮まったことで一会桑の意向が幕府の方針に反映されやすくなったとする。しかし、いくら家茂との距離が縮まったからといって阿部老中らを無視することできず、小笠原の老中格復帰にもかかわらず、彼等は依然「復古派」幕閣と良好な関係を保ってこそ、自らの路線を貫徹できるという情況に置かれていた。そして、親幕派諸藩の強硬論や幕府軍の士気の低下を背景として、一会桑が期限を過ぎても支藩主が出頭しない場合は長州再征もやむなしという方向に傾いたとき、逆に阿部・松前らの因循論に直面し、両者の関係は再び悪化するという事態に陥るのである。このような幕府内の対立に終止符を打ったのが、一〇月の兵庫開港・条約勅許をめぐる政争である。摂海に現われた英仏米蘭四ヶ国艦隊に単独で兵庫開港・条約勅許を容認した阿部・松前両名は勅勘を蒙り老中を罷免させられるが、これに対して家茂は将軍職の辞任を朝廷に奏請し江戸への東帰を決断する。家茂の東帰は朝幕協調路線の不安定化を招くもので、一会桑は親幕派諸藩の後押しをうけて条約勅許を朝廷から得るとともに、家茂の東帰を阻止した。そして、これを機に「復古派」は排除され、代わって板倉勝静ら文久改革派が廟堂に復活するのである。この政争の意義を著者はかつての幕府全盛期を夢見る幕府「復古派」路線が破綻し、畿内を中心として朝幕がまとまる方向へと前進していく契機としている。

第五章 板倉・小笠原の政治路線
 第五章は、慶応元年の一〇月政変を経て畿内に確立した板倉・小笠原を首班とする幕閣の政治路線を、長州問題と兵庫開港問題との絡み合いにおいて考察している。近年の研究では板倉・小笠原両名の老中復帰、さらには一橋慶喜の政務補翼、松平容保の政事相談就任をもって、「一会桑権力」が「権力」として絶頂に達したとされているが、著者はかかる見解を、一橋の政務補翼就任の背景について考察を欠いた、誤った説として否定する。すなわち、一橋の政務補翼はいわば朝廷の幕政に対する人事介入であり、長州問題が未決のまま東帰しようとした家茂への不信任表明であったというのである。このような朝幕間の危機を回避すべく肥後藩の上田久兵衛らの尽力により家茂の参内が画策され、一〇月二七日に実現を見るのだが、ここで再確認された大政委任は、対長州政策において幕府が早急に態勢を立て直すことを前提としたものであり、諸藩の輿論を封じたところに成り立ったきわめて不安定なものであったとする。そのようななかで、板倉・小笠原は兵庫開港問題という難題を抱え込むことになった。幕府は兵庫不開港をひとつの条件として掲げたからこそ、親幕派諸藩の周旋によって朝廷から条約勅許を引き出しえたのであり、板倉・小笠原としてみれば、朝廷や諸藩からの信頼を回復するためにも兵庫不開港を諸外国に認めさせる必要があったのである。しかし、江戸に残る「復古派」はこれに反し兵庫開港を容認する立場を取っており、長州処分問題もあって畿内を離れられない板倉・小笠原はこれに対して大老酒井忠績および若年寄酒井忠●【田+比】の罷免というかたちで自らの政治路線の貫徹をはかったと見る。内心では兵庫の代港として下関の開港もやむなしと考えていた小笠原が、兵庫不開港・代港不可の立場を取らなくてはならなかったその理由について著者は「長州問題を強力に推進するためにも諸藩の輿論に配慮する必要があ」ったためとし、「内政問題である長州問題と外交問題が政権の死活に関わるところでつながっていた」としている。

第六章 長州処分執行態勢の確立
 第六章は長州処分問題をめぐる板倉・小笠原と一会桑の対立と、この問題に対する朝廷の動向を考察し、「朝幕政権」が長州戦争へと向かっていく過程について考察している。広島で長州藩使節を糾問し、その結果服罪の証拠を得られたとして永井尚志らが帰坂したところ、長州処分問題をめぐり、板倉・小笠原と一会桑の間で対立が生じた。すなわち、幕府軍の士気の低下を危惧し、薩摩藩の懐柔を目論む板倉・小笠原の立場は、再度の糾問は行わず、藩主父子隠居謹慎、領地削減などをもって寛大な処置を下すべきだというもので、一方の一会桑の立場は、今回の長州藩の態度は幕府を愚弄するものであり、再度糾問使を派遣し、藩主父子が出頭の命に従わなければただちに征伐に及ぶというものである。対立の末、軍配は前者にあがるのだが、この結果について著者は「復古期の幕府によって起こされ、一会桑に担われた長州再征の名義は、板倉・小笠原の主導する幕府の方向転換により、巧妙に政治社会の表面から消し去られた」とする。この板倉・小笠原の路線に従い、朝廷に長州処分の奏問がなされ、慶応二年正月二二日に朝廷から勅書が下されるが、この間、薩摩藩の後押しをうけた内大臣近衛忠房の策動や尹宮や二条関白の動揺があった。さらに、広範に偽勅書が出回ることにより長州処分をめぐる朝幕の不一致が長州藩によって喧伝され、長州藩の寛大処分を求める芸州藩世子浅野茂勲らの上坂計画が浮上する。このようななか行われた四月六日の一会桑の参内には、「朝幕不一致の風聞を取消し、長州処分が朝幕一致の最高国家意志にほかならないことを天下に改めて確認するためのセレモニーであった」との評価が下される。そして、「正激分離」策が破綻を来たした段階に至り、「朝幕政権」は長州戦争への道を選択することになったと結論付けられている。

終章 将軍畿内滞在態勢への道
 終章は本書のまとめと若干の補足、今後の展望について述べている。結果として「朝廷と幕府、特に幕府権威の決定的失墜と国内の政治的無秩序化の進行」を招来したものと捉えられがちな長州戦争を、著者はその後の慶喜政権が畿内を主たる権力基盤としたことをもって「畿内において朝幕一致を柱にした、新たな政治空間が形成され」る契機として捉えなおし、「長州戦争によって、明治維新の政治過程における新たな段階(ステージ)が用意されたのである」と本書を締めくくっている。

   2、本書の評価点と疑問点

 それでは、以下、評者から見た本書の評価点と疑問点をそれぞれ述べていきたい。評価点としては、まず、先行研究の成果、あるいは疑問点や不足点がきわめて的確に捉えられ、そのうえで自説が展開されていることである。研究者として至極当然のことのように思われるが、そういった基本姿勢がややもするとなおざりにされる昨今の傾向のなかで、著者の仕事は基本の大切さを身をもって示してくれている。さらに、その論は日本史籍協会叢書や『孝明天皇紀』などの刊本を中心とする広範な史料を有効な論拠として活用し、おおむね説得的な展開を見せている。
 ついで内容面における具体的な評価点だが、第一に原口清氏の「国家意志」論を念頭に置いて、これまで幕府対長州という視角から捉えられがちだった長州戦争の過程を政治体制の問題として描ききったということである。特に将軍の進発を単なる戦争の問題としてではなく、長州処分という国家的事業を遂行する政治主体の形成、「朝幕政権」の安定化という視点から明確に論じた功績は大きいと言わねばなるまい。
 第二に政治体制をめぐる幕府内の対立を浮き彫りにし、当該期の幕府研究の水準を大きく押し上げたことである。幕府研究の本格化の呼び水となったのは、著者も指摘するとおり一会桑研究であったが、その代表的な研究者である家近良樹氏は『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、一九九七年)をものした後、今後の幕府研究の課題として一会桑と鋭く対立した江戸の幕閣も含めた幅広い考察を挙げられた(1)。この課題は本書の登場により一応まとまったかたちとして回答が出されたと言えるであろう。
 第三に、奈良勝司氏も指摘されるとおり(2)、長州戦争に至る過程が単線的にではなく複線的に描かれているということである。具体的には、慶応元年五月の将軍上洛が、一会桑が求める朝幕一致体制の安定化のためではなく、長州再征によって、朝廷から長州藩主父子および五卿の江戸護送や参勤等復古拒否を押し付けられるような事態を回避するという意図のもと、「復古派」の阿部正外らを中心として断行されたとの指摘である。また、このような上洛をめぐる両者の意図の違いが、文書上に現われる「進発」という語句の解釈を通じて明らかにされるあたりは、史料を注意深く読み込んだ成果であり、評者個人にとっても大いに教えられるところであった。

 一方、本書の疑問点である。前述のとおり本書では広範な史料が用いられているが、そのなかには諸藩が探索によって得た政治情報がある。こういった史料は諸藩が極秘裏に収集したものもあるだけに興味深いが、間接的な情報であるため客観的事実を確定する材料として使用するには慎重を期す必要がある。評者の目から見ると、その点で著者にはいささか慎重さに欠ける面があるように思えた。例えば、@慶応元年四月一日の将軍進発予告令は、長州藩主父子および五卿の江戸護送と参勤等復古拒否を命じた朝廷の御沙汰書が本荘老中によって江戸にもたらされることを想定し、それ以前に発せられたという説だが、その根拠として挙げられているのは在府の薩摩藩士柴山良助が国許へ宛てた報告書である。そして、A慶応元年一一月の若年寄田沼意尊の上京には、大老酒井忠績・老中水野忠精らによる将軍東帰の思惑が介在していたという説は、在府肥後藩士が国許に宛てた報告書にその根拠を求めている。幕閣の意図を探るのに諸藩の報告書をそのまま根拠として用いてしまってよいものだろうか。その際、情報の発信源とともに報告書を書いた人物が当時どのような立場にあったのかに注意する必要がある。特に@の場合、幕府と敵対する薩摩藩の情報であるだけにより慎重になる必要があり、さらにはその論点の重要性から言っても信頼性の高い史料によって情報に信憑性を付与する作業が求められよう。
 次に内容において二点ほど疑問点を提示しておきたい。第一は幕府内の派閥の捉え方についてである。これは奈良氏も指摘されているところだが(3)、大奥・中奥に太いパイプを持つ諏訪忠誠らと外交事務などに通暁した阿部正外らを同一の派閥として捉えてよいものかという疑問が残った。なるほど確かに彼等は朝廷への敵対という一点においては共通した立場にあったと言えよう。だが、両者をともに「文久改革以前の旧来の制度を理想とし、幕府の御威光を掲げて全盛期への回帰を夢想する」勢力、あるいは「最高国家意志の決定権をあくまで幕府が掌握し、朝廷や諸藩には幕府に対する従属的な位置を与える国内体制を指向する」勢力としてまとめ切れるであろうか。諏訪らとは異なり、実際に諸外国との外交に当たった経験のある阿部らにとって、問題の焦点は国内の政治体制いかんよりもむしろいかに開国路線を貫徹するかにあったのではないか、さらに言うなら彼等にとって朝廷は開国路線を貫徹するうえでの障害であり、それゆえに朝廷を敵視したのではないかと評者などには思える。横浜鎖港を棚上げするために朝廷からの将軍上洛要請を受け入れたという事実を見れば、阿部の問題関心がいずこにあったかが分かるであろう。以上の観測がもし正しいとするなら、両者を「復古派」としてひとくくりにすべきでなく、慶応元年二月から三月にかけての「復古派」の分裂も、それまで歩調をあわせてきた、異なる派閥が、将軍上洛問題を原因として対立関係に入ったと見ることができよう。
 派閥のことでもうひとつ疑問点を挙げるとすれば、著者が、その影響力を重視する従来の見方を執拗に否定しているところの「親仏派」は、いったい幕府内の派閥関係のいずこに位置づければよいのかということである。評者も「親仏派」が従来の研究が指摘するような絶大な影響力を幕政において誇っていたとは思わないが、さりとてまったく無力な存在であったとも思わない。というのも、「親仏派」の小栗忠順・栗本瀬兵衛(のちの鋤雲)・山口直毅・浅野氏祐・向山一履らは、著者が言う「復古派」の阿部正外とも「文久改革派」の小笠原長行とも深い関係があり、さらには慶喜政権においても重要なポストを担っているからである。近年奈良氏によってこの勢力に関する新たな研究が公にされている(4)ということを鑑みれば、単に影響力を過大視する先行研究を否定するだけでなく、新たな位置づけをすべきではなかったと思われるのである。
 内容面の第二の疑問点は将軍上洛を長州処分に留まらない政治体制に関わる問題として打ち出したにもかかわらず、なぜ考察対象とする時期を、元治元年末から慶応二年末という長州戦争期に限定してしまったのかということである。勿論、著者は長州処分問題が政治課題として浮上する以前の文久二年頃から、公武一和実現のため将軍の畿内長期滞在を望む声があったことを明言している。しかし、本格的な叙述は元治元年末からであり、それらは単なる指摘に留まる。それゆえか、白石烈氏が指摘されるとおり(5)、ときに長州処分問題が主、政治体制としての将軍畿内滞在構想が従となっているかのような観を与える。そのような混乱は本書の書名にも現われている(本題が「長州戦争と徳川将軍」、副題が「幕末期畿内の政治空間」。もっとも書名については出版社の思惑もあろうから著者の問題意識の混乱ばかりにその理由を求めるわけにもいかないのだが)。本書が本格的な考察対象とする時期以前にも将軍は二度上洛しているのだから、その時々の政局のなかで将軍の畿内滞在構想がいかに浮上し、どのような勢力の、どのような動きが見られたかを具体的に考察する必要があったように思われる。文久改革と第一次長州出兵の間の約二年間が考察の対象からはずされていることは、奈良氏が本書の大きな問題点として指摘されたところだが(6)、以上の意味において評者もこのことを重視したい。それとともに本書の延長線上に文久期に関する著者の本格的考察が公にされることを期待するものである。
 もっとも、各局面における将軍畿内滞在構想の意義は、幕府が置かれている政治的状況を加味し、単一に捉えるべきではないとも考える。長州戦争期における将軍畿内滞在は、元治国是の延長線上に「朝幕政権」の安定化を目指したものであったが、孝明天皇の死去、朝廷内における尹宮・二条関白の影響力の減退により「朝幕政権」が形骸化するなかで船出を余儀なくされた慶喜政権にとって、将軍畿内滞在はいきおい微妙に異なる意味を持たざるをえない。そのことはおそらく賢明な著者なら十分認識しているであろうと思う。慶喜政権はいかなる政治体制を目指して将軍畿内滞在態勢を維持しようとしたのか。「長州戦争によって、明治維新の政治過程における新たな段階(ステージ)が用意されたのである」という曖昧な表現に逃げることなく、荒削りでも最後にそのことに対する具体的な展望が欲しいところであった。

 以上、僭越を顧みず、私見を述べた。家近氏は本書について「専門書としては大変読み易く、主旨が理解しやすい(7)」と述べておられるが、評者のように浅学菲才で、幕末の中央政局に無知なものからすれば、本書の内容はきわめて難解であり、数度読み通してやっと内容が頭に入るくらいであった。内容紹介が長くなってしまったのもそのことと関係があろう。しかし、その苦闘の末に得るものは大きく、専攻するテーマや時代を異にした方々にも是非この高峰に挑戦して著者の研究に学んでいただきたいと思う。内容紹介において誤解がないこと、評価点・疑問点が的外れでないことを祈るが、もしそのような点があったとすれば、それは一に評者の乏しい能力ゆえであり、ここに御寛恕を請う次第である。


(1)家近良樹「明治維新史研究の過去と現在―対幕府研究を軸にして―」(徳永光俊編『二〇世紀の経済と文化』、思文閣出版、二〇〇〇年)、二〇二頁。
(2)奈良勝司「書評 久住真也著『長州戦争と徳川将軍―幕末期畿内の政治空間―』」(『日本史研究』五三六号、二〇〇七年)、九一頁。
(3)同右、九一〜九三頁。
(4)奈良勝司「幕末の幕府改革派勢力の動向―『条約派』有司層の政治姿勢―」(『日本史研究』四七六号、二〇〇二年)。
(5)白石烈「書評 久住真也著『長州戦争と徳川将軍―幕末期畿内の政治空間―』」(『関東近世史研究』六二号、二〇〇七年)、一〇七〜一〇八頁。
(6)奈良前掲書評、九二頁。
(7)家近良樹「書評 久住真也著『長州戦争と徳川将軍―幕末期畿内の政治空間―』」(『歴史評論』六八九号、二〇〇七年)、九八頁。





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